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TearyDoll


41



 目覚めると、すぐ傍に秀麗な、それ以上に精悍な印象を与える顔があった。

 一瞬、記憶が混乱し、まだ夢を見ているのではないかと思う。

 何度か瞬きをし、セピア色の瞳でじっと鷲塚を見つめた零は、それが幻ではない事に安堵すると、淡く唇に微笑みを浮かべた。

 片肘をついて零の顔を眺めていた鷲塚は、ふっと鋼色の瞳を細めると、柔らかな亜麻色の前髪を指先で梳いた。

「やっと目が覚めたか?」

 とうに目覚めていたような鷲塚の怜悧な眼差しに、零は自分が寝坊をしてしまったような羞恥を感じた。

「ひょっとして……ずっと前から起きていたの?」

「目が覚めておまえの顔を見ていたら、寝直すのが惜しくなった。
 それで見ていたんだが──ずっと、寝言で誰かの名前を呼んでいたぞ」

 鷲塚の言葉に、零は驚いたように双眸を瞠った。

「そんな……嘘でしょう?
 私、寝言なんて言ってないし、他の人の名前を呼ぶなんて……」

「ありえない」と言うのも恥ずかしく思え、零が口ごもると、途端に鷲塚が低く笑った。

「嘘じゃない──おまえが呼んだのは、俺の名前だったが。
 もっとも、誰か別の男の名前を呼んでいたら、叩き起こしていただろうがな」

 そう言って、鷲塚は逞しく鍛え上げられた上体を起こすと、そのまま零の上に屈み込むようにしてキスを落とした。

 存在を確かめ合うように長く唇を合わせていた二人の間に、互いを求め合う気持ちが行き交い、次第に口づけもまた深くなる。

 息を喘がせた零を見下ろした鷲塚は、その濡れた紅い唇を軽くついばむようなキスを残すと、不意ににやりとからかうような笑みを浮かべた。

「昨日は少しだけ無理をさせたから、今は我慢してやる──感謝するんだな」

「少しって……あれは──」

 意識を飛ばしていた瞬間も多かったが、それでもかなりの長時間、鷲塚に抱かれていたのは覚えている。

 思い出した途端にかっと頬が紅潮し、零は顔を背けていた。

「少しだろう? 朝まで付き合えと言ったのに、途中で完全に眠り込んだんだから」

 傲慢な口調の中に笑いを含ませてそう言い、鷲塚はベッドから下りると、その強靱な裸体の上にバスローブを羽織った。

 ベッドに残された零は自分も起き上がろうとしたが、その瞬間、身体に鈍い痛みが走った。

 思わず顔をしかめた零を見下ろし、鷲塚は小さくため息をついた。

「今日は俺も出ないから、おまえはそこでゆっくり休んでいろ。
 食事は運ばせるから、何か食べたいものがあったらそう言え」

「でも……もし私の事を心配して仕事を休むんだったら──私は一人でも平気だよ。
 身体が動くようになったら、自分でご飯ぐらいは作れるし、食事を作って海琉の事を待っていられるから。
 新堂さんがいてくれるなら、余計に心配はいらないと思うし──」

 零がそう言った途端、鷲塚はわずかに眉をひそめた。

「せっかく一緒にいてやると言っているのに、嬉しくないのか、おまえは?」

 何か誤解を与えてしまっただろうかと慌て、零は痛みを我慢して身体を起こした。

「そうじゃなくて……一緒にいられて私は嬉しいけど、海琉の立場が大変だっていう事も少しは判るから。
 普通にお休みの日だったら、気にしないんだけど……今日は平日だし──」

 一緒にいたいという心と、鷲塚の邪魔になりたくないという心がせめぎ合い、零の声もまた小さく躊躇いがちになってしまう。

 そんな心を読みとったかのように、鷲塚は双眸を細めると、軽く広い肩をすくめてみせた。 

「俺の事は気にするな──このところ休日返上で働いてやったし、ここでも十分に対応できる。
 そんな事を気にする余裕があるなら、おまえはもっと体力をつけるように努力しろ。
 毎回、毎回、手加減してやるつもりは無いんだからな」

 そう言い残し、鷲塚はベッドルームを出ていった。

 零は膝を抱え込んで顔を伏せると、大きなため息をもらした。

(だって……ずっと一緒にいたいけど、私が我が儘ばっかり言うわけにはいかないよ──)

 鷲塚が生きている世界の事を、まだ自分は何一つ判っていない。

 そんな自分が傍にいると、仕事の邪魔になってしまうかもしれないし、鷲塚自身への危険を増やしてしまうかもしれないのだ。

 だが、それでも傍にいたい──共に生きていたいと願う心を、もはや偽る事などできない。

 何があっても傍にいると決心したからには、せめて、鷲塚の「仕事」の邪魔をしないようにしようと、零は必死で自分に言い聞かせた。

「──朝ご飯は無理だけど……お昼は私が作ろうかな」

 ブラインドの下ろされた窓を見つめ、零はぽつんと呟いた。

 何もできない自分が、鷲塚の役に立てる事があるとすれば、おそらく身の回りの世話や食事を作ったりするぐらいだろう。

 今から買い物に行って、朝食を作るというのは、時間的にも体力的にも無理な気がしたが、昼食には何とか間に合うかもしれない。

 もう少し休んでいれば、身体も動くようになるだろうし、そうすれば一緒に買い物にも行けるかもしれないのだ。

「海琉がスーパーにお買い物って……何だか想像できないや」

 想像した途端、そのあまりの似合わなさに笑いがこみ上げ、零はくすくすと小さく笑い出した。

(でも……この辺にスーパーなんて、あるのかなあ?)

 自分が独り暮らしをしていた周辺ならば、どの店がどこにあるのか、何時になったらどこが安いかという事まで把握済みなのだが、このマンション近辺の事情は全く判らない。

 思わず首を傾げてしまい、零は考え込むようにじっと一点を見つめた。

 ここで鷲塚と共に暮らすのならば、知っておかなければならない事や、やらなければならない事が沢山ある。

 やれる事から一つずつ片づけていって、自分も住みやすい環境にしなければならないだろう。

「模様替えも途中だし……挨拶にも行かなきゃいけないし、引っ越しもしなきゃ──」

 指を折りながら数えてみると、ベッドの中でのんびり寝ている場合では無いほど、様々な事が中途半端な状態になってしまっている。

 深いため息をついた零は、誰も見ていないと自覚しつつも、裸体を隠すようにシーツを巻き付けた。

 身体をずらすようにしてベッドから下り、広いウォークインクローゼットの中に入る。

「何を着よう……挨拶に行くなら、ちゃんとした格好の方がいいかな……」

 女として働いていた喫茶店「カッツェ」ならスカートやワンピースでも良いだろうが、男として働いていたニューハーフ・パブ「クリスタル・ローズ」に行くなら男に見えるような格好の方が良いかもしれない。

 そんな事を考えながらふと反対側を見ると、鷲塚のスーツが整然と並べられている。

 零は無意識に指先を伸ばし、その布地に触れていた。

「……海琉は、どっちの私を好きになったんだろう──」

 心に浮かんだ疑問を呟いた零は、ふうっと大きくため息をついた。

 最初に出会ったのは零がウェイトレスとして働いていたカッツェだったが、次に出会った時には、零が男として生きていた事を鷲塚は知っていた。

 零が両性具有という事を知ってからは、特に女の格好をさせたがっているようにも思える。

 プレゼントされた洋服やドレス、そして指輪の事を考えると、自分はこのまま「女」として生きていった方がいいのだろうか──。

 シーツを巻き付けたまま考え込んでいた零は、背後から突然名前を呼ばれ、驚愕して思わず小さな悲鳴を上げていた。

「零──こんな所でぼーっとして、何をやってるんだ?」

 シャワーを浴びてきたらしい鷲塚が、両腕を組み、少し呆れたような鋼色の眼差しで零を見下ろしていた。

「べ…別に、何もしてないんだけど、何を着ようかなあって迷ってて……」

「何でもいいんじゃないのか?
 何だったら、その格好のまま、ずっとここにいてもいいんだぞ」

 シーツを身体に巻き付けた零の姿を、頭から爪先まで観察するように眺め、不意に鷲塚は唇を薄くつり上げた。

「──これなら、脱がせる手間が省ける」

 くすりと笑った鷲塚は、組んでいた腕を解いて片腕を伸ばすと、交差させて挟み込んであったシールの端を指先で引っ張った。

 途端にぱらりとはだけそうになったシーツを慌ててかき合わせ、零は顔を赤く染めながら、少し咎めるように鷲塚を見上げた。

 その時、突然、頭上から微かに着信音が聞こえ、零はきょろきょろと音源を探した。

「そう言えば、おまえの荷物をこの辺に突っ込んでおいたな」

 思い出したように鷲塚が呟き、スーツの上の棚に置いてあったバッグを零に渡した。

 慌ててバッグから携帯電話を取りだした零は、着信音が途切れてしまう前に、何とか通話ボタンを押していた。

「──もしもし? もしもし、咲妃なんでしょう?」

 そう呼びかけた瞬間、鷲塚の鋼の双眸がすっと眇められ、厳しい表情になったが、妹に必死に呼びかけていた零はその事に全く気づかなかった。

『……お兄ちゃん……どうして…どうして帰ってこないの?
 私…お兄ちゃんに謝ろうと思って……アパートの前で、ずっと、待ってるのに──』

 咲妃の声は今にも泣き出しそうに聞こえ、零は愕然としてセピアの瞳を見開いていた。