Rosariel.com
TearyDoll


32



 零を見つめる男の双眸は深い暗褐色であり、その瞳の奥には謎めいた闇があった。

 50歳に届くかどうかという面立ちは端整でありながら堂々としており、その唇に苦みの走った微笑を浮かべている。

 だが、男の持つ得体の知れない雰囲気が、零に不可解な畏れを抱かせた。

 外見は礼儀正しい紳士に見えるが、その内には激しく厳しいものが宿っているように見える。

「ねえ、行きましょうよ、恭介さん。こんな子は放っておいて」

 華やかな深紅の薔薇が描かれた黒いドレスを着た女が、男の腕に自分の腕を絡めながら、拗ねたような口調でそう言った。

 その声に何となく聞き覚えがあるような気がした零は、グラマラスなボディにピッタリとフィットしたドレス姿の女性を見つめ、思わずセピア色の瞳を瞠っていた。

(──あっ…あの人だ──マンションのエレベーターで会った……)

 すると視線に気づいたのか、彼女は怪訝そうに双眸を眇めて零を見返し、美しい顔に嘲笑うような表情を浮かべた。

「あら、あなた……こんな所で何をなさっているの?
 見違えちゃったわ、昨日はずいぶんとみすぼらしい格好をなさっていたから。
 でも、ここはあなたのような人が来られるような場所ではないでしょ?
 ──それとも、さっそく別のパパでも見つけたわけ?」

 優しい声ではあるが鋭い棘を持つ言葉を放った彼女は、侮蔑するような視線を零に注ぐ。

 何を言われたのか一瞬理解できず、驚いてセピア色の瞳を大きく見開いた零を見下ろし、男は面白そうに低く笑った。

 しかし言葉にしては何も言わず、うっすらと微笑みながら零の反応をうかがっている。

「……あの、あなたは誤解しているんです。
 あの時、私が行きたかったのは54階で、53階ではなかったんです。
 私の勘違いだったんですけど──ごめんなさい、あなたにもご迷惑をおかけしました」

 頭を下げた零を見つめ、女は怪訝そうに整えられた眉をつり上げた。

「54階って……あのマンションの最上階は53階じゃないの」

「最上階の所有者は、あのマンションのオーナーなのだ。
 つまり、彼女はその男の部屋で暮らしている。
 おまえの元愛人に比べると、ずっと大物だと思うがね──鷲塚海琉は。
 綾子、この美しいお嬢さんを侮辱した事を、おまえも謝るべきではないかな?」

 零が口を開く前に、男が淡々とした口調で説明した。

 綾子と呼ばれた女は驚愕した様子で男を見返し、そしてばつが悪そうに長い睫毛を伏せた。

「だって、恭介さん……この子のせいで、結局私はあの人と別れることに──」

「違うな。このお嬢さんが現れなくても、おまえとあの代議士センセイはとっくに切れていた。
 おまえは自分のプライドを守るために、彼女を責めているにすぎない。
 あまり見苦しい真似をさらすと、今度は私の援助も受けられなくなるぞ。
 おまえ程度の女はどこにでもいる──餌が欲しければ、精一杯イイ女を演じることだ」

 男の穏やかな口調が、突如として厳格な響きを帯び、その痛烈なセリフを聞いて零は思わず呆然と立ちつくしてしまった。

 残酷ですらある言葉を投げつけられた女は、屈辱と衝撃に顔色を青ざめさせながら、不意にきつい眼差しを零に向けた。

「──まさか、私はこの子よりも劣っているとでも? そう言いたいの、あなたは?」

 精一杯の虚勢なのか、彼女は傲然と細い顎をそびやかす。

 しかし男はそれを冷たく一瞥すると、立ちすくんでいる零の前に立ち、突然ぐいっと指先で顎を持ち上げた。

「見るがいい、この目を──顔立ちだけを比べても、おまえよりは遙かに美しい。
 今でも十分なほどに魅力的な花だが、磨きをかければさらに輝くだろう。
 うまく仕込めば、おまえなど足下にも及ばぬほどの存在になる。
 あの鷲塚が執着を見せるほどの女だ……抱き心地は良さそうだな」

 くくっと低く喉の奥で笑う男の声を聞いた瞬間、零は全身が粟立つような恐怖を覚えた。

 紳士然とした見かけとは大きく異なり、目の前に立つ男は酷く危険な匂いがする。

 そして何より、鷲塚の事をよく知っているような口振りが、零の脳裏に激しい警鐘を鳴らしていた。

「……ごめんなさい──連れが待っていますので、私は失礼します」

 一歩後ずさり、男の手から逃れようとした零は、男の暗褐色の双眸に強く見つめられた途端、その場から動けなくなった。

「どうした、何を怯えている? 私の事が怖くなったかね?」

 男の両手があたかも慰めるように両肩に置かれ、そしてゆっくりと両腕へと滑らされる。

 両サイドから強い圧迫を感じた零は、自分の身体がガタガタと小刻みに震えているのを頭の片隅で感じていた。

(この人は怖い……まるで私を──海琉を憎んでいるような目をしている)

