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TearyDoll


40



 冷たい雨が降りしきる中に突っ立ったまま、咲妃は何度目なのか判らない留守番電話の応答メッセージを聞いた。

 何故、零は自分の部屋に戻ってこないのか──電話に出てくれないのか。

 もしかすると拒否されているのかもしれないと思い悩み、咲妃は冷えてしまった指先に、暖かい吐息を吹きかけた。

(……それとも、もしかして、身体の具合が悪くなったんじゃ──)

 久しぶりに実家に戻ってきた零は、高校生の頃よりも随分痩せてしまっていて、朝日を浴びると消えてしまうという妖精のように儚げに見えた。

 大学生となり、独り暮らしをしている間、零には家族にも言えないような悩みがあったに違いないのだ。

 少し前に、零が居なくなってしまったと、母親がひどく取り乱していた。

 音信不通だった理由を、零は「友達と旅行に行ってたから」と説明していたが、おそらく本当はそんな理由ではなかったのだろう。

 何か事件に巻き込まれたのではないかと疑っていた母親に、零は明るく笑いながら否定していたが、一瞬その身体が強張ったのを咲妃は見逃さなかった。

 やはり何か起こったのだろうか──そして、その事件はまだ続いている?

 だが、目が覚めるほどに鮮やかな零の変容を見れば、決して不幸な事ばかりではないのだとも感じさせた。

 きっと誰かが、穢れの無い「天使」を、生身の「人間」に変えてしまったのだろう。

 今の零は、その誰かと一緒に過ごしていて、妹が投げつけた残酷な言葉を、忘れようとしているのかもしれない。

 優しい人なのだろうか……傷ついた零を優しく見守り、暖かく抱き締めてくれるような──?

「……それだったら──別に良いんだけど……」

 零が家族や妹をもう必要としていないのなら、何もこんな冷たい雨の中で、自分は兄の帰りを待たなくても良いのかもしれない。

 だが、そうだとしても零の顔は見たかった。

 咲妃にとって、たった一人の兄である零を、まだ誰にも奪われなくないと思う。

「お兄ちゃんは……あたしだけの、お兄ちゃんなんだから──」

 自分を励ますように小さく呟いた時、不意に、背後から意外な声が響いた。

「おい──おまえ、まだ諦めねーの?」

 驚いて振り返った咲妃は、傘を差して立っている安斉を見つめ、呆然と目を見開いた。

「安斉さん……どうして、こんな所に──?」

 清塔学園の制服ではなく、私服を着ている安斉は、普段見ていた時よりも大人びて見え、咲妃は驚きつつもときめいてしまった。

「兄妹喧嘩がどうなったか気になって仕方ねーし、俺は俺で零さんに謝らなきゃいけない事もあったしさ。
 そう思っていたら、咲妃ちゃんが血相を変えて、駅に走っていくだろ。
 気になって追いかけたら──こんな所まで付いてきちゃったというわけ」

 軽く肩をすくめた安斉は咲妃に近づき、傘の下の顔を覗き込むように腰を屈めた。

「ずっとここで零さんを待ってるおまえを見てたんだけど……零さん、まだ帰ってないんだろ?
 こんな寒い中にずっと立ってたら、マジで風邪引くぜ。
 今日はもう諦めて、明日にしたら?」

 安斉に気に掛けてもらえる事がひどく嬉しく思えたが、どういう表情をしてよいのか判らず、咲妃は視線を濡れた地面に落とした。

「……でも、あたし、お兄ちゃんに謝らなきゃいけないから。
 それに、お兄ちゃんの部屋に泊めてもらおうと思ってたから、他に泊まる所なんて全然考えてなかったし──」

「俺と一緒で良ければ、宿は提供するけど?」

 あっさりとそう言った安斉は、ズボンのポケットからキーホルダーを取りだして見せた。

「俺の兄貴が東京に住んでてさ、たまたま海外出張で留守してるんだ。
 マンションの鍵は預かってて、何かあったら使って良いって言われてんだけど、どうする?
 人ん家が嫌なら、ホテルでもいいけど」

「えっ? でも……」

 安斉と一緒に過ごせるのは嬉しいのだが、一緒の部屋に泊まるとなると躊躇ってしまう。

 咲妃が通っている聖華女学園は、古くからの名門女子校であるのだが、そのせいか男女交際に関しては今時珍しいほどに厳しかった。

 もちろん陰では彼氏を作って遊んでいたりもするが、表向きはみんな育ちの良いお嬢様で通っている。

 さらに咲妃自身は、勉強のできる優等生ではあったが、男女交際に関しては少々奥手で、今だにキスもした事がなかった。

 それがいきなり、家族でもない安斉と一緒に泊まるというのは──かなりハードルが高すぎてどう振る舞って良いのか想像もつかない。

 緊張に強張った咲妃の顔を見返し、安斉はからかうように笑った。

「心配しなくても、おまえには絶対手ぇ出さないからさ。
 俺の事は無害なイヌだと思って、安心していいぜ」

「それは……別に、心配なんかしてないけど……」

 精一杯大人の女のように振る舞おうとしても、声が上擦ってしまって格好悪すぎる。

 顔を赤らめた咲妃は、逃げ場を求めるように、零のアパートを振り仰いだ。

 そんな咲妃の視線の先を見つめ、安斉がぽつりと呟いた。

「零さん……彼氏の所に泊まってんじゃないの?
 カイルって名前の男、咲妃ちゃん、知ってる?」

 その途端、咲妃は弾かれたように顔を上げ、安斉の顔を呆然と見つめた。

「──カイル……お兄ちゃんの…彼氏……?」

 大きく目を見開き、驚愕の表情を浮かべる咲妃を見下ろし、安斉は小さく苦笑した。

「ごめんな、知らなかったんだ。
 俺だって驚いているけど、零さんの口から、その名前が出たからさ。
 大切な人なんだって、零さん、言ってたぜ。
 もっとも零さんがそっちだって知られてたら、無傷のまま清塔を卒業するなんて、絶対にありえねーって感じだけど。
 ウチ、そっち系のヤツ、結構多いらしいからさ」

 そっちがどっちなのか不明だったが、咲妃は安斉の言葉をほとんど聞いていなかった。

(──お兄ちゃん……まさか、男の人と付き合ってるの?
 そりゃあ、お兄ちゃんは凄く綺麗だけど、お兄ちゃんは男で……でも半陰陽だから、どっちでもいいの?
 それにカイルって、外国の人?)

 頭の中が混乱し、考えれば考えるほど判らなくなってくる。

 確かに零を見ていると、女性と付き合うよりは、男性と一緒にいる方がしっくりくるような気もするのだが、そうは思ってもいざ問題に直面すると、いわゆる常識と不審感が募ってきた。

(だって、お兄ちゃんは、人に身体を見せられなくて……。
 でも、もしかして相手はまだ何も知らないのかも。
 別にまだ、そういう関係にはなってなくて、手を繋いだりとか、キスだけとか──。
 お兄ちゃんを大切にして、優しく見守ってくれるような人なら、それだけで大丈夫なのかな?)

「……頭、痛い」

 思わず額を押さえた咲妃を見下ろし、安斉が首を傾げた。

「やっぱり風邪引きそうなんじゃないのか?
 俺はどっちでもいいけど、どうする?
 一人でホテルに泊まりたきゃ、近くのホテルを予約してもいいぜ。
 駅前に、ちょっと古いビジネスホテルあったからさ」

 その言葉を聞き、咲妃はしばらく逡巡していたが、考える事に疲れ始めていたせいもあって、大きくため息をついた。

「じゃあ──安斉さんのご迷惑にならなければ、宜しくお願いします。
 明日の朝、すぐにお兄ちゃんに連絡してみますから」

 もし安斉が零の事を好きだったのだとしても、これを機会に仲良くなれるかもしれない。

 零に恋人がいるなら、安斉は零の事を諦めるしかなくて、その後で自分の事を見てくれるかもしれない。

 咄嗟に頭の中に打算が働いたのは事実だった。

 零に心から謝罪したいと思う一方で、安斉に対する恋心を振り払えず、やはり零を利用しようとする自分がいる。

 罪悪感を覚えつつも、咲妃はその事から目を逸らそうとした。

(……仕方がないじゃない──お兄ちゃん、帰ってこなかったんだから……)

 自分に対する言い訳のように、心の中で呟いた咲妃は、にこりと爽やかな微笑みを浮かべた安斉のハンサムな顔に見惚れてしまった。

「ケイタイにメール送っとけばいいじゃん。
 そうすりゃ、時間がある時にチェックして、返事くれるかもしれないだろ?」

「あ、そうか……そうですね、忘れてました。
 絶対に会って謝らなきゃって思ってたから、メールってものをすっかり忘れてました。
 バカですよね、あたし」

 自分の手の中にある携帯電話を見下ろし、くすくすと笑い出した咲妃は、次第に心が浮き立ってくるのを感じていた。