Rosariel.com
TearyDoll


44



 場違いなほど巨大なベンツの後部座席に、零が強引に押し込められようとしている。

 見上げるように背の高い男の腕に取りすがり、零は必死で何かを訴えようとしていた。

「──海琉……お願い、ほんのちょっとでいいから……」

 しかし男は取り合うつもりが全く無い様子で、「ダメだ」と言葉短く答えた。

 端整な美しい顔を青ざめさせた零は、まるで絶望したようにセピア色の瞳を見開き、立ちすくんでいた咲妃の顔をじっと見つめる。

 いつも柔和な微笑みを形作る唇が、「咲妃……」と名前を呼ぶように動いた瞬間、咲妃の心の中で怒りが恐れを上回った。

 自分が生まれた時から、いつも零は傍にいて、一緒に遊んだり、勉強を教えてくれたりした。

 誰よりも優しくて、いつも自分の事を守ってくれていた。

 いつも素顔を隠すように、目立たないように生活していた零は、本当はどんなに評判の女優やモデルでも敵わないほどに美しかったが、それを知る者は家族をのぞいてはわずかだった。

 天使のように綺麗な兄を持ったという優越感──そして、決して敵わないという劣等感、二つの感情が心の中に同時に存在していたが、それでも零は咲妃にとっては大事な「兄」であり、自分を守ってくれる大切な人だった。

 自分を庇護するような存在だった零が、見ず知らずの人間──それも明らかに尋常ではない危険な男に連れ去られようとしている。

 零を奪われたくない──否、たとえ誰であろうと、自分から奪う事は許せない。

 隣に立つ安斉の事も忘れ、頭の中が真っ白になる。

 そして、零を連れ去ろうとする男から「兄」を取り戻そうと、咲妃は恐怖や不安も忘れて飛び出していた。

「──お兄ちゃんを放して! お兄ちゃんはあなたのものじゃない!
 お兄ちゃんは、あたしの……あたしだけのお兄ちゃんなんだから!!」

 真っ白な零を包み込もうとする大きな黒い影──兄を連れ去ろうとする男は、咲妃の目にはまるで悪魔のように邪悪な存在に映っていた。

 その身を包む冷ややかな雰囲気は、咲妃の身近にいたどんな男たちとも違う。

 本能的に異質なものを感じながらも、激情に駆られた咲妃は、零を奪い返そうとつかみかかろうとした。

 愕然としたように、零が淡い色合いの双眸を見開き、自分を見つめている──。

 その瞬間、咲妃は背後から突然羽交い締めにされ、パニックに陥って悲鳴を上げた。

「──放してっ! いやーっ、放して!」



「ケガしたくしたくなかったら、大人しくしてろ!」

 死に物狂いで暴れる咲妃を抑えこみながら、新堂が短いため息を吐き出し、冷ややかな表情を崩さない鷲塚を見返した。

「──若頭、これ以上騒がれたら、マジでヤバイですよ」

 零の妹であるがゆえに力加減はしているが、敵意を剥き出しにしている人間を相手に、これ以上余計な気を使いたくない──零に申し訳ないと思いつつも、それが新堂の本音だった。

 あまりに急激な展開に、零自身はどう対応して良いのか判らず狼狽している。

(──殴って、気絶させるか?)

 不穏な事を考えた新堂は、指示を仰ぐように鷲塚の鋼色の双眸を見た瞬間、その瞳の奥にある暗い闇に背筋が凍りつくような衝撃を感じた。

 あたかも、それは冥府の闇──刃の輝きを思わせる金属的なグレイの虹彩の向こうには、太陽さえも氷結させるほどに凍えた暗黒が湛えられている。

 鷲塚の総身から発散されるオーラは、喜怒哀楽や憎悪というような感情を全て削ぎ落とし、残酷なまでに研ぎ澄まされた理性と狂気に彩られていた。

「鳴川咲妃──黙っていろ」

 抑揚の無い冷淡な声は、静かでありながらも、身体の芯に達するほど深く響いた。

 名前を呼ばれた咲妃が、新堂の腕の中でびくりと竦む。

 しかし驚くほどの気丈さで、がくがくと震えながらも、咲妃は鷲塚を睨みつけた。

「……お兄ちゃんは……渡さない……なんで、あんたなんかに──」

「日本語が通じないか?」

 醒めた口調でそう言い、一連の流れに乗った滑らかな動作で、鷲塚は身に帯びていた拳銃を咲妃の額に向けた。

 声にならない悲鳴が喉からもれ、まだ幼さを残す瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれる。

「か……海琉──お願い……止めて……」

 恐怖に震えるか細い声で、それでも零が必死で制止の声を上げた。

 しかし鷲塚は眉一つ動かさず、冷酷な表情のまま腕を上げ、にやにやと笑いながら成り行きを見ている安斉に銃口を定めた。

「おまえが黙らなかったら、あのガキがどうなると思う?」

 怒りも殺意も無い、非情な声──その声を聞いた途端、咲妃ははっと安斉の方を振り返り、顔を青ざめさせた。

「安斉さんは…何もしてない……何も……関係無いじゃない」

 喉を喘がせながら、必死で言葉を吐き出す咲妃を見つめ、鷲塚は淡々と言った。

「関係が無くても、殺るのは簡単だ──トリガーを引くだけでいい。
 トリガーを引くのに、感情はいらない。
 ただ、この指を絞るだけで、鉛弾が飛び出し、あいつの脳みそをぶち抜く。
 この距離なら間違い無く弾けるし、俺は躊躇い無くあいつを殺せる」

 事実を語る冷静な声音は、大声で怒鳴られるよりも不気味な迫力があった。

 全身が凍りつくほどの恐怖に駆られ、咲妃は助けを求めるように零に視線を向けた。

 しかし零もまた、血の気を失った蒼白な顔をして、ダークスーツ姿の男を見つめている。 

(……この人は……平気で人を殺せる──)

 自分が従わなければ、その言葉通り、躊躇い無く引き金を引くのだろう──それは予感ではなく、すでに確信。

 気が遠くなるような目眩と、脱力感に、咲妃は新堂に身体を拘束されたまま、ずるずると地面に座り込んでいた。

 激情に興奮していた神経が一瞬で凍りつき、その後、涙腺が弛緩してしまったかのようにポタポタと涙が溢れだした。

(……悪魔じゃない……この人はまるで……死神だ──)

 悪魔ならば、獲物に甘美な誘惑と選択を投げかけるだろう。

 だが冷酷な死神は、誘惑も選択も一切行わず、決定事項として残酷な運命を突きつける。

 零はもう戻ってこない──氷よりも冷たく、闇よりも冥い世界に住む死神の手に囚われ、奪い去られてしまった。

(どうして……? あたしはただ、お兄ちゃんとまた一緒に暮らしたいだけなのに──)

 大切な兄を悪人から救う事は正しい事なのだから、神様は自分の味方をしてくれても良いはずだった。

 けれど、誰も助けてはくれない──やっと仲良くなって、付き合う事になった安斉の命もまた危険にさらされている。

 零を助けるためとはいえ、安斉の命をこれ以上危険にさらすわけにはいかない。

 そう決心した途端、咲妃はその場から動けなくなり、何も言えなくなった。

「新堂──零と一緒に車に乗せて、部屋に連れて行け。
 俺は事務所に行って、それから戻る」

 咲妃が完全に屈服したのを見定めた鷲塚は、額に冷や汗を滲ませていた新堂にそう命じた。

「判りました……帰りの車は?」

 わずかに掠れた自分自身の声に気づき、新堂は唾を飲み下して調子を戻す。

 鷲塚は、恐怖に顔を引きつらせている安斉から視線を外さないまま、手にしていた拳銃を元に戻した。

「必要ない。誰か別のヤツに送らせる」

 常と変わらぬ冷徹な口調で指示し、鷲塚は今にも失神しそうなほど顔色の悪い零を、己の腕の中に引き寄せた。

 びくりと、怯えたように震えた身体を捕らえたまま、細い顎をつかんで顔を上げさせる。

 色を失った唇を親指でなぞって覗き込むと、恐怖と悲しみに沈んでいるセピアの瞳に、透明な涙が浮かび上がった。

「──海琉……あなたに、私の声は届かない?
 気に入らなければ……何の罪もない人も……殺してしまうの?」

「殺しに怒りや憎しみが必要なのは、素人だけだ。
 何の理由も無ければ殺さない──それが掟だからな。
 だが、殺し自体は容易い……人は呆気ないほど簡単に死ぬ」

 「殺さない」と「殺せない」という言葉の間には天地もの差があり、殺害に足る理由があれば実行するという意思を、鷲塚は言葉の裏に隠した。

 しかし零は敏感に察し、その華奢な身体を硬く強張らせる。

 畏怖の対象から反射的に逃れようとする身体を、妹の隣に座らせるように突き飛ばし、鷲塚は後部座席のサイドドアを閉めた。

 そして踵を返して安斉に向き直り、唇にうっすらと冷酷な嘲笑を刻んだ。

「まともな人生を歩みたいなら、これ以上零の周りをうろつき回るのは止めろ。
 二度目の警告は無い──優等生なら、覚えておくんだな」

 その途端、安斉は愕然としたように双眸を瞠り、鷲塚を射殺そうとでもするような憎悪を宿した瞳で強く睨みつけてきた。