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TearyDoll


43



 次の角を右に曲がると、零が独り暮らしをしていたアパートが見えてくる。

 緊張して背筋を伸ばしたまま、きょろきょろと辺りを見回している零を見て、鷲塚が少し呆れたように言った。

「少し落ち着いたらどうだ? 兄妹喧嘩をして、向こうから謝りに来ただけの事だろう?」

「そうなんだけど……、やっぱり…ちょっとね──」

 意味をなさない返答をした零は、運転席で新堂がくすりと笑ったのに気づき、思わず顔を赤らめていた。

「零さん──ひょっとして、若頭や俺の事、どう説明しようって思ってます?
 何だったら、俺は見えない所に隠れてましょうか?」

 新堂に図星をつかれ、零は慌てて首を横に振った。

「そ、そういうわけじゃないんです……ただ、咲妃がびっくりするだろうなあって──」

「そりゃ、そうでしょうね──でも、まだ来てないみたいですよ、妹さん」

 くすくすと笑いながらそう言い、新堂は銀色のベンツを路肩に停める。

 アパートの前の道路は一方通行であり、何台かの車が路上駐車していたが、咲妃らしい人影はどこにも見えなかった。

 車から降りた新堂が、警戒するように周囲を確認し、車内の鷲塚にうなずいて見せる。

 最初に新堂が車外に出た時、零は一緒にドアを開けて外に出ようとしたが、何故か鷲塚に腕を引っ張られてシートに縫い止められていた。

 鷲塚が指示を出すように顎をしゃくると、零が座っている側のドアを新堂が外側から開ける。

 そこでようやく腕を緩められて解放された零は、自分でドアを開けて外に下り立った鷲塚を不思議な気持ちで見つめていた。

(──やっぱり、何だか…世界が違うのかな?)

 誰かに車のドアを開けてもらうというのも慣れない事だったが、それ以上に、鷲塚や新堂が見せる周囲への警戒心というものが、零には一番馴染みの無いものだった。

 自分が生きている世界と、鷲塚が生きている世界は同じであるはずなのに、これほどまでにも生き方が違う。

 自分にとっては危険の無い平和な世界──けれど鷲塚にとっては、常に危険と隣り合わせになっている世界なのかもしれない。

 何故か深い悲しみと切なさが胸に沸き上がり、零は咲妃の事も忘れ、鷲塚の広い背中を見つめていた。

「零──おまえの妹は、確かにここで待ち合わせると言っていたんだな?」

 その時、零の視線に気づいたように鷲塚が振り返り、そう問うた。

 はっと我に返った零は、妹の姿を探すように周囲を見回し、首を縦に振った。

「うん……アパートの前で待ってるって言ってたんだけど──。
 もしかして、部屋の前にいるのかな」

 零がそう言うと、鷲塚はアパートの古い階段に視線を向け、鋼色の双眸を細めた。

「新堂、おまえはここにいろ」

 久しぶりに自分のアパートの階段を上がった零は、途中で呆れたような小さなため息を聞きつけ、思わず背後を振り返った。

「──それにしても、よくもまあ、こんなボロに住む気になったな」

「だって、仕方ないでしょう、お金が無かったんだから。
 でも、内装は綺麗にしてあったんだよ、バスとトイレも別々だったし……。
 ちょっと壁が薄いのが気になったけど、日当たりは良いし、風の通りも良いし、値段のわりに結構掘り出し物の物件だと思うんだけど」

