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TearyDoll


50



 散々新堂をからかった後で、薫が決心したように言った。

「──とにかく、やっぱり心配だから、あたし、海琉のとこに行ってくるわ。
 零ちゃんの様子も気になるし、まだ咲妃ちゃんがいるんだったら、連れ出してやった方がいいだろうから……」

「一緒に行きましょうか?」

 それまで黙っていた高宮がそう言うと、薫は片手を軽く振った。

「一人で行ってくるわよ。
 組の者が行くと、面倒な事にもなりかねないから」

 にっこりと笑った薫を見つめ、高宮は同意したようにうなずき、そして新堂は──安堵したようにほっとため息をついたのだった。



 膝を抱え込んだまま、どのぐらいそこに座っていたのか──。

 突然、鳴り始めた携帯電話の着メロの音で、咲妃はようやく我に返った。

 慌てて携帯電話を取り上げると、そこに「安斉尚之」の名前が表示されている。

『──もしもし、咲妃ちゃん?』

 安斉の声を聞いた瞬間、咲妃の張りつめていた神経が緩み、安堵で涙が溢れてきた。

「……あ、安斉さん……ごめんなさい……ホントに…ごめんなさい──」

 嗚咽しながら必死で謝る咲妃の声を聞き、安斉が驚いたように言った。

『どうしたんだよ──俺は別に大丈夫だからさ、心配すんなって。
 それより今、どこにいるんだ?』

「あたし……お兄ちゃんの……あの男の人の家にいるんだけど──。
 でも、あたし……お兄ちゃんの事……助けてあげられない。
 もう…ダメ……怖くて──もう、帰りたい……」

 すがりつくように携帯電話を握りしめ、咲妃は泣きながらそう訴えた。

 電話の向こうで安斉が考え込むように押し黙り、しばらくしてからやや固い緊張したような声で訊ねた。

『──助けに行ってやりたいけど、場所が判んねえからな。
 咲妃ちゃん、そこから出て来られる?』

「それは……できると思うけど」

『じゃあ、今から出て来いよ──待ってるから』

 ひどく優しい安斉の声に励まされ、咲妃は手の甲で涙をぬぐいながらうなずいた。

 手早く準備を整え、咲妃は気配を殺すようにして玄関へと向かった。

 やっとこの息が詰まるような場所から逃れ、外へ出られる──そう思い、静かにドアノブを回そうとした咲妃は、突然、異常に気づいた。

(──ドアが開かない!?)

 何度か無意味にガチャガチャとドアノブを押したが、優雅な見かけとは裏腹に堅牢なドアはぴくりとも動かなかった。

 焦燥に駆られ、力ずくでドアを押し開けようとした時、不意に冷ややかな低い声が背後から響いてきた。

「それは特殊なロックになっていてな。
 外からも内からも、キーがなければ開かない仕組みになっている」

 悲鳴を上げそうなほどに驚き、咲妃がぱっと振り返ると、どうやらシャワーを浴びた後らしいバスローブ姿の鷲塚が立っていた。

 悠然とくつろいだような態度で壁にもたれていた鷲塚は、ふっと何かを思い出すように苦笑をもらすと、額に落ちかかる濡れた前髪を掻き上げた。

「零も、今のおまえと同じような事をしていたな。
 どんなに頑張っても開きはしないというのに」

 嘲笑うような声音は凍えるように冷たく、咲妃は後退ることもできずにドアに貼り付いていた。

「あ……あなたは、お兄ちゃんを…ここに閉じこめているのね!
 だから──お兄ちゃんは、あなたから逃げられないんだわ!!」

 恐怖に引きつった声で咲妃が叫ぶと、鷲塚はすっと鋼色の双眸を眇めた。

「零は自分の意志でここに留まっている──俺の素性を知った上でな」

「どうせ悪い事をして、お兄ちゃんを騙してるだけでしょう?
 でなきゃ、何でお兄ちゃんみたいな人が、ヤクザなんかと関わるのよ!」

 咲妃が詰るような言葉を放つと、鷲塚は冷淡な瞳で彼女を見返しながら薄く唇をつり上げた。

「知らないというのは幸せな事だな──零が俺に囚われたのは、おまえや家族を守るためだった。
 おまえがのうのうと生きていられたのも、零のおかげだったというのに。
 だが、それだけ愛されていながら、おまえは零の心を傷つけた。
 俺の事をどうこう言う前に、少しは自分のやった事を反省したらどうだ?」

「ど、どういう事……お兄ちゃんのおかげって?
 そ、それに、あ……あたしが傷つけたって……そんな事、あなたに関係ないでしょう?
 あなたこそ、お兄ちゃんの身体が珍しいからって、あんな事するなんて──。
 あたしのお兄ちゃんに、酷い事しないで!」

 その途端、鷲塚の総身から万物を凍てつかせるほど冷たい怒りの波動が迸った。

「人間の本性が現れるのは、ギリギリの所に追いつめられた時だ。
 零は、必死で俺と闘い、おまえたちを守り抜こうとしていた。
 だがおまえは、零の弱点を平気で傷つける。
 言ったはずだな、零は俺のモノだと──零を傷つけるヤツは、俺が許さない」

 押し潰されそうなほど凄まじい威圧感に、咲妃はガタガタと身体を激しく震わせながら、その場にしゃがみ込んだ。

 恐怖のあまり悲鳴も出せず、呼吸すらも上手くできない。

(──どうして……どうして、お兄ちゃんはこんな人を……?)

 目の前に立つ男が心底恐ろしいと思った。

 こんな男と何故零が一緒にいるのか、どうして愛する事ができたのか──理解できない。

 ところが、気を失いそうになる寸前、背後のドアが激しく叩かれ始めた。

「ちょっと〜! 海琉、いるんでしょう? いるんだったら、ここ開けなさいよ!」

 うるさく感じるほどインターフォンが続けざまに鳴らされ、その音で咲妃は意識を引き戻す。

 鷲塚もまた咲妃から注意を逸らし、苛立ったように小さく舌打ちをした。

 玄関ドアが開けられると、華やかな雰囲気の女が現れ、鷲塚と咲妃の姿を呆気に取られたように見つめた。

「ちょ、ちょっと……何をやってんのよ、あなた達──?」

 愕然としたように言った薫を鷲塚は冷淡に眺め、ふんと軽く鼻を鳴らした。

「特に何も。だが丁度良い、おまえ、こいつを連れて行け」

 咲妃を見下ろし、もはや用済みというように鷲塚が顎をしゃくると、美しく睫毛をカールした瞳をすっと細め、薫は常よりも低い剣呑な声で問い質した。

「言われなくてもそのつもりだけどね──咲妃ちゃんに何を言ったのよ、海琉?」

「零を傷つけるな。俺の邪魔をするな──ガキでも判るだろう」

 あっさりと答えた鷲塚の顔をマジマジと見つめ、薫は呆れ果てたというように大きなため息をついた。

 そして、ヘアスタイルが崩れることも構わず、がりがりと頭をかく。

「──……あのねえ、あんたもイイ年して、ガキのケンカしてんじゃないわよ。
 相手は高校生の女の子よ──それもカタギの!
 あんたがそんなんじゃ、余計に零ちゃんが傷つくだけじゃないのよ!」

「俺以外の人間が、零を傷つけるのは許さない──それだけだ」 

「バカじゃないの!
 そんなに零ちゃんが大事なら、素直に『大切にしたい』って言いなさいよ!」

 無機質な鋼の双眸を睨みつけ、薫がぴしゃりと言い放つ。

 その後、ふうっと大きく息を吐き出し、薫は咲妃を見下ろしながら落ち着いた口調で告げた。

「とにかく、この子はここに置いておけないから、あたしが連れて帰るわ。
 いい? 前にも言ったけど、零ちゃんにあんまり無理はさせないでよ。
 ──何かあったら、連絡して」

 薫は放心状態になっている咲妃の傍にしゃがむと、そっと労るようにして肘を取った。

「咲妃ちゃん、今夜は私の所に泊まっていってちょうだい。
 あなたが聞きたがってる事は、私から説明するから」

 咲妃はのろのろと視線を動かし、顔を覗き込んでくる薫を見上げた。

「──……嫌い……お兄ちゃんをあたしから取り上げようとする人は、みんな嫌いよ。
 もう、何も聞きたく無い! あたしの事は放っておいてよ!」

 咲妃の声がヒステリックな甲高いものになった途端、薫は彼女の頬をひっぱたいていた。

 頬で鳴った音は軽く、ほとんど痛みも無い。

 だが、見ず知らずの女に叩かれた事の方が遙かにショックだったため、咲妃の双眸から今まで怺えていた涙がぼろぼろと流れ出した。

「落ち着きなさい──ヒステリーを起こしてもみっともないだけよ。
 あなたが聞きたくないのなら、私は何も話さないわ。
 駅まで送って行くから、あなたは自分の家にお帰りなさい。
 今の時間だったら、まだ帰れるでしょう?」

 淡々とした口調でそう言いながら、薫は内側からロックされた玄関ドアを開けた。