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TearyDoll




「だが──彼は……」

 零の口にした名前を聞き、さっと顔を青ざめさせた栄一郎が口を開きかけた途端、美弥子がそれを遮るようにグラスを持った夫の手を押さえた。

 涙を怺えるようにうつむいてしまった零を見つめ、美弥子は穏やかな口調で告げた。

「良かったわね、零ちゃん──大切な人に巡り会えて。
 あなたが幸せに暮らしているなら、もう何も言うことはないわ」

 はっと顔を上げた零は、穏やかに微笑んでいる母親の顔を見つめた。

「……認めてくれるの──お母さん?」

 震える声で呟くように言った零を見つめ、美弥子は暖かく微笑んだ。

「まあ、当たり前じゃない。
 零が選んだ人なんだから、私は反対なんてしませんよ。
 もちろんね、辛い事や悲しい事だってあるかもしれない──でも、あなたがそれほど人を愛せたという事が、お母さんはとても嬉しいの。
 あなたはずっと身体の事で無理をして、いろんな我慢や悩みを重ねて、誰かに恋をするってことができなかった。
 零の心を開いてくれた人なんだから、私たちは感謝しなければならないわね」

 夫の同意を促すように、美弥子が重ねていた手を軽く叩くと、栄一郎は苦い表情を漂わせたまま、重々しくうなずいた。

「零──お父さんは……ただ、おまえの事が心配なんだ。
 もちろん、お母さんと同じで、おまえと彼の事を認めたいとは思ってる。
 だが──その…何というか……彼は、おまえに酷い事をしたりはしないだろうかと……それだけがどうも心配で──」

 もともと美弥子よりも保守的であり、さらには情報量も多い栄一郎にしてみれば、妻ほどには手放しで喜ぶ気分にもなれなかった。

 零の幸福を願いながらも、鷲塚の背景にある暗く謎めいた世界を考えると、娘が──いや、一応息子であるのだが……その闇に飲み込まれてしまうような不安を覚えた。

 父親の想像はあながち間違ってはいないと思いながらも、零はゆっくりと否定するように首を振ってみせた。

「彼は──海琉は、私に酷い事なんてしないし、とても優しい人なんです。
 不器用だし、見た目はそんな風に見えないかもしれないけど……凄く暖かいから、私は無理をしないで自然でいられる。
 海琉に出会ってから……やっと、私は本当の自分に出会えたような気がするんです」

 ふわりと柔らかく微笑んだ零の笑顔は、美弥子も栄一郎も思わず見惚れてしまうほど美しく、そして輝いて見えた。

(ああ……この子はこんなにも優しく笑える子だったんだ)

 高校時代、いつも生真面目で硬い表情をしていた零を思い出し、栄一郎の胸は痛んだ。

 その頃はどれだけ自我を押し殺し、本心を隠していたのだろう。

 咲妃のように我が儘も言わず、特に反抗をするわけでもなく、何と出来の良い息子なのだろうと思っていた。

 しかし本当は、辛い心を必死で押し殺し、本人自身もそれに気づかぬまま過ごしていたのかもしれない。

(それなのに、期待しすぎるほどに期待して、零に苦労をかけてしまった。
 俺は……本当に父親失格だ──)

 ビールを持ったままどんよりと落ち込んだ栄一郎であったが、その時、脳裏に鮮やかな純白の光景が広がった。

 美しいウェディングドレスを着た零が、天使のように美しい微笑みを浮かべている。

 先ほどまでは確かに息子であったはずの零が、いつの間にか嫁いでいく美しい娘に変わる。

 その変貌はあまりにも自然に思え、手放すことはないだろうと高をくくっていた栄一郎は激しく動揺し、突然、その目に涙が溢れた。

 父親の威厳は崩れ去り、それを取り繕うことさえできなくなった栄一郎は、がたんと椅子から立ち上がると、そのまま無言でトイレに閉じこもった。

 クリスマスに拾い上げた愛らしい天使は、誰よりも美しく成長し、今まさに自分たちの手の中から飛び立っていこうとしているのかもしれない。

(おまえは……子供が出来なくて泣き暮らしていた美弥子に、幸福を運んでくれた。
 今度は──おまえ自身が幸せになってくれればいい)

 アルコールが入ったせいで涙腺が緩んでしまった栄一郎は、やっと零が帰ってきたという束の間の喜びを打ち砕かれ、不意打ちのように娘を嫁がせる父親の心境を味わわされ、なす術もなく涙に暮れたのだった。


「──お父さん、やっぱり……怒っちゃったのかな」

 急に出ていってしまった父親に驚いた零が、力なくそう呟くと、夫の心境を誰よりもよく理解している美弥子は頭を振った。

「そうじゃないの……あの人は、零が帰ってきてくれて、また一緒に暮らせるって思ってたの。
 だけど零は──鷲塚さんの傍に戻るつもりなんでしょう?
 それが判ってしまったから、あの人は寂しくて泣いているのよ。
 ……だから酔っ払わないでって言ったのにね──本当に、困った人」

 栄一郎に劣らず、瞳に涙を溜めていた美弥子は、笑い泣きをしながら零の手を取った。

「知らなかったでしょう、お父さんが泣き上戸だったなんて。
 あなたが出ていってから、お酒を飲むと時々寂しがって泣いちゃうもんだから、お母さんも咲妃も呆れていたのよね。
 ──零はどうしてるんだろうって、いつも心配していたわ。
 あなたに負担をかけたことを、毎日のように後悔していた。
 だからこそ、零に幸せになってほしいって思ってるのよ、あの人は。
 零が帰って来るって判った時、今度こそ家族全員で幸せに暮らすんだって、もの凄く息巻いていたんだもの。
 でも──零は本当に大切な人に、出会ってしまったのよね」

 ふっと寂しげな光が美弥子の瞳を過ぎり、それを見てしまった零はうなだれた。

「……ごめんなさい」

「いやあね、零が謝ることじゃないのよ。
 子供はいつか巣立っていくものだって、栄一郎さんも、私も判っているんだから。
 ただそれがやっぱり寂しいだけ──親バカなのは、仕方がないわ」

 くすりと笑った美弥子は、零の手をぽんぽんと軽く叩いた。

「辛くなったら、いつでも帰ってきなさいね──ここは、あなたの家なんだから。
 でも、どんなに愛していても、あなたの思い通りになる事ばかりじゃない。
 ぶつかりあって、傷つけ合うことがあったとしても、彼の事を愛しているなら、そこから逃げ出さないでね。
 そうやって、人は互いを理解して、許し合っていくの。
 自分の気持ちをごまかしていては、本当の絆を結ぶことはできないんじゃないかなって、私はそう思っているわ」

 いたわりと励ましに満ちた言葉が暖かく心に響き、零の目に新たな涙が生まれた。

「……ありがとう──ありがとうございます、お母さん」

「いやだわ、本当に零ちゃんをお嫁に行かせるような気分になってきちゃった。
 鷲塚さんに会ったこともないのにね。
 ──今度帰ってくる時は、ぜひ、彼も連れてきて。
 お母さん、会ってみたいなあってずっと思ってたの。
 だって、彼の声って、とってもセクシーなんですもの。
 栄一郎さんの事も忘れて、思わずよろめきそうになっちゃったわ」

 涙を溜めたまま、茶目っ気たっぷりにそう笑った美弥子を見返し、零は思わず微笑んでいた。

 ──母の朗らかな明るい性格に、どれほど救われてきたことだろう。

 本当は言いたい事がたくさんあるのだろうが、それでも全てを認めると言い切った美弥子の強さに、零は一人の人間として尊敬する気持ちを抱いた。

「でも──咲妃にはどう説明するの、零?
 私から話しても良いけど、そうすると反発して、また心にもない事を言い出しそうだし……。
 零が大学を辞めてることも、まだ伝えてはいないのだけど」

「えっ……大学の事、お母さん、知ってたの?」

 あまりの驚愕に息を呑んだ零を見返し、美弥子は困ったような笑顔を浮かべた。

「零ちゃんが行方不明だって思った時、真っ先に大学に電話をかけたのよ。
 そうしたら、『そんな学生はいません』って言われるじゃない。
 何が起こっているのか判らなかったけど、詳しく聞いてみたら、最初から零が大学に通っていないことが判った。
 でも、きっと何か理由があるんだって思っていたから、黙っていたの。
 零がずっと家の事を気にしていた事は判っていたから、ただ遊びたいっていうのが理由じゃないなって思っていたし……」

 呆気にとられた表情で美弥子を見つめていた零は、不意に可笑しくなって苦笑を浮かべた。

(──この人には敵わない……多分、ずっと──)

「ごめんなさい──本当は、もっと早く説明しなきゃいけなかったんだけど、きっとショックを受けると思っていたから、なかなか言い出せなかった」

 頭を深く下げて謝った零を見つめ、美弥子はうなずきながら笑い声を立てた。

「もういいわよ、そんなこと。
 済んでしまった事をくよくよ悩んでいても仕方がないし、結局、あなたは大学に行くよりも大切な事を見つけたんだから。
 でも、大学受験に燃えている咲妃は──そう受け取らないかもしれないわ」

「咲妃には、全部、僕から説明するよ。
 きっと、判ってくれると思うから、近いうちに話をしてみるね」

 そう言ってにこりと微笑んだ零を見返し、美弥子はゆっくりとうなずいたが、何故か心に引っかかりを覚えているような、複雑な表情を浮かべたのだった。