 男の声音や口調にはどんな感情も伺えなかったが、暗褐色の双眸の奥底で熾火のように怒りと憎しみが燃えているように見える。

「君の名前は、鳴川零──鷲塚海琉の新しい愛人だ、そうだな?」

 ゆったりとした深い声が、不意に零の名を呼んだ。

 びくりと身体を震わせた零は、その手から逃れようと身を引いたが、締め上げられるように両腕を掴まれ、思わず眉根に苦痛を刻んだ。

「私はバカは嫌いでね……君はそうじゃないだろう?
 この細い腕を折られたくなければ、私の問いに答えた方が利口だぞ」

 残忍な響きを宿した声と共に、零を掴む両手にさらに力が込められる。

 くっと唇を噛みしめた零が、苦痛に喉を反らせると、男の突然の豹変に唖然としていた女が、慌てたように男の肩に触れた。

「ちょ、ちょっと恭介さん──帰りましょうよ。
 こんな所を誰かに見られたら、出入り禁止になってしまうわ」

 その瞬間、零をつかんでいた片腕が空気を切って跳ね上がり、背後にいた女の顔を激しく打ち据えた。

 悲鳴を上げて床に倒れた女には目もくれず、男は零を見つめたまま酷薄な笑みを浮かべた。

「……あなたは……誰……?」

 辛うじてそれだけを口にした零を見下ろし、軽く首を傾げた男は、くすくすと笑った。

「これは失礼──あまりの興奮に名を名乗ることすら忘れていたようだ。
 私の名前は御山恭介、君の大事な恋人と同業者だ。
 ちなみに私と君は仇同士でもあるのだよ。
 君は、私の大切な子分を殺してしまったのだから。
 親として、仇討ちをしたいと思うのは、当然の気持ちではないかな?」

 男が御山恭介と名乗った瞬間、零は凍りついたように顔を青ざめさせた。

 つい先ほどまで話題に上がっていた人物が目の前にいる──その衝撃に零は戸惑い、彼の顔を見上げることしかできなかった。

 と、その時、重く張りつめたような空気を裂くように、鷲塚の声が響いた。

「──そこまでだ、御山。
 この場で蜂の巣にされたくなかったら、零を放せ」

 カツンと大理石の床で靴を鳴らして現れた鷲塚が、黒光りする拳銃を御山に向けて立った。

 零を間に挟むようにして鷲塚と向かい合った御山は、唇の片端をつり上げて嘲笑を浮かべると、零の身体を素早く反転させた。

「大切なオンナを盾にされたまま、おまえに私が弾けるのか、鷲塚?
 撃てなければ、この子はおまえの最大の弱点として、何度でも利用させてもらうぞ。
 そうなれば、いずれおまえは私の足下に屈服せざるをえなくなる」

 嘲るような御山の言葉を聞き、鷲塚の鋼の双眸をすっと眇められた。

「女子供を自分の盾にしても生き残りたいか。
 言え──何のためにわざわざ単身で乗り込んできた?」

「私はこんな所で死ぬわけにはいかないし、この子を盾にしたことで良心が痛むような綺麗な極道ではない。
 私がここに来た理由は、この子の顔を直接見ておきたかったからだ。
 思っていた以上に美しい──いい拾いモノをしたな、鷲塚。
 それともう一つ、私は一人でここに来たわけではないぞ。
 我が組織の精鋭を、すでにこのビルの周囲に潜ませてある。
 それでも私を弾く気があるのか、鷲塚?
 一般客が巻き添えを食らうのは、さすがのおまえでも嫌だろう?」

 くつくつとおかしげに笑う御山の声は、零の背筋を凍らせるほどに冷たいものだった。

 口調が淡々としているだけに、その言葉の裏にある意味が一層の真実味を帯びる。

 鷲塚は無言で眉根を一瞬だけしかめたが、その言葉に特に動揺した様子も見せず、無表情で銃口を御山の頭部に向けた。

「貴様が零を放さなければ、この場で額に風穴を開けてやる。
 撃てないと思うなら、試してみるか?
 身を縮めて零の陰に隠れなければ、貴様を弾くことなど訳はない。
 もっとも、北聖会の御山がそんな無様な姿を晒したなら、そんな男を頭にした北聖会もいい笑い者だがな。
 しかし、それで北聖会が崩れるなら、俺がリスクを負う価値もあるというものだ」

 鷲塚の言葉を聞き、御山は不愉快そうに片眉をつり上げた。

「九頭竜組を潰しておいて、まだウチを削ろうというのか?」

「それだけで手打ちにしてやっただけでも、ありがたいと思え。
 零に手出しをすれば、九頭竜のバカ息子と同じ運命を貴様にも辿らせてやる。
 手段は選ばない──何と言っても、貴様は全世界で一番嫌いなヤツだからな」

 表情の失せた鷲塚の秀麗な顔に、不意に獰猛な微笑が浮かび上がり、無機質な鋼色の双眸が危険極まりない光を放った。