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TearyDoll


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「……あ、あんたみたいなヤクザに、零さんを渡せるかよ。
 あんただってどうせ汚い方法で、零さんを無理矢理自分のオンナにしてんだろうが?
 だったら俺は、あんたから零さんを助け出してやる」

 自分に向けられる、冥く冷酷な視線に、安斉は臓腑が凍えるような恐怖を覚えていた。

 しかし、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、精一杯の虚勢を張り、安斉はせせら笑いながらそう言い放つ。

 その瞬間、鷲塚の鋼の双眸がすっと眇められ、嘲笑うように唇が片端が薄くつり上がった。

「おまえの目的は、やはり最初から零か?
 妹を使って零に近づこうと企んでいるようだが、近づけば容赦はしない。
 おまえも、おまえの家族も、後悔することになる」

 どこまでも冷静な鷲塚の態度に腹を立て、安斉は双眸をぎらつかせて叫んだ。

「ふざけんな、後悔するのはてめえの方だ!
 いいか、俺の父親は県警の副本部長だし、兄貴は警察庁のキャリアなんだよ。
 てめえみたいなヤクザを逮捕させて、刑務所に突っ込む事なんて簡単なんだからな。
 俺を脅迫しても、バカを見るのはそっちだ」

 かつて「極道バラシ」と異名をとったほどの父親と、同様にスピード出世をしている辣腕の兄ならば、社会で忌み嫌われる暴力団組員を一人逮捕する事など訳はない。

 「カイル」という名の男は、若いチンピラに若頭と呼ばれていたようだが、この若さでトップに立てる程度の暴力団ならば、さほど巨大な組織でもないはずだった。

 男が属する暴力団を解散に追い込めれば、父親や兄の功績となるだろうし、零を取り戻すことも容易になる。

 頭の中で素早く計算を働かせながら、安斉は自分の放った言葉の効果を確かめるため、秀麗だが冷ややかな男の顔を見返した。

 ところが、怯む様子は微塵もなく、彼はさらに酷薄な冷笑を浮かべるだけだった。

「言っておくが、おまえの家の事情はとっくに調査済みだ。
 おまえが零にナイフを突きつけた事もな。
 零を脅した現場の写真は押さえてあるから、おまえがバカな真似を繰りかえすなら、不祥事が公になるだけのこと。
 大事な家族が出世を望んでいるなら、おまえの行動は障害にしかならない。
 俺は極道だから汚い真似をして当然だが、『正義の味方』が汚い真似をすれば、世間はより冷たい目を向けるだろう。
 バカなガキでも、その程度の理屈は判るんじゃないのか?」

 言葉に冷酷な棘を散りばめ、鷲塚が揶揄するように言うと、驚愕に顔を強張らせていた安斉が悔しげに顔を歪めた。

「……あれは、零さんがあんまり騒ぐから──」

 余裕を失って口ごもった安斉は、その時、身体が竦み上がるほどの殺気を感じた。

「いいか、それ以上、軽々しく零の名前を口にするな。
 おまえたちがどれだけ騒ごうと、零が俺のオンナである事には変わりない。
 誰であろうと、邪魔をするヤツは赦さない──たとえそれが妹であってもだ」

 凄まじい威圧感と殺意をはらむ凍えた怒気に打たれ、安斉は全身から脂汗が吹き出すのを感じた。

 深く響く声が心もち低くなっただけで、怒鳴られたわけではないというのに、男の声は恫喝する以上の迫力がある。

 あまりにも明らかな覇気と力量の格差──絶望的な屈辱に歯がみしがならも、安斉は完全な敗北を感じ、それゆえに怨恨を募らせた。

 「ミスター清塔」に選ばれるほどの容姿と学力を持ちながら、目の前に立つ男に何一つとして敵わない。

 社会の落ちこぼれ集団でしかないヤクザに、エリートである自分が敵わない──それは、絶対にあってはならない事であり、決して許してはならない事であった。

 だが、今の状態で反撃するのは、あまりにも分が悪すぎる。

 それは雄の本能とでもいう感覚であり、確信だった。

 咄嗟に頭を働かせた安斉は、冷や汗に濡れた前髪を掻き上げ、唇を皮肉っぽく歪めながら肩をすくめてみせた。

「……判ったよ。二度と俺から近づかなければいいんだろう?
 だけど、妹と付き合うのは構わないはずだな。
 もともと、あっちからアプローチしてきたんだし──」

 顔色をうかがうように見上げると、鷲塚は残酷な微笑を刻んだ。

「ダメだ──二度と、鳴川の家にも関わるな。
 妹の方はおまえに惚れているようだが、おまえの目は零に向けられている。
 そんなヤツを零の周囲に置いておくほど、俺は寛大じゃない」

「家は東京から離れてるんだからいいじゃねえか」

 拗ねたように唇を尖らせた安斉を、無機質な鋼の双眸で睨み、鷲塚は冷淡に言った。

「耳が聞こえないのか?
 俺は二度と関わるなと言ったんだ──その場所は関係ない」

 息が詰まり、全身が竦み上がるほど重く凍えた威圧感に畏怖を抱き、安斉は思わずその場から一歩、二歩と後退っていた。

 深い闇を宿した鷲塚の瞳の奥には、何の感情も浮かんでいない。

 ただ己に不都合があれば容赦なく排除するという、冷酷極まりない意思がある。

 零の妹でさえも例外でないほどの非情──鷲塚の身を包む凍えた空気の中に、夜の闇と血と硝煙の匂いが紛れ込んでいた。

 声を出すことすらできずに立ちつくしている安斉を、最後に冷たく一瞥した後、鷲塚は踵を返してベンツの助手席に乗り込んだ。

 エンジンをかけたまま待機していた新堂はすぐに車をスタートさせ、車両数の多い幹線道路へ逃げ込もうとでもするようにスピードを上げた。

「若頭……あいつは、放っておいていいんですか?」

 重い車中の空気を内心で嘆きつつ、呆然と突っ立ったままの安斉をバックミラーで確認した新堂は、隣に座る鷲塚に問いかけた。

「放っておけ──どうせ何もできはしない……少なくとも、今はまだな」

 抑揚の無い淡々とした声で応じた鷲塚は、ちらりと後部座席に視線を走らせた。

 震えながら「兄」の身体にしがみついている咲妃を、零は両腕の中に包み込み、あたかも親鳥が雛を庇護するように抱き締めていた。

 全てを遮蔽するように双眸を閉ざした白い顔は、深い憂いと苦悩に満ちている。

 後悔と悲嘆が心の中から彷徨い出てしまわないように──。

 必死で何かを怺えているよう美貌は、鷲塚の苛立ちを誘い、残忍な嗜虐心を呼び起こす。

(……おまえを奪おうとするヤツは、誰であっても許さない──俺はそう言ったはずだ)

 己と零を引き離そうとする者に対しては、どんな理由があっても必ず制裁を加えるとさえ、鷲塚はすでに宣告している。

 それを最初は信じなくても、鷲塚は事ある毎に思い知らせていくつもりだった。

 信じなければ、信じさせるまで──それができないのなら、己の伴侶とはなり得ない。

 零が美しくも儚い幻想を抱いているのだとしても、いつかは鷲塚海琉という男の本性を知らなければならないのだ。

 それが、己に愛された者の宿命。

 自ら望んで堕ちてきても、零はまだ、鷲塚が抱える闇の本当の深さを知らない。

 いつかその闇に触れた時、純粋無垢なセピアの瞳に浮かぶのは、恐怖か嫌悪かそれとも憎悪か──。

 自嘲するように唇をくっとつり上げた鷲塚は、瞑目している零に言った。

「零──俺が帰るまでに、おまえから妹に事情を説明しておけ。
 できなければ、俺から真実を話す事になる。
 それが嫌なら、納得させられるように、しっかり話すんだな」

 暁光を宿したような美しい双眸をはっと見開いた零は、繊細な美貌を青ざめさせ、怯えたように小さくうなずいた。


 鷲塚と別れてマンションに戻った零は、安堵と共に疲労が押し寄せてくるのを感じた。

 どうやらそれは新堂も同じだったようで、胸の中で抑圧されていたものを吐き出すように、盛大なため息をついている。

「──零さん、コーヒー淹れますから、妹さんと一緒に座っていてください」

 コキコキと首を回している新堂を見つめ、零はくすりと微笑んだ。

「ありがとうございます──でも、新堂さんも疲れたでしょう?
 コーヒー淹れるのは私がやりますから、ちょっと休んでいてください。
 咲妃と一緒にいると……気を使ってしまうかもしれないけど……」

 物憂げな微笑みを浮かべた零の声が、咲妃の姿を見つめた途端に小さく、細くなっていく。

 地下駐車場で車から降ろされ、エレベーターに乗せられても、咲妃はほとんど抵抗せずに大人しく従っていた。

 まるで魂が抜けてしまったように呆然としており、陰鬱に沈み込んでいる。

 零に促されてリビングのソファに座らされても、咲妃の視線は一点を見つめたまま、周囲に興味も持たなければ、気も使っていないようだった。

「う〜ん、最後のアレが、とどめでしたかねえ」

 苦笑してぼそりと小さく新堂が呟いた途端、零の頬がかすかに紅潮した。

 東林総合警備株式会社の駐車場で、車から降りた鷲塚は、何を思ったのか急に後部ドアを開けた。

 震えている咲妃を守るように抱き締めていた零は、驚く間もなく引き寄せられ、強引なキスを受け入れさせられていた。

 うなじを押さえられ、顎を捕らえられてしまった零は、深く絡みついてくる舌から逃れられず、ただ息を喘がせることしかできなかった。

 驚愕して見つめてくる咲妃の視線を感じながらも、蹂躙されるように唇を奪われてしまう。

 抵抗しようとする心とは裏腹に、肉体はその快感に痺れたように動かなくなり、気が付けばさらに愛撫を欲するように、零は鷲塚の首根に両腕でしがみついていたのだった。