 鷲塚の住む超高級マンションと比べる方がそもそも間違っていると思いつつ、零は自分で選んだ部屋を弁護するように言い返した。

 築年数は結構なものだし、部屋も狭かったが、それでも住み心地は良かったのだ。

 鷲塚と出会うまでは、心が安まるたった一つの居場所だった。

 もはや戻る事はないだろうが、この小さな部屋で過ごした2年間は、零にとって大切な思い出となっていた。

 ところが部屋の玄関前にも、咲妃の姿は見当たらなかった。

「あれ……咲妃、本当にどこに行っちゃったんだろう?」

 鍵は渡していないから、部屋の中で待っているという事はあり得ない。

 不審に思って首を傾げ、鷲塚を見上げた零は、その鋼色の双眸がひどく厳しく冷ややかな光を放っている事に愕然とした。

「──海琉……どうかした?」

 当惑したように訊ねると、鷲塚は無言でかぶりを振り、長居は無用とばかりに零の腕を引いて階段を下り始めた。

「あれ、やっぱりいないんですか?」

 ベンツに寄りかかっていた新堂が、すぐに戻ってきた二人を見つめ、驚いて言った。

「そうなんです……ちょっと、電話してみますね」

 そう言って、バッグから携帯電話を取り出そうとした零は、背後から大きな声で呼ばれ、はっとセピアの瞳を見開いた。

「──お兄ちゃん!」

 振り返ると、顔を極度に緊張させて立っている咲妃がそこにいた。

「咲妃……でも、どうして──?」

 無事に会えたという安堵と、嬉しさに顔を綻ばせかけた零は、妹の隣に立っている人物を認めた瞬間、声を喉につまらせた。

 零と同様に、咲妃もまた鷲塚と新堂を見つめて驚き、立ちすくんでいる。

 しかしすぐに瞳に不審と困惑をありありと浮かべ、睨むようなきつい眼差しで零の両脇に立つ男たちを見つめた。

「お兄ちゃん──その人たち、誰?」

 威嚇的ですらある深い警戒心に満ちた声を聞いた瞬間、鷲塚と新堂は互いに視線を交わし合ったが、零は戸惑ったように瞳を揺らした。

「あのね……この人たちは……私の……」

 何と言おうかと零が一瞬迷った瞬間、咲妃の隣にいた人物──安斉が、少し嘲るような皮肉っぽい口調で言葉を挟んだ。

「な、言っただろ、咲妃ちゃん──零さんは、悪い男に騙されてるんだって」

 零を見つめてニヤリと口角をつり上げた安斉は、鷲塚と新堂を値踏みするように見つめ、嘲笑するような微笑を閃かせた。

 その瞬間、その言葉に怒りを覚えた新堂が、低い声で呟いた。

「くそガキ……ナメた口、ききやがって──」

 日頃、穏和で物腰が柔らかいだけに、怒気をまとった新堂は別人のようですらあったが、その事に驚いている余裕が零には無かった。

 信頼しきったように安斉を見上げ、納得したようにうなずく咲妃を、零は愕然と見つめていた。

 そんな零を見返した咲妃は、怒ったような表情で鷲塚と新堂を睨み、必死に懇願するように兄に話しかけた。

「お兄ちゃん、ごめんなさい!
 全部、全部、私が悪かったの──本当はあんな事、言うつもりじゃなかった。
 かっとなってたから酷い事言っちゃったけど、あれは絶対に本心じゃない!
 本当にごめんなさい……私、お兄ちゃんをもの凄く傷つけた。
 謝っても許してもらえないかもしれないけど、でも、私はお兄ちゃんの事大好きだから……。
 だから──お願い、一緒に家に帰ろうよ。
 私、またお兄ちゃんと一緒に、家族4人で暮らしたいの……だから、一緒に帰ろうよ!」

 思いがけない咲妃の言葉に、零はセピアの瞳を見開いた。

「……咲妃……僕は──」

 必死で投げかけられる言葉に零は戸惑い、言おうと思っていた言葉を全て封じられる。

 どうすれば良いのか迷い、思わず隣に立つ鷲塚の顔を見上げた零は、その精悍な顔の中で光る双眸を見て狼狽した。

 咲妃と安斉を見つめる鷲塚の鋼色の瞳は、情も非情も無い冷徹な色だったが、その深い瞳の奥には常人ならば凍りつきそうなほど冷酷な闇があった。

「──お兄ちゃん、その人たちヤクザなんでしょ!
 そんな悪い人たちと一緒にいたらダメだよ。
 お兄ちゃん綺麗だから、きっと騙されて、変な人たちに売られちゃうんだから!」

 零が鷲塚を恐れていると誤解したのか、咲妃が大きな声で叫んだ。

 その言葉に驚愕した零は、新堂が忌々しげに鋭く舌打ちをしたのを聞き、慌てて咲妃の傍に駆け寄ろうとした。

 ところが身動きをした瞬間、鷲塚に肘を引っぱられ、零は深く抱き込まれるようにして引き寄せられた。

「話にならんな──零、戻るぞ」

 感情の起伏の無い醒めた口調でそう言い、鷲塚はもはやその二人には見向きもせずに踵を返した。

「……え? ま、待って……私、まだ咲妃と何も話してない──」

 慌てたように言い、その場に踏みとどまろうとする零を見下ろし、鷲塚は揶揄するように薄く唇の端をつり上げた。

「──止めておけ、時間の無駄だ」

「で、でも、私、こんなに誤解されたまま、咲妃と別れるのは嫌だよ。
 安斉君の事だって……」

 零に拒否された安斉が、何のつもりで咲妃に近づいたのか判らない。

 咲妃の事を本当に好いてくれているのなら心配はいらなかったが、どうやら彼には別の思惑がありそうで、それが零を不安にさせた。

 そして──妹である咲妃が、誰よりも大切な鷲塚や仲良くなった新堂の事を悪く言い、嫌悪の瞳を向ける。

 その光景を見るのが、辛くて……ひどく悲しかった。