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TearyDoll


47



 零の顔をしばらく茫然と見つめ返していた咲妃は、やがて、瞳に涙を溜めたまま、不審を露わにした表情を浮かべた。

「──あの人が、お兄ちゃんの事を本当に愛してるって、どうしてそんな事が判るの?
 あんな人と一緒にいたら、悪い事件に巻き込まれて、殺されちゃうかもしれないんだよ?
 それでもいいの? それでも一緒にいられて幸せだなんて言える?
 少し考えれば判ることじゃない──ヤクザなんかと一緒にいたら、お兄ちゃんがもの凄く苦しむことになるってことぐらい。
 そんな簡単な事が、どうして判らないのよ!」

 咲妃の語調が強く、鋭くなると、零は気圧されたように息を飲み、憂えるように視線を伏せた。

「それは……判ってるんだ──静かで平穏な生活は、もう送れないって。
 だけど、海琉は僕の事を選んでくれた……愛してるって言ってくれた。
 本当にそれだけで良いって思えたから、僕は彼の傍で暮らしていこうって決めたんだ。
 だから……海琉の言葉と気持ちを──僕は信じてる」

 迷いの無い眼差しがすっと上がり、静かに咲妃を見つめる。

 思わずドキリとするほど美しいセピアの双眸は、今まで見たことが無いような鮮やかな色合いに染まっており、咲妃は一瞬言葉を失った。

「──……お兄ちゃん、絶対に騙されてるのよ。
 あの人はきっと、お兄ちゃんみたいな人が珍しいと思ったから──」

 そこまで言って、はっと息を飲んだ咲妃は、気まずそうに視線を膝に落とした。

「ごめんなさい──あたし、謝りに来たはずなのに……」

 唇を噛んだ咲妃の顔を見つめ、零は淡く微笑んだ。

「判ってるよ、咲妃の気持ちは──僕の事、心配してくれてるんだもんね。
 でも、僕は大丈夫だから、本当に心配しないで。
 もし何かあったら、今度は真っ先に咲妃に知らせるから」

 不安そうに瞳を揺らす妹に笑いかけた後、零は立ち上がりながら、黙って様子を見守っていた新堂に向き直った。

「今夜、咲妃をここに泊めてもらえるかどうか、海琉に話してみます。
 もしダメだって言ったら、ホテルを取ってもいいし……」

「零さんはどうするんですか?」

「もう少し咲妃と話し合いたいんです。
 だから、ホテルに泊まるなら、私も一緒に──」

 零の言葉を聞き、新堂は考え込むように宙を仰いだ。

「ホテルというのは、無理なんじゃないですか?
 戻ってきたばかりの零さんを、若頭が外泊させるとは思えないし。
 そのぐらいだったら、使っていない客間に咲妃さんを泊めるんじゃないかなあ」

 すると、零の服をつかんだまま、咲妃が必死で訴えるように言った。

「お兄ちゃん……あたし、ここに泊まるなんて絶対に嫌!
 あの人とまた顔を合わせるのイヤだもん。
 ねえお願い、もうちょっと一緒にいて──明日はちゃんと家に帰るから」

 明らかに零に甘えて我が儘を言っている咲妃を、新堂は呆れたようにジロリと睨み下ろした。

「あれもイヤ、これもイヤって、我が儘ばっかり言ってるんじゃない。
 見ろ、零さんだって困ってるだろうが」

 困惑している零を見上げた咲妃は、気の強さを滲ませた瞳で新堂を睨みつけた。

「あなたには関係無いでしょ?
 これはウチの重大問題なんだから、関係無い人は黙っててよ」

 零に対しては常に礼儀正しく接している新堂であったが、妹である咲妃の生意気で可愛げの無い言葉にはさすがにカチンときた。

 新堂の怒りを敏感に察した咲妃は、焦ったように零の背後に姿を隠そうとした。

「と、とにかく……海琉が帰って来ないとどうしようもないですよね。
 咲妃には客間で休んでいてもらって、その間に、海琉と話してみます」

 咲妃と新堂の間に流れる不穏な空気を感じ取った零は、慌ててそう言い、自分の背中にしがみついている妹を見下ろした。

「ごめんね、咲妃──海琉が帰ってくるまで、客間で休んでいて。
 昨日からずっと待ってたなら、疲れてるでしょう?
 ベッドを用意するから、少し眠っていていいよ」


 ゲストルームへ咲妃を案内する零の後ろ姿を眺めていた新堂は、複雑な心境を代弁するようなため息をついた。

 二人の様子を少し見ているだけでも、零が咲妃に対して甘い事が判る。

 おそらく、零は今までずっと、咲妃の我が儘を聞き入れ、過分に甘やかしてきたのだろう。

 咲妃は本能的にそれを察した上で、傲慢なほどの態度で甘え、自分の思うように零を動かしてきたのだ。

 零が抱いている咲妃のイメージより、実際の咲妃は、零が思っている以上にしたたかで、計算高いに違いない。

 たとえ何をしても、何を言っても、最終的には、零がそれを許してくれると思っている。

 そして、兄から与えられる無償の愛情が、永遠に続くと信じて疑わなかったに違いない──少なくとも、鷲塚の存在を知るまでは。

(……ったく、あのガキ──零さんの妹じゃなきゃ、とっくに追い出してるとこだ)

 零の優しさの上にあぐらをかいているような態度が、多分、鷲塚や自分の神経を逆撫でするのだろう。

 つらつらと自己分析した新堂は、ドサリとソファの上に腰を落とし、まだ手を付けていなかったコーヒーカップを口許に運んだ。

 ぬるくなってしまったコーヒーは、それでもふわりと良い香りがして、ささくれだった気分を落ち着かせてくれた。

「──しっかし、どうなるんだろうな、この後……」

 声にするつもりの無かった言葉を独白し、思わず苦笑してしまう。

 あの鷲塚が、咲妃に対して遠慮する事などあり得ないし、懲りずに噛みついてくるなら、二度とそんな気を起こさなくなるように処断するだろう。

 そう考えた途端、拳銃を向けられた時の本能的な恐怖が蘇り、新堂の背中に冷たい汗が流れた。

「別に妹の方はどうでもいいけど……零さんが泣くのはちょっとな──」

 ふうっと大きく息を吐き出した新堂は、内心で湧き起こるジレンマを封じるように、指先で眉間を押さえた。




「──あ…あの、お帰りなさい」

 夕方になって鷲塚が帰ってきた時、玄関に迎えに出た零は、少し躊躇いながらそう言った。

 しばしば鷲塚が見せる冷酷な一面を、零は理解する事ができない。

 どんなに年月を重ねても決して理解はしえないとは判っているものの、零には見えないその部分が本能的に怖れを呼び起こしてしまう。

 零を見下ろした鷲塚は、その気持ちを見透かすように硬質な鋼色の双眸を細めた。

「妹と話は終わっているのか?」

 どう話を切り出そうかと零が視線を揺らした途端、まるで心の動きを察したように鷲塚が冷静な口調で訊ねてきた。

「……う、うん……一応は話したんだけど──。
 でも、もう少し話し合いたいから、今夜、ここに咲妃を泊めてあげてもいい?」

 リビングのソファに座った鷲塚は、おずおずとした様子で話す零と、その背後に控えている新堂の顔を見比べた後、表情を変えずに言った。

「だめだ、さっさと実家に送り返せ。
 言っただろう、帰るまでに事情を説明しておけと。
 妹を納得させられるかどうかが問題じゃない──必要な事だけ伝えておけばいいんだ」

「だって……それじゃ、咲妃が誤解したままになっちゃうよ。
 私は、咲妃にもちゃんと海琉の事を知っていてほしいから……」

 問答無用と言うような鷲塚の態度に驚き、零は慌てて言い返す。

 すると鷲塚は一瞬視線で宙を仰ぎ、嘆息しながら言った。

「止めておけ、時間の無駄だ。
 おまえがいくら説明しても、おまえが思うようにはならない」

「そんな事無い──きちんと話し合えば、きっと咲妃は理解してくれるはず……」

「零、妹だからと言って、過剰な期待はするな。
 おまえ自身が理解できないものを、どうやって相手に理解させるつもりだ?」

 必死に言い募る零を見返しながら、鷲塚は淡々と問い返す。

 その口から流れる言葉は、研ぎ澄まされた刃のように鋭く、氷のように冷たい。

 愕然として目を瞠った零は、突然、手首を掴まれて引き寄せられ、鷲塚の座っているソファの上に組み伏せられていた。

「か…海琉……何を──?」

 咄嗟の事に動揺し、身体を硬く強張らせた零を、鷲塚は真上から見下ろした。

「零──俺が怖いか?」

 そう問いかける声音は、何故かひどく甘い──そして、深い闇を孕んだ鋼の瞳が、獲物を狙う猛獣のように冷ややかな光を放っていた。