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TearyDoll


51



 唇に押しつけられた柔らかな感触に意識を揺り動かされ、零は重い瞼をゆっくりと上げた。

 目尻に留まっていた涙が一筋、頬を滑り落ちる。

 するとベッドの端に腰を下ろしていた鷲塚が唇を寄せ、その雫をついばむように口づけた。

 涙の跡をたどるように舌が這わされると、そのくすぐったさに零は思わず口許をほころばせていた。

 しかし、客間にいるはずの咲妃の存在を思い出した途端、零ははっとセピアの瞳を瞠った。

 同時にリビングで強引に鷲塚に抱かれた事を思い出してしまう。

 ソファに組み伏せられ、鷲塚の愛撫を受ける姿を、新堂に見られてしまったのだ。

 新堂は出ていったが、鷲塚の情欲に煽られるように、零は翻弄されるまま快感に溺れた。

(──あんな姿を……もし、咲妃に見られたら……)

 目隠しをされていたせいで、鷲塚の唇や指先の愛撫、そして花芯を貫く屹立の感触や熱さを感じることはできたが、全ては闇の中の出来事だった。

 囁きかける声は鷲塚だけ──咲妃の声は聞こえてこなかった。

(……咲妃が起き出してきたら、止めてやるって言ってたけど──)

 その言葉を信じたいと思ったが、どうしても湧き起こってくる不安は止められなかった。

「……零、辛いのか?」

 ぼんやりとした表情で天井を見上げている零を見下ろし、鷲塚が静かな口調で問うた。

 顔をそちらに向けた零は、指先まで重く感じられる両腕を無言で伸ばした。

 鷲塚は、零の背に腕を回して抱き起こし、そのまま胸の中に引き寄せる。

 ことんと頭部を広い胸に預けた零は、規則正しく響いてくる鼓動に耳を傾けた。

(──海琉は……こんなに温かいのに……)

 冷酷非情に見える男の内側に、不器用な優しさや思いやりが隠されていることを零は知っている。

 だが、表に見せる顔はどこまでも冷たい──そして人を平気で殺める怖さも持っているのだ。

 咲妃が鷲塚に対して拒否反応を示すのは、仕方がない事なのかもしれない。

(それでも……私は…海琉の事を愛してる──)

 たとえ誰に認められなくても、この想いは変わらない──そう強く思っている事が、きっと一番大切なことなのだろう。

「……海琉──咲妃は…どうしてる?」

 ぽつりと呟くような声で零が訊ねると、わずかに鷲塚の体躯が身じろぎをした。

「おまえの妹なら、薫が連れて行った。
 駅まで送ると言っていたから、そこから家に戻るだろう」

 感情のこもらない冷淡な声音で鷲塚が答えると、零は小さくため息をついた。

「そっか……」

 しばらく沈黙が続いた後、不意に鷲塚が問い返した。

「零、俺を責めないのか?」

 一瞬、何を問われたのか判らずに、零は鷲塚を見上げた。

 すぐ間近に無機的な光を放つ双眸があり、零は、魅入られたように冥い闇をはらんだ瞳を見つめた。

「──私…海琉の事、大好きだよ……だけど…咲妃の事も大切なんだ。
 だって、咲妃は──生まれた時からずっと守ってきた、私の大事な妹だから……」

 自分の心情を必死で語ろうとする零を見下ろし、鷲塚はふっと嘆息をもらした。

「判ってる、おまえが家族思いなのは──最初からな」

「……えっ?」

「おまえが最初に俺の所に来たのは、家族を守るためだった。
 自分は殺されてもいいから、家族には手を出すな──そう言っただろう?
 そんなおまえだからこそ、惹かれたのかもしれないがな」

 苦笑を浮かべた鷲塚は、驚いたように目を瞠っている零の唇にそっと口づけた。

 触れるだけのキスが離れると、零は鷲塚の背に腕を回して抱き締めた。

「私、誰に認められなくても、海琉の傍にいる。
 私の居場所はここだから……どこにもいかない。
 咲妃の事は、もういいんだ。
 海琉の言った通りだった──そんなに簡単に、人の心は変えられないよね」

「そうだな……人の心は、簡単には変わらない」

 繰りかえすように呟いた鷲塚の声の中に、何故か微かに悲痛な響きがあるような気がして、零はふっと顔を上げた。

「──海琉?」

 零が問いかけるように名を呼ぶと、鷲塚は軽く首を横に振り、ベッドから立ち上がった。

「零、もう少し休んでいろ。後で食事に連れて行く」

 背を向けて寝室を出ていった鷲塚に、零はそれ以上問いかけることができなかった。

 しばらくベッドに横たわって天井を見上げていた零は、突然、異常な空腹感を感じた。

 そう思った途端、グーグーとお腹が盛大な悲鳴を上げ始める。

「……お腹空いた──そう言えば、朝から何も食べてなかったんだよね……」

 布団の上から腹部に掌を当て、思わずため息をついた零は、何も衣服を身につけていない事に気づき、慌ててシーツを身体に巻き付けた。

 そのままクローゼットに飛び込み、Tシャツとジーンズを身につけた零は、鈍い痛みのある腰をさすりながら寝室のドアを開けた。

 リビングに出ると、ソファに座ってパソコンに向かっている鷲塚の姿があった。

「起きたのか──飯食いに行くか?」

「うん、お腹空いちゃった」

 結局、食材の買い出しには行けなかったが、このまま穏やかな日々が続くのなら、また明日考えばいい。

 そう思いつつ零が微笑むと、鷲塚がにやりと笑った。

「何が食いたい? おまえが食いたいものでいいが、スタミナつけとけよ」

「……う〜ん…スタミナかぁ──じゃあ、焼肉?」

「焼肉か──」

 零の答えが意外だったとでも言うように、鷲塚は少し考え込むように天井を仰いだ。

 と、その時、ダイニングテーブルの上に置きっぱなしにしていた零の携帯電話が鳴り始めた。

 その着信音を聞いた瞬間、零の身体が一瞬小さく震える。

 鷲塚の視線を気にしながら、青ざめた顔で携帯電話を手に取った零は、「咲妃」という表示を確認してから通話ボタンを押した。

「──……もしもし、咲妃?」

 キッチンの方に移動しながら、声をひそめて問いかけた零は、一瞬の沈黙の後、くすくすと笑う男の声を聞いた。

『零さん? ああ、そのまま黙って聞いてくれよ──咲妃ちゃんにケガさせたくなかったらね』

 その声に聞き覚えがあった零は、はっと息を飲み込み、反射的にリビングにいる鷲塚の方を振り返っていた。

 ちょうどノートパソコンを閉じていた鷲塚は、血の気の引いた零の顔を見返し、怪訝そうに眉根をひそめる。

 慌てて鷲塚に背を向けた零は、声の主を確かめるように問いかけた。

「……安斉君? 咲妃は…咲妃は──?」

『俺の声、覚えててくれたんだ──あのさあ、これから一人で出て来てくんないかな?
 もちろん、零さんの恐い彼氏や警察には内緒にしてくれよ。
 じゃないと……零さんの大事な妹さん、滅茶苦茶にしちゃうぜ』

「ど……どうして、君は……?」

 零の問いは震えて声にならず、ただ小さな掠れた音だけが唇からもれた。

『理由は会ってからゆっくり教えてやるさ。
 それより、今から時間と場所を言うから、忘れないように覚えてくれよ』

 電話の向こうで低く笑った安斉の声が一旦途切れる。

 息を詰めたまま零が彼の言葉を聞いていると、不意に安斉が嬲るような、ひどく優しい声で告げた。

『零さん──楽しみに待ってるからね。
 心配しなくても、零さんが約束を守ってくれたら、咲妃ちゃんは無傷で帰してやるよ』

 ぷつりと切れた携帯電話を持ったまま、零は呆然と立ちつくした。

「──零、誰から電話だった?」

 先ほどまでと変わらない様子でソファに座っていた鷲塚に問われ、一瞬、零は答えに窮する。

「う、うん……咲妃から──」

 嘘をつかなければならない事に良心の呵責を覚え、零の声は小さくなる。

 しかし、鷲塚はそれ以上問い詰めることなく、興味無さそうに鼻を鳴らしただけだった。