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TearyDoll


46



 コーヒーメーカーから立ち上るほっとするような香りを嗅いだ途端、零は何度目か判らないため息をついた。

 鷲塚と咲妃の出会いは最悪──こんな事になるなら、実家に帰っていた時、さっさと真実を話しておけば良かったのだ。

 零の中にあったわずかな躊躇いが、告白しようとする口を噤ませ、そして機会を失った。

 その結果、二人の関係は修復不可能なぐらいにこじれてしまい……否、こじれていると言うより、最初から壊滅状態と言った方が正しいのかもしれない。

(……私が、もっときちんと話していれば良かった。
 そうすれば、海琉を怒らせる事も、咲妃を傷つけることもなかったのかもしれない。
 私が逃げ出したから……こんな風になっちゃったんだよね──)

 優柔不断な自分が情け無くなり、零はもう一度小さく嘆息をもらした。

 その時、繰りかえされるため息に呆れたのか、それとも無言で自分の中に引きこもっている咲妃から離れたかったのか、大理石のカウンターの前で立ちつくしている零の傍に、新堂が近寄ってきた。

「ねえ、零さん──妹さんの事は、あんまり落ち込まない方がいいですよ。
 そもそも、ヤクザのオンナになるなんて、普通の家族だったら反対するのが当たり前なんですから。
 家族から悪し様に罵られたり、親戚中から絶縁されたり、そんな事もよくある話です。
 ましてや零さんの相手はあの若頭だし……家族から祝福されるって方が奇蹟なんですよ」

 零は驚きに目を瞠り、苦笑している新堂の顔を見つめた。

「……でも……もっと早く教えて入れば、こんな事には──」

「だからと言って、状況が変わったわけではないと思うんですよね。
 結局、反対されるのは同じだろうし。
 でも、一番重要なのは、零さんがどうしたいかって事じゃないですか?
 若頭と暮らしたいなら、家族の事は諦めなきゃいけないし、咲妃さんと仲直りしたいなら、若頭と別れなきゃいけないし……」

 鷲塚と別れる──それこそ不可能だと内心で思いつつ、新堂は諭すように言った。

 不意に堪えていた涙が込み上げ、零は唇を噛んでうつむいていた。

「──私が……いけないんです……咲妃にちゃんと話さなかったから。
 海琉と別れるなんて、絶対できないのに……それでも、私は咲妃に嫌われたくなかった。
 安斉君の事で喧嘩をして……嫌いだって言われて──だからそれ以上、何も言えなくなってしまったんです」

 ぽつりぽつりと話しながら、零はふっと寂しげに微笑んだ。

「咲妃を…家族を失ってもいいって思えるだけの覚悟が、私には足りなかった。
 臆病な私の心が、あんなに海琉を怒らせて……それでも、海琉が咲妃の事を傷つけるのは許せなくて。
 誰よりも愛しているのに──あの時、私は海琉の事が怖くて、理解できなかった……」

 美しいセピア色の瞳からはらはらと涙の雫がこぼれ落ち、泣き顔を隠すように零は顔を覆ってしまった。

 小刻みに震える華奢な肩を抱き締めたいと、無意識に手を伸ばしかけていた新堂は、はっと我に返ると慌てて拳を握りしめていた。

「零さん──チャカ向けられた時は、俺だって正直びびりましたよ。
 誰だって怖いと思うでしょうし、カタギは当然のこと、同業者だって若頭の事を理解している人なんていないかもしれないんです。
 あの人は怖い男だって、この稼業の誰もが言っています。
 あなたが怖がっても仕方がないし、それも当たり前の事なんだと思いますよ。
 だから……そんなに自分を責めて、泣かないでください」

 極道は、たとえそれが本音であっても「怖い」などと言ってはならない。

 この世に怖い物など存在しない──そういう見栄を張りながら生きていくのが極道なのだが、新堂はついついその大事な見栄を放り出し、必死で零を慰めようとした。

「でも……海琉が、咲妃の事を傷つけたら……私は、自分がどうなるのか判らない。
 そうなった時、海琉を同じように愛せるのか自信がないんです。
 そんな私の迷いを、海琉はきっと気づいてる。
 海琉が帰ってきて、また咲妃と会った時どうなるのか──それが、とても怖くて……」

 零の不安はもっともだと思いつつ、新堂は天井を仰いでいた。

 咲妃の態度は自分勝手であったし、ヒステリックな言い分には新堂でさえも腹が立った。

 安斉とかいう生意気な少年の態度には、自分の神経もキレる寸前だったかもしれない。

 新堂から見れば咲妃は我が儘な小娘でしかないが、零にとっては大切な妹──だからこそ扱い辛いのだが、鷲塚は本気でどうでもいいと思っているようだった。

 鷲塚にとって大切なのは零だけで、その他はオマケ以下でしかない。

 本当に邪魔になれば排除するだろう──鷲塚の言葉にブラフは無いに違いない。

 ただ、それを正直に言うと零が本当に怯えてしまいそうなので、新堂は事態を何とかフォローすべく、頭を巡らせた。

「若頭にしてみれば、まあ、あれも本音なんでしょうけれどね。
 零さんは自分のものだって思っているから、咲妃さんに『あなたのものじゃない』って言われてカチンときたんじゃないですか?
 だいたい、いくら極道でも白昼堂々人を殺すなんて事はありえないし、カタギには手出しをしないっていうのがルールなんです。
 若頭のあれは黙らせるための脅しだったんじゃないですかねえ──まあ、かなり怖かったから効果抜群でしたけど」

 新堂がそう言うと、零は濡れた頬を指先で拭いながら顔を上げた。

「……そうなんでしょうか──私はバカだから、すぐ真に受けちゃって……」

「あの状況で、あれが冗談だって思える人は、なかなかいないでしょうけどねえ」

 ははは……と乾いた虚ろな笑い声を漏らした新堂を見返し、零はくすりと淡く微笑んだ。

「新堂さん、本当にごめんなさい──迷惑ばっかりかけてしまって。
 あ、コーヒーできたから、あっちで飲みましょう。
 咲妃には、私から後で話して聞かせますね。
 やっぱり、どんなに反対されても私は海琉の傍にいたいから、その時は……咲妃の事は諦めます」

 無理に明るく笑おうとする零の顔は痛々しいほどに綺麗で、その顔を見ている新堂の方が、何故か悲しい気分に襲われた。

 零はコーヒーカップを載せたトレーをリビングに運び、ぼんやりとソファに座り込んでいる咲妃の前に置いた。

「──咲妃は、カフェオレの方がいいんだよね?」

 暗く沈みそうな自分の心を叱咤しながら、零は普段通りの明るい口調でそう訊いた。

 咲妃は、部屋の中を見渡していた視線を動かし、自分の顔を覗き込んでいる零を茫然と見返した。

「……お兄ちゃん……ここに、住んでるの?」

 表情を無くしたまま、ぽつんと言葉を吐き出した咲妃に、零はゆっくりとうなずいて見せた。

「あっちの部屋はまだ片づいてないけど、そのうち、全部こっちに引っ越すんだ。
 ごめんね、咲妃──何も言ってなかったから、驚かせちゃったよね」

 零の顔を見つめたまま、咲妃はこくりと首を縦に振った。

 そのまま視線を巡らせ、零と自分の様子を見守っている新堂を認めると、咲妃はさあっと顔に緊張を走らせた。

「──……ここは……あの人の部屋なの?」

 微かに声が震えたのを聞き、零は咲妃が見つめている新堂を見上げた。

「違うんだ、ここは海琉の部屋。
 彼は新堂さん──海琉の……部下っていうのかな?
 いつも僕の傍にいて、僕を守ってくれる人──ボディガードなんだって」

 改めて零が咲妃に紹介すると、新堂は礼儀正しく腰を折って一礼した。

 それを見た咲妃は顔を強張らせたまま、零の顔を見返した。 

「ボディーガード? ……じゃあ、ここは、安斉さんを撃とうとした、あの怖い人の部屋なの?
 お兄ちゃんは、あんな人と一緒に住むの?
 あんな酷い人と一緒に住んだら──何をされるか判らないじゃない!
 お兄ちゃん、きっとメチャクチャにされちゃうよ!」

 自失状態を脱した途端、咲妃の語気が徐々に強く荒くなっていく。

 一方、零は顔を青ざめさせ、否定するように必死に頭を振った。

「咲妃は誤解してる──海琉は、私に酷い事なんてしてない。
 私の事をいつだって大切してくれてるよ。
 だから、心配しないで……」

 焦ってしまったせいか、咄嗟に「僕」がいつも使っている「私」に変わっていたことに、零は気づかなかった。

 咲妃は双眸を大きく見開くと、愕然としたように零を凝視した。

「お兄ちゃん……どうして自分のこと、『私』なんて言うの?
 お兄ちゃんは、お兄ちゃんでしょう?
 あの人と一緒にいるせいで、お兄ちゃん、女の人みたいになってる。
 そんなの、変だよ──お兄ちゃんは、あたしのお兄ちゃんだったはずじゃない」

 はっと息を呑んだ零は、困惑して思わずうつむいてしまったが、急に咲妃に手首を強く掴まれてしまい、セピアの瞳を瞠った。

「──お兄ちゃん、こんな所にいちゃダメだよ。
 あたしと一緒に、家に帰ろう!
 あんな人と一緒にいたら、お兄ちゃん、絶対に不幸になるんだから!」

 咲妃が叫んだ途端、新堂の眉がぴくりと引きつる。

 零は首を横に振り、涙を溜めた瞳で妹を見つめた。

「咲妃──ごめんね、僕はもう、海琉と一緒に暮らしていこうって決めたんだ。
 誰かに強制されたわけじゃなくて、これは自分で決めた事。
 海琉の事を愛しているから、一緒にいようって決心した。
 だから、僕はもう、家には帰らない。
 でもね、僕が咲妃のお兄ちゃんだって事は、これからもずっと変わらないよ」

 零の言葉を聞いて、咲妃が驚愕して目を見開いた。

「……愛してる? お兄ちゃん……あんな恐ろしい人の事が好きなの?
 だって……あの人、ヤクザなんでしょう?
 きっと、悪い事ばっかりしてるはずで──」

 理解できないというように呟いた咲妃の手に、零はそっと掌を重ねた。

「僕は、海琉の事が好きになった──ただ、それだけ。
 一緒にいられるだけで幸せだから、ずっと一緒にいたいと思ったんだ。
 海琉の立場とか、ヤクザだとか……全然気にならないと言ったら嘘だけど、彼を愛していることに変わりはないよ。
 ──それにね、海琉も僕の事を本当に愛してくれてるんだ」

 今にも泣き出しそうな咲妃の顔を見つめ、零は優しく微笑んだ。