Rosariel.com
TearyDoll


42



 通話を終えた携帯電話を見下ろしていた零は、ぽつんと独り言のように呟いた。

「……僕、行かなきゃ──咲妃が、待ってるから……」

 兄に酷い事を言ってしまったと後悔した咲妃は、住所だけを頼りに、一人で慣れない都会に出てきたのだ。

 やっとたどり着いても、肝心の零はアパートに帰ってこなくて──。

 あの激しい雨の中で、知り合いもいない咲妃は、どれほど不安で心細い思いをしただろう。

 携帯電話には何度も電話がかかってきていて、メールも送られていたが、いろいろな出来事があったせいで、零は全くそれに気づけなかった。

(──せめて、昨日のうちに気づいていれば……)

 鷲塚との再会に舞い上がっていた零は、自分の事で頭が一杯になり、咲妃がどう思っているかなど考えもしなかった。

 咲妃は、人を傷つけたまま平静でいられるタイプではない。

 零を傷つけた事を自覚しているからこそ、部屋に閉じこもったまま出てこなかったのだ。

 それを理解していながら、傷ついた自分の心を守る事に必死で、鷲塚と共にいられる事が嬉しくて、自分はできるだけ咲妃の事を考えないようにしていたのかもしれない。

 妹に心配をかけ、不安がらせてしまった──胸を締めつけられるような後悔を感じ、零は急いで迎えに行くべく、身支度を整えようとした。

 その時、不意に低く名前を呼ばれ、零は肩をつかまれて振り返らされた。

 痛みを覚えるほどの力に驚きながら、何故か怒っているようにも見える男の秀麗な顔を、零は呆然と見上げた。

「零──どこに行くつもりだ?」

 無機的な輝きを帯びる鋼色の瞳が、獰猛な獣のように油断無く光っている。

「僕……部屋に…帰らなきゃ──咲妃が待ってる……」

 まるでその眼差しに操られるように、ぽつぽつと答えた零は、鷲塚がすっと双眸を眇めた瞬間、背筋に言い様の無い畏怖が走るのを感じた。

「おまえの居場所はここだけだ──他の女に会いに、勝手に出ていくことは許さない」

 鷲塚から返ってきた言葉が意外で、零は不安に揺れるセピアの瞳を愕然と瞠った。

「だって、咲妃は、僕の──ア…ウッ」

 肩をつかむ手に力がこもった瞬間、骨が軋むような激痛を感じ、零は身体を強ばらせていた。

 長い腕が零の腰を強く引き寄せ、うなじを捕らえられて、唇を塞がれる。

 息が止まるほどに荒々しいキスは、まるで零を罰するかのように激しく、その快楽の虜になるほど巧みで甘い。

 柔らかさを確かめるように唇を吸われ、横暴なほどきつく舌を絡め取られると、息苦しさに喘いだ零の唇からため息と共に透明な雫がこぼれた。

 それを舐め取るように舌先が下唇を愛撫し、もう一度深く口づけをされる。

 何の心の準備もなく唇を奪われ、驚愕しながらもその快感に翻弄された零は、酔わされたように鷲塚の腕の中で頽れていた。

「零──おまえは誰のものだ?」

 ぐったりと脱力した零を抱き寄せたまま、鷲塚が耳元で低く問いかける。

 肌にかかる吐息に目眩を覚え、零は目を閉じたまま、鷲塚の逞しい胸に頬を寄せていた。

「私は……海琉のもの……海琉だけのもの──」

 夜を徹して身体中に刻み込まれた言葉を、零は愛おしさをこめて囁き返す。

 何故か大きく、深くため息をついた鷲塚は、柔らかな亜麻色の髪を指先で梳くと、すり寄せられた頭部に唇を落とした。

「そうだ、おまえは俺のものだ──それを絶対に忘れるな」

 どこか苦い響きのある口調を不思議に思い、零は鷲塚の顔を見上げた。

 涙で潤んだ美しいセピアの瞳が戸惑ったように自分を見つめ、罪作りなほどに無邪気で繊細な美貌が不思議そうに傾げられると、鷲塚は己の敗北を認めるしかなかった。

 本当に判っていないのだ、何もかも──何故これほど己が苛立っているのか、零は全く理解していない。

「……予想通りというか──予想以上に鈍感だな、おまえ」

 思わず呆れたような言葉がもれると、零は驚いたように双眸を大きく瞠る。

 その反応を面白いと思いつつ、鷲塚は腕の中から零を解放してやった。

「そもそもどうして、田舎にいるはずのおまえの妹が、突然、のこのこ上京してきたんだ?」

 妹にすら嫉妬を抱かずにはいられない己自身を内心で嘲笑いながら、鷲塚は普段通りの平静な口調で零に問い質した。

「……実家に帰っていた時……喧嘩をしてしまって──。
 咲妃と気持ちがすれ違ったまま、私はここに帰ってきてしまったから……」

 急な話題の転換に当惑しながら、零は躊躇いつつ答えた。

(ただ……あれは、ただの喧嘩じゃない──)

 仲違いのきっかけは、咲妃が好きになったという安斉という少年だが、根本的な理由は遙か昔から積み重なってきたものなのだろう。

「──それで? 向こうからわざわざ、仲直りしようとやってきたわけか?」

 零の話を聞きながら、鷲塚もまた外出するつもりなのか、スーツに着替えてゆく。

 シャツに袖を通す姿に成熟した男の色気を感じ、零はぼんやりとしたままうなずいていた。

「うん、そうみたい。昨日、こっちに来たみたいだけど、私とずっと連絡がつかなかったから、きっとどこかに泊まったんだよね。
 ずっと待ってたのにって……咲妃、泣きそうな声で言ってた」

 零が憂えるようにため息をつくと、鷲塚はちらりと一瞥し、ふんと鼻を鳴らした。

「幼稚園児じゃあるまいし、言葉が通じて金さえ持っていれば、1日やそこら『お兄ちゃん』に会えなくても問題ないだろう。
 だいたい何の連絡もいれずに、行き当たりばったりで行動を起こすから、こういう騒ぎになるんだ。
 そう言うところは──兄妹だな、おまえたちは」

 非常に厳しく、辛辣な言葉を聞かされ、零は傷ついたようにしゅんとうなだれた。

「だって……私は海琉にすぐに会いたかったし、きっと咲妃もそうだったんだよ」

「最初の段取りが悪いと、余計に遠回りする羽目になる。
 少しは勉強になっただろう?」

 手早くネクタイを締めた鷲塚は、いまだに着替えられずシーツ姿のままでいる零を見下ろし、両腕を組んで深々とため息をついた。

「零──妹に会いたいんなら、そろそろ着替えたらどうだ?
 おまえが会いに行く気が無いなら、俺は別に構わないがな」

「──え? 会いに行ってもいいの?」

「仕方がないだろう……放っておいてもいいなら、そうするが。
 ちょうど新堂も来ることだし、連れて行ってやる」

 驚いたようにセピアの瞳を瞠っていた零の顔が、ぱっと明るく輝くのを、鷲塚は複雑な気分で見つめた。

 慌てたように急いで着替え始めた零の魅惑的な白い背中を見つめながら、鷲塚は最後に警告するように釘を刺した。

「──ただし、要件が終わったら、さっさと田舎に追い返せ」

「うん! 咲妃も学校忙しいみたいだから、すぐに帰らなきゃいけないはずだよ。
 お母さんたちも心配してるんじゃないかな──後で電話しとかなきゃ」

 明るい零の返答に、鷲塚は一抹の不安を感じ、思わず天井を仰いでいた。




「零さんの妹か〜、何だか会うのが楽しみですねえ」

 日頃、仕事で利用している黒塗りではなく、わりと世間でもよく見かけるシルバーメタリックのメルセデス・ベンツを運転しながら、新堂が明るい口調で言った。

「私は養子だから、咲妃とは全然似てないんです。
 でも咲妃が生まれた時は本当に嬉しくて、お母さんが退院してくるまでの間、毎日、お父さんと一緒に会いに行きました。
 年が離れた妹だから『僕が守ってあげなきゃ』って、いつも自分に言い聞かせていたんです」

 鷲塚も新堂も、零の家庭の事情についたは、零以上によく知っている。

 だからこそ、今まで他人にはあまり喋れなかったような事でも、安心して話すことができた。

 再び雨が降り出しそうな空を見上げ、零は過去を思い出してくすりと笑った。

 零の隣に座っている鷲塚は、仕事絡みの電話にしばらく対応していたが、その後何かを考え込むように沈黙している。

 長い足を組み、頬杖をついた姿は見惚れるほどに決まっており、結局ラフな普段着のままで出てきてしまった零は、少々場違いな気分に陥った。

(──海琉と新堂さんを見たら、咲妃がびっくりしちゃうよね……)

 鷲塚に「連れて行ってやる」と言われた時、素直に喜びはしたものの、その後の展開を考えると非常に不安になった。

 両親には鷲塚の事を話せたが、咲妃には何一つ説明できていないのだ。

 咲妃の「兄」である零が、男性と同棲している。

 それだけでも驚かせてしまうはずなのに、鷲塚の職業がいわゆる「ヤクザ」だと知れたなら、咲妃はどういう反応を示すか──。

(でも……ちゃんと咲妃に謝って、海琉の事を紹介できたら、それでいいや。
 私はもう、海琉と一緒に生きていくって決めたんだから……)

 近づいてくる見慣れた駅前の光景を眺め、決意するように零は深呼吸をした。