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TearyDoll


34



 新堂は表情を消してうなずくと、怯えたように鷲塚を見上げた綾子に近づいた。

「──ほら、立て。いつまでもへたり込んでいると、笑われるぜ」

 新堂に片腕をつかまれた途端、我に返った綾子が大きな悲鳴を上げた。

「いやっ! 放してよ、あの人の事なんて、私は何も知らないんだからっ!!」

 腕を振りほどくように暴れる女に舌打ちをし、新堂は両腕を素早く後ろ手に拘束する。

 苦痛に満ちた叫び声が放たれ、零はその声にびくりと身をすくませた。

「──止めて、新堂さん! その人に酷い事をしないでください」

 零の懇願に思わず驚き、手を緩めかけた新堂だったが、隙を狙ってもがこうとする女の動作に再び気を引き締めた。

 綾子を助けようと近づいた零は、新堂が無言でかぶりを振ったのを見て、顔を青ざめさせた。

 しかし、彼の視線の先に鷲塚がいることを悟り、零は振り返ってもう一度言った。

「お願い、海琉──この人に何もしないで、家に帰してあげて……」

 その瞬間、鋼の双眸が刃のように鋭く光り、零は鷲塚の厳しい表情に恐れすら抱いた。

「零、これはおまえが口出しすることじゃない。黙っていろ」

 冷たく突き放すような鷲塚の口調に、零はびくりと身を震わせ、恐怖を滲ませた綾子の顔にセピアの瞳を向けた。

「それは判ってるけど……でも、こんなに怖い思いをしている人を見て、見ない振りをするなんてできないよ。
 彼女は巻き込まれただけで、本当に何も知らないのかもしれない」

 捕らえられ、拘束された時の恐怖を思い出し、零は青ざめた唇を震わた。

 暁の空のように美しい双眸に透明な雫が浮かぶのを鷲塚は無言で見下ろしたが、すぐに視線を新堂に向けた。

「新堂──連れて行け」

「──海琉ッ!」

 鷲塚の命令に、新堂は躊躇いを見せずにうなずくと、悲痛な声を上げた零にはもはや構わずに歩き始めた。

「いやーっ、止めて、放してよおっ!!」

 金切り声を上げる綾子を、新堂は引きずるようにして強引に引っ張っていく。

「新堂さん! ──アッ!!」

 愕然とした零は追いすがろうとしたが、不意に自分の身体が宙に浮き、思わず短い悲鳴を上げていた。

 背後から伸びてきた腕に身体を抱き上げられ、零は鷲塚の顔を見上げた瞬間、全ての言葉を失った。

「零──おまえは、俺が何者なのか、忘れたわけじゃないだろう?」

 感情を伺わせない冷たい双眸で見つめられ、零は強靱な腕の中で思わず身を固くしていた。

 血の気を失い白蝋のように白くなった繊細な美貌、そして畏怖と不安を滲ませて揺れるセピアの瞳──そんな零の様子を見て、鷲塚は何を思ったのか、踵を返して長い廊下を歩き始めた。

「海琉……歩けるから、もう下ろして──」

 鷲塚の内に、何かすがりつけない硬質な畏れを感じて、零は抗うように身を捩らせた。

 しかし無言の拒絶に遭い、零は訳の分からない不安に苛まれながら、鷲塚に腕に身を委ねるしかなかった。

 
 柱の影から様子をうかがっていた薫と古谷は、ほとんど同時に小さなため息をついていた。

「──おい、お嬢、助けてやんなくていいのか?」

 古谷の問いに、薫は美しく整った片眉をつりあげると、皮肉っぽい微笑を唇に浮かべた。

「助けるって、誰を?」

「そりゃもちろん──零ちゃんの方だろ」

「ああ、あの二人は放っておけばいいのよ、とりあえずはね。
 零ちゃんだって、海琉が極道だって判って戻ってきたんだから、真剣に覚悟は決めないと。
 もっとも、どれだけ零ちゃんが嫌がったところで、海琉は二度と手放さないだろうけどね」

 ふふっと笑った薫を見返し、古谷はわずかに首を傾げた。

「まあな、あの御山相手に啖呵切ったんだから、鷲塚にしてみりゃ堪らないだろうぜ。
 ──それにしても、素人さんは怖いねえ、マジで恐いもの知らずで。
 御山の恐さも、鷲塚の恐さも、あの子はな〜んにも知らねぇんだからな。
 まっ、知らない方が幸せって事もあるけどよ」

「いろいろあったから、海琉の恐さはちょっとは判ってると思うけど。
 でも、惚れた弱みで、自分自身に対しては何をされてもいいって思ってたりするのよ。
 ただ、零ちゃんは、海琉が他人に対して何をするかってとこまでは、一度も考えた事なかったはずなのよね。
 あの子は思いやりのある子だから──それで海琉が許せなくなっちゃうと悲劇だわ」

 深いため息をついた薫は、同意するようにうなずいた古谷に流し目を送った。

「それにしたって、御山には用心しなきゃいけないわね。
 あんたも気をつけなさいよ、古谷──賠償金をふんだくったせいで、あんたもあいつから睨まれてるんだから」

「幸か不幸か、零ちゃんのおかげで、御山の意識は俺からは逸れたと思うがね。
 とりあえずは、御山の動きから眼を離さないようにしねえとな」

 くくっと低く笑った古谷を見返し、薫は軽く肩をすくめて見せたが、ふと思い出したように眉根を寄せた。

「そう言えば、あいつ、最後に何だか言い残していったわよね。
 『安斉』って名前がどうとか……聞き覚えある?」

「北聖会系列の大物にはいねえ名前だが、チンピラレベルになると調べてみねえとな。
 ただ、御山の口っぷりからすると、末端ってえ雰囲気じゃねえが」

 考え込むように両腕を組んだ古谷は、しばらくしてから特徴的な鷲鼻を軽く引っ張った。

「まあ、零ちゃんにたかる虫には、時々とんでもないのが紛れ込んでやがるから、ちょいと真面目に調べるかね。
 また家を吹っ飛ばされるのは、さすがに御免だからな」

「そうして──あたしもあんな騒ぎは二度と御免だわ」

 つい2週間前に起こった荒神会を揺るがす大騒動を思い出し、薫は顔を不愉快そうにしかめたが、次いで何故か楽しげな微笑を浮かべた。

「さてと、海琉のあの様子を見ていると、どうやら会合はお開きみたいだから、あたしたちも解散しましょうか。
 あたしは、高宮と新堂君に入れ知恵してから帰るけど──あんたはどうするの?」

「俺は東山サンと、ちょろっと地下で遊んで帰る。
 新堂も誘ってやろうかと思ってたんだが、あの様子じゃ無理かねえ。
 まあ、時間が空いたら来いって伝えといてくれ」

 にやりと人の悪そうな酷薄な笑みを形作った古谷は、スーツの胸ポケットから色の薄いサングラスを取りだし、高い鼻の上にのせた。

 そうすると、黒シャツにダークグレーのスーツ姿ということもあって、どこから見てもカタギの職業に就いている男には見えなくなる。

「……あんた、それじゃまるっきり極道スタイルじゃないのよ」

 呆れたように薫が呟くと、古谷は悪戯っぽくウィンクしてみせた。

「いいってことよ、ヤクザに憧れる女は、結構世の中多いんだぜ。
 連れが二枚目なヤンエグなんだから、これぐらいインパクトが無いと、俺が霞むだろ」

「──呆れた、若い東山社長に張り合ってどうすんのよ?
 まあ、いいわ、無理しない程度に頑張ってね。
 ギックリ腰になったら、うちの病院で治療してあげるから」

「……そこまで歳食ってねぇよ」

 むっとしたように唇をねじ曲げた古谷を見て笑い、薫はぴらぴらと片手を振りながら、新堂の後を追って歩き出した。


 死に物狂いで暴れる綾子を突き飛ばしたい気分に駆られながら、新堂は<コロッセウム>の総合管理室の重いドアを開けた。

 いくつものモニターをチェックしていた高宮と東山が、女の悲鳴に驚いたように振り返った。

「──放しなさいよっ! こんな事をして、ただで済むと思ってんの!!
 私を誰だと思ってるのよっ!」

「……うっせー女。マジで殴りたくなってきた」

 うんざりした様子で顔をしかめた新堂は、パイプ椅子に綾子を座らせると、そのまま両手首に手錠をかけた。

「何だ、この女は?」

 突然現れた北聖会の御山と、零を連れて<コロッセウム>を出た鷲塚の行動をチェックしていた高宮は、驚きを表面上には全く表さずに問いかけた。

「御山が連れていた女です──捨てられたみたいですけどね。
 ただ、御山に関して知ってる事があれば聞き出せって、若頭が言ってました」

 盛大なため息をついた新堂は、ガタガタと椅子を揺らして暴れている綾子を冷ややかに見下ろした。

「おや、可哀相に。御山会長に殴られたところが、痣になっている。
 綺麗な顔が台無しだな」

 管理室のモニターで全てを見ていた東山は、唇に謎めいた微笑を浮かべ、悔しげに唇を噛みしめた女の顔を見下ろした。

「恭介さんの事なんて、私は何も知らないんだから──訊いたって無駄よ」

 痣になった顔を隠すように背けながら、憎しみを込めた声でそう言った綾子は、軽く腰を屈めた東山を睨みつけた。

「ふ〜ん、自分のパトロンが北聖会のドンだって事も知らずに付き合っていたわけかい?
 君のような賢くて美しい女性にしては、随分と危険な賭だな。
 彼が何者なのか、知りたいと思った事は無かったのか?」

 眼鏡の奥で理知的な双眸を細め、穏和にさえ見える微笑みを浮かべた東山を、綾子は険のある眼差しで見返した。