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TearyDoll


52



「何だ、もう食べないのか?」

 鷲塚に連れてこられたのは、まるで和食懐石を食べさせるような落ち着いた雰囲気の焼肉屋だった。

 モダンなインテリアと調和した個室に案内され、様々な牛肉や料理がテーブルに並べられたが、零の箸はあまり進まなかった。

 つい先刻は激しく空腹を訴えていた胃が、どうやらストレスで縮こまってしまったらしい。

 零は小さく微笑むと、一度箸を置いた。

「こんなに美味しいお肉、初めて食べたよ。
 だけど、こんなに沢山は、やっぱり食べきれないや」

「相変わらず少食だな、おまえは……」

 少し呆れたようにため息をついた鷲塚は、零が驚くほど旺盛な食欲を見せ、テーブルに残っている皿を片っ端から片づけていく。

「海琉って、凄く沢山食べるんだね」

 感心したように零が言うと、鷲塚は軽く片眉をつり上げた。

「普通だろう──まあ、さっきおまえを抱いたから、腹は減ったが」

 その言葉に、思わず頬を赤らめた零は、ふと何気ない会話を続けることが辛くなってうつむいてしまった。

(咲妃を助けてって海琉に言えれば──。
 でも私が一人で行かなきゃ、咲妃がどうなるか分からないし……それに、この事を知ったら、海琉はきっと凄く怒るんだろうな)

 安斉から突然かかってきた電話を思い出し、零の気持ちは暗く沈んだ。

 自分一人で解決できるのか分からない。
 相手は高校生だが、自分よりも遙かに強かで、力も強いのだろう。

 そう思い、零は内心で嘆息をもらした。

 安斉の言う通りに行動して、本当に咲妃が何事も無く戻ってくるのか、零自身も無事に帰れるのか、その保証は何も無いのだ。

 本当は恐くて仕方がない──このまま鷲塚と共に居られれば、何を怖れることもなく安心して過ごせる。
 咲妃の事も安斉の事も、全て鷲塚に委ねてしまえば、きっと零自身は傷つかず、守られたまま過ごせるのだろう。

 だが──もしそうなれば、安斉を傷つけることを、鷲塚はきっと躊躇わない。

『……何の理由も無ければ殺さない──それが掟だからな。
 だが、殺し自体は容易い……人は呆気ないほど簡単に死ぬ』

 ふと、鷲塚が言った言葉を思い出し、零は氷の欠片が背筋を滑ったような寒気を感じた。

(理由があれば……海琉はきっと、安斉君を──)

 そんな事はさせられない──自分が引き起こしたトラブルのせいで、鷲塚に罪を犯させることなど、絶対にあってはならない。

 零はそう決意したが、しかし自分一人でどうすれば良いのかは判らなかった。

 そして、安斉が指定してきた時刻には、もうあまり時間が残されていなかった。

「──零?」

 黙りこくってうつむいている零に不審を抱いたように、鷲塚が名を呼んだ。

 零は慌てて微笑みを作り、中断していた食事を再開した。


 壁や床が大理石張りのトイレに入った零は、洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、思わず大きなため息をついた。

 鷲塚と離れることはできたが、これからどうやって店を出たら良いのか──。

「部屋から玄関は見えなかったし、トイレの方が玄関に近いんだよね」

 洗面台に両手を突き、しばらく考え込んでいた零は、周囲をうかがいながらトイレから出ると、そのまま足音を忍ばせて玄関へと向かった。

「──すみません。車に忘れ物をして来てしまって……取りに行って来てもいいですか?」

 零が恐る恐るそう訊ねると、レジにいた女性店員が怪訝そうな顔で見返してきた。

「失礼ですが、お客様は──」

「奥の個室に連れがいるんですけど……彼に渡さなければいけない物を……忘れてきてしまって──」

 咄嗟に嘘をついてしまい、零は罪悪感にかられてうつむいてしまった。

 その時、どうやら零の顔を覚えていたらしい男性店員が通りがかり、慌てたように同僚に耳打ちをした。

 一瞬、愕然としたように零を見返した女性店員は、掌を返したように愛想良くなり、わざわざ自ら自動ドアを開けてくれた。

「海琉──ごめんなさい」

 店の外に出た零は、小さな声でそう呟くと、決意したように踵を返して走り出した。





「ねえ、安斉さん。本当にお兄ちゃん、一人で来るのかしら?」

 安斉と待ち合わせをしていたホテルのラウンジでアイス・カフェオレを飲みながら、咲妃はぽつりとそう訊ねた。

「来ると思うぜ──咲妃ちゃんの事が心配なら、絶対にね。
 それに、来られないとすれば、やっぱりあの男に監禁されてるってことだろ?
 だったら、余計に零さんを助けてやらないといけないんじゃないか?」

 咲妃の携帯電話を使って零に電話をかけた安斉は、それからずっと上機嫌だった。

 だが、どういう口実で零を呼び出したのか、咲妃は何も聞かされていない。

「大丈夫、ヘマはしないよ」

 心配そうに見つめていた咲妃を見返し、安斉はにこりと微笑んだ。

 ハンサムな笑顔を向けられると、咲妃は頬が熱くなってくるのを感じた。

(……安斉さんが大丈夫だって言うんだから、きっと大丈夫よね)

 超難関な一流大学へ進学する生徒の多い清塔学園にあって、安斉の成績はトップ5に入るほど優秀であるらしい。

 咲妃が通う予備校でも、安斉は常に特進クラスのメンバーだった。

 大学は法学部に進学して、弁護士か検事を目指したい──安斉は咲妃に夢を語った。

「俺の家って、親父も兄貴も警察官だろ?
 まあ、同じ職場で働きたくはないけど、やっぱり正義の味方みたいな仕事はしたくてさ。
 俺って、昔から悪いヤツを放っておけない性分なんだよな」

「……だから、あたしを──お兄ちゃんを助けようって言ってくれたんですか?」

「そういう事かな。
 もちろん零さんは憧れだったから、ヤクザに騙されてるって知って、どうにかしなきゃって思うんだけどさ。
 だけど、咲妃ちゃんがお兄ちゃんを助けようって一生懸命だから、手伝ってやりたいって、すっげー思うわけ。
 咲妃ちゃんがいなかったら、さすがに逃げ帰ってるかもしれないし」

 頬杖をついて笑う安斉の顔は魅力的で、咲妃は思わず目を奪われていた。

 心臓が鼓動を速め、体温が急上昇していくような感覚を味わう。

 何も言えなくなってうつむいた咲妃を見返し、安斉はくすりと笑うと、腕時計で時間を確かめてから立ち上がった。

「──さて、そろそろ行こうか。
 咲妃ちゃんは危険だから、このホテルで待ってろよ。
 無事に零さんと会えたら、ここに戻ってくるから」

「え……? あたし、一人で?」

 慌てて立ち上がった咲妃を見下ろし、安斉は重々しくうなずいた。

「零さんの相手はヤクザだぜ。どんな悪どい手を使ってくるか判らないだろ?
 咲妃ちゃんを危険にさらすのは俺の本意じゃないし、零さんも悲しむだろうからな」

「で、でも、安斉さんが危険な目に遭うんじゃ……」

「俺は大丈夫だって言ってるだろ。
 優秀な助っ人も呼んであるし、大丈夫だって」

 気楽な口調で言いながら、不意に、安斉は咲妃の肩を抱いた。

 その瞬間、咲妃の頭は緊張で真っ白になり、促されるままにエレベーターに乗り込んでいた。

 エレガントなインテリアのツインルームに案内され、そのままベッドに座らされる。

 爆発寸前まで高鳴っている心臓を押さえるように、咲妃は両手を握りしめてうつむいていた。

 その時、カーテンを開けて窓の外を眺めていた安斉が、ゆったりとした足取りで近づいてきた。

「じゃあ、行ってくるから」

「あっ……は、はい……気を付けて──」

 ぱっと顔を上げた咲妃は、身を屈めるようにして自分の顔を覗き込んでいる安斉の顔を見た途端、思わず硬直していた。

「咲妃ちゃん──キスしていい?」

「──え?」

 何を言われたのか理解できず、咲妃が呆然と聞き返すと、安斉はにやりと悪戯っぽく笑った。

 そのまま顔が近づき、そっと咲妃の唇に唇が重ねられる。

 それは、まるで夢に見たような、柔らかく優しいキスだった。