Rosariel.com
TearyDoll


6



 計画が予想以上にうまくいき、久しぶりに晴れ晴れとした気分で、咲妃は自宅前に続く夜の坂道をスキップしながら上っていった。

(計画を思いついたあたしもすごいけど、やっぱりお兄ちゃんに感謝よね〜)

 駅から予備校へ向かう道の途中で、携帯電話をブレザーのポケットから取り出すふりをして、咲妃は安斉の前に定期入れを落とした。

 無視をされてしまったならとても悲しい事になっただろうが、咲妃が憧れてやまない清塔学園の先輩は、そこまで薄情な男ではなかった。

「──おい、落としたぞ、定期!」

 長身を屈め、少し面倒くさそうな声を上げた安斉尚之は、ふと手元の写真を見下ろした時、あまりの衝撃に瞳を見張っていた。

 写真に映っているのは、安斉の前方を歩いていた少女と、自分と同じ清塔学園の制服を着た地味な男子生徒だった。

 だぶついた大きすぎる制服と、今時誰も使っていないような黒縁眼鏡、そして何より、少女と一緒に笑う優しげな顔には見覚えがあった。

 彼を忘れた事など、一度だってない。

 急いで定期の名前を確認すると、そこには「ナルカワサキ」と記されていた。

 ナルカワ……鳴川零──安斉が高等部に進学した年の文化祭で、三度目の『ミス清塔』に輝いた伝説的な美少年。

 驚愕に立ちつくしていると、急いで電話を切ったらしい少女が駆け寄って来た。

「すみません、ありがとうございました」

 安斉の前でぺこりと頭を下げた少女は、それなりに整った顔立ちをしていたが、あの鳴川零には全くと言っていいほど似ていなかった。

 さらさらと肩から流れ落ちる長い黒髪をぼんやりと見つめながら、安斉は聖華女学園の制服を着た少女に定期入れを差し出していた。

「もしかして──あんた、鳴川零の妹?」

 定期入れを受け取った咲妃はぱっと明るく顔を輝かせ、そして大きくうなずいたのだった。


 玄関を開けた咲妃は、いつもより帰宅が遅くなったこともあって「ただいま」と小さく呟いた。

 母親に「何かあったの?」と聞かれるのが嫌で、こぼれんばかりの笑顔を硬い無表情の中に押し込めたまま、咲妃はリビングルームに鞄とジャケットを置いた。

「お母さん──カフェオレ用意しといてくれる?」

 予備校から帰った後は、学校の宿題を終わらせなければいけない。

 自分の部屋にカフェオレを持ち込んで勉強するのが、咲妃の習慣だった。

 ソファでテレビを見ていた美弥子に、いつも通りの言葉を残すと、咲妃はそのまま手を洗いに洗面所へと向かった。

 廊下に出た途端、咲妃の唇に堪えきれない微笑みが浮かぶ。

(──やった、安斉さんとやっと喋れた。
 『今度、また話せない?』だって……)

 嬉しさのあまり大声で叫び、踊り出したい気分だったが、家族に不審がられると困るため、咲妃は含み笑いの中に全ての感情を隠した。

 それでも胸の中は浮き立ち、かつて味わった事がないほどの幸福を感じる。

(まだ全然片思いのままだけど、それでもちょっとは前進だよね)

 自分を励ますようにそう考えながら、咲妃は洗面所の扉を開けた。

(──えっ? ……お兄ちゃん?)

 洗面所と脱衣所が1つになっているため、風呂上がりの零と鉢合わせしてしまった咲妃は、目の前の光景に驚き、思わず立ちつくしていた。

 淡い湯気に包まれた身体にバスタオルを巻いた零は、やはり驚いたように咲妃を見つめていたが、色素の薄いセピア色の瞳が濡れているように見え、何故かその眼差しにドキリとした。

 以前は「お兄ちゃん、痩せすぎ!」とからかっていた身体は、相変わらず透き通るような白さだったが、ほんのりと桜色が溶け込み、ずいぶんと柔らかな印象に変わっている。

 すんなりとした首からなだらかに続く華奢な肩、そしてしなやかな長い両腕は優雅であり、淡く消えてゆく幻想的な妖精のようにさえ見える。

「あっ……ご、ごめんなさい! 手を洗いたかったんだけど──いいや、キッチンで洗うから」

 昔から誰よりも綺麗だと思っていた兄が、覚えている以上に美しく、そして遠い別の存在に見えてしまい、動揺した咲妃は慌ただしく謝りながら、ピシャリと扉を閉める。

 どきどきと爆発しそうなほど激しく鼓動する胸元を押さえながら、咲妃はふわふわとした幸福感が消し飛んでしまうほどのショックを感じていた。

(あんな…あんなに──お兄ちゃんって、綺麗だった?)

 荒々しいほど足早にキッチンに向かった咲妃は、パニックに陥りそうな自分の感情を持て余しながら、冷たい水で手を洗った。

 何か見てはいけないもの──禁忌に触れてしまったような罪悪感と、心の奥底から湧き上げてくる複雑な感情が絡まり、咲妃の心を責め立てている。

(すごく、びっくりした……何だか、全然知らない女の人がいるかと思ったから──)

 すらりとした優美な立ち姿を思い出し、咲妃は蛇口から流れる水をