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TearyDoll


36



 鷲塚の腕に抱かれたまま車に乗せられ、零は強引にマンションに連れ帰られた。

 男の総身から発するひどく静かな怒気と緊張感に、零の身体は敏感に反応し、怯えてすくみあがってしまう。

 何が鷲塚を怒らせたのか──多分、彼の「仕事」に、零が余計な口出しをした事が原因なのだろう。

(……あの女性は、どうなっただろう)

 高宮や新堂が彼女の事を傷つけるとは思いたくなかったが、彼らの職業が「ヤクザ」とか「暴力団」と言われていることを考えると、零の心は重く沈んだ。

 高宮や新堂たちにとって鷲塚の命令はほとんど絶対で、彼に命じられれば、人を痛めつける事や殺すことさえ辞さないのだろうか。

(──誰も傷ついてほしくない……海琉が人を傷つけるのも嫌だ)

 冷静に諭そうとする理性と、混乱して高ぶった感情が葛藤を起こし、零の胸の中で激しい渦を巻いている。

 片腕を強く掴まれてエレベーターに乗せられた零は、小刻みに震えだした唇を隠すように片手で口許を覆い、涙が溢れ出しそうになっている瞳をきつく閉ざした。

 そんな零の様子を、鷲塚は冷たく凍えた鋼の双眸で見下ろしていたが、すっと視線を上方のパネルへと向けた。

 その瞳の奥底に全ての感情は封じ込められていたが、一瞬だけ哀しみにも似た苛立ちが過ぎり、その後生々しい貪欲な餓えが閃いた。

 零を失いたくなければ、再び部屋の中に閉じこめてしまった方がいいのかもしれない。
 そうすれば、誰かに奪われる事もなく、余計な不安を感じなくてすむだろう。

 すでに血に濡れ、紅く染まった手を持つ己に比べ、零は天使のように白く清らかで、あまりにも無垢だった。

 そんな存在を、血と暴力に溢れた世界に住まわすこと自体が間違いなのだろうか。

 だが、今さら零を元の世界に帰すことはできない。

 柔らかな優しい腕の中に囚われてしまったのは鷲塚自身──掴んだその手を放す気などさらさら無かった。

 零の腕を拘束したまま、鷲塚は玄関ドアの鍵を開け、そのままベッドルームへと直行した。

 愕然としたように一瞬躊躇いを見せた零を、鷲塚は足下からすくい上げ、広いベッドの上に放り出した。

 薄いオレンジ色の繊細なドレスに包まれた華奢な身体を、ベッドは柔らかく受け止める。

 スーツのジャケットを素早く脱いだ鷲塚は、零に起きあがる隙を与えず、そのままシーツに縫い止めるようにしてのし掛かっていた。


 鷲塚の乱暴ですらある行動に驚いた零は、背中に受けた衝撃に小さな悲鳴を上げていた。

 軽く弾んだ身体を起こそうとした拍子に、強く肩をつかまれ、押し倒されてしまう。

 声を上げようと口を開いた瞬間、頭を両手できつく包まれて唇を奪われ、強引に入り込もうとする男の舌先を許してしまっていた。

 狼狽し、突然の行為に説明を求めようと、零は必死で鷲塚の肩を押し返そうとしたが、圧倒的な体格と力の差の前にはあまりにも無力だった。

 そして、その見事な体躯から放射される熱情と欲望が、零の身体をも次第に高ぶらせてゆく。

 戦くように震える零の舌をからめとり、噛みつくほど激しく貪りながら、口腔内を愛撫される。

「う、ううっ……あ…やっ……」

 塞がれた唇を何とか離そうともがいていた零は、堪えていた涙を止められなくなり、白い頬を濡らした。

 やがて、身体の奥底から沸き上がる官能に抵抗する力を奪われ、零の身体から力が抜けると、不意にキスが慰めるように優しいものへと変わった。

 互いの唾液で濡れ光り、紅く腫れ上がった零の唇を、鷲塚は柔らかく吸い、舌先で触れる。

 頭部を抑える必要の無くなった手が、ゆっくりと首筋を滑り、愛撫するように背中に触れたかと思うと、ドレスのファスナーを静かに下ろした。

 素肌に触れた指先が、明らかな誘惑の意思を持って、背筋から腰へと続く優美なラインをなぞり始める。

 惑乱され、巧みなキスに自ら応え始めていた零は、その淫靡な感触に切なげにあえぎ、背中を弓なりに浮かせていた。

 だが、鷲塚の唇が喉元をたどるようになると、零は快感に流されそうになる己を必死で制し、ようやく封じられていた言葉を発した。

「あっ、あ…やっ…やめて……ちょっと、待って──海琉、話を……」

「──話? 帰ってきたら、こうなることは判っていたんじゃないのか?」

 荒いため息をひとつついた鷲塚は、零を組み敷いたまま顔を上げ、いかにも心外だ言うように片眉を軽くつり上げた。

「……そうじゃなくて、海琉は、私の事で怒っているんでしょう?
 私が、あの女の人の事で勝手に口出ししたから──。
 だったら、それを無かった事にしないで、ちゃんと言ってほしい。
 こんな風に何も言わずに抱かれると、私は海琉が怖くなる……どうしていいのか、判らないから……」

 零の言葉を聞き、鷲塚は鋼の双眸をすっと細めた。

「零、おまえはまだ何も判っていない、俺の事も、裏世界の事も。
 だが、あの女に関してはどうでもいい──そんな事で怒る必要もないからな。
 おまえが俺のやり方をどう思おうと、これは俺の戦いだ、今さらやり方は変わらない。
 俺が何をやるか、何をやってきたか……そんな事まで説明すれば、おまえが不安になるだけだぞ。
 残念ながら、俺はそれほど綺麗な人間じゃない」

 零は涙に濡れたセピアの瞳を瞠ったまま、研ぎ澄まされた刃のように鋭い双眸を持つ男の秀麗な顔を見つめた。

「私は何も知らないけど、海琉の事が好きだから、少しでもあなたの事を知りたい。
 普通の人とは違うんだって事は判ってるから、それを知るのは本当に怖いよ。
 でも、一番怖いのは、海琉の命が誰かに奪われてしまう事……ひとりで置いて逝かれたら、私はどこに行けばいい?
 私が生きる場所は、あなたの傍だってそう決めたのに、海琉を奪われてしまったら、私は居場所を失って生きていけなくなる。
 海琉を愛してる…だから傷ついて欲しくない──でも、あなたが人を傷つけるのも嫌だ」

 ぽろぽろと透明な雫がこぼれ落ちる瞳を見下ろしていた鷲塚は、微かに嘆息をもらした。

「零、この世界は完全に弱肉強食だ。
 戦って、敵を潰さなければ、こちらがやられる。
 やられたら、やりかえす──そうしなければ、なめられて、さらに攻撃を食らうだろう。
 殴るのを躊躇っていたら、自分が殴られるだけなんだぞ。
 戦わないと宣言するのは、負けを認めるようなものだ」

 淡々と教え諭すような鷲塚の言葉を黙って聞いていた零は、涙の溜まった瞳を閉ざした。

「……話し合いで、解決できないの?」

「解決できる問題もあるが、直接的な解決法を好む奴らも多いからな。
 それに、喧嘩が嫌いなヤクザはいない。
 そもそもがそういう集団なんだから、全てが穏便に片づくはずもないな」

「──……海琉も、喧嘩するの、好きなの?」

「気にくわないヤツを殴るのは気分いいぞ。
 特に、御山のあのキザったらしい顔をぶちのめしてやれたら、さぞ清々するだろうがな」

 くくっと喉の奥で低く笑った鷲塚を、零は驚いたように見つめていた。

「……そうなんだ。
 私、自分が傷つくのも嫌だけど、人が痛い思いをするのを見るのも嫌なんだよね。
 だから喧嘩なんてできないし、いつも逃げてばかりだったから──」

 小さく呟いた零を見つめ、鷲塚はその柔らかな亜麻色の髪を指先で梳いた。

 そして、瞳の中にふっと、見ているだけで切なくなるような哀しみの色を浮かべた。

「零──おまえは変わる必要はない、そのままのおまえでいればいい。
 だが、二度と、俺の前に飛び出して、俺の盾になろうとするな。
 おまえを守るのは、俺の役目だ。
 俺は自分の身は自分で守れるし、護衛する奴らは他にもいる」

「だって、私は役立たずかもしれないけど、それでも海琉を守りたい。
 本当に大切な人は、何があっても守らなきゃいけないんだって……」

「零! おまえが盾になった時、御山の手に何があったか忘れたのか?
 あいつがトリガーを引いていれば、おまえはヤツに撃たれ、おまえは確実に死んでいた。
 死んだヤツは二度と還ってはこない──目の前でおまえを殺される俺の気持ちを、少しは考えてみたらどうだ?」

 冷静で、穏やかであった声音に、不意に激しい怒りと悔恨が入り混ざって荒立った。

 その激情に打たれ、愕然と瞳を瞠った零は、心が痛みを上げるほどの後悔を感じた。

 ──あれほど鷲塚が怒ったのは、零が自分自身から危険に身をさらしたからだった。

 零から目を逸らさず、その瞳を強く覗き込んでくる鋼の双眸を見返すうちに、ふと零は、何か触れてはならないほど深い傷が、彼の心の奥底に残っているのだと悟る。

(……海琉は、誰か大切な人を、失った事があるのだろうか──)

 愛する者を守りたいと思った自分の行動が、返って鷲塚を傷つけてしまったのかもしれない。

(目の前で、もし海琉が殺されてしまったら……私は、きっと耐えられなくて、狂ってしまう)

 あるいは、共に死ぬ事を選ぶだろう──ひとり残される事を誰よりも恐れているのは、零自身であったから。

 だが、それは鷲塚も同じなのだろうか。
 それほど愛されているのだと信じられず、自分はまだどこかで疑っているのかもしれない。

 零はゆっくりと腕を伸ばすと、鷲塚の頭部を胸に引き寄せるように、その首にしなやかな両腕をからめていた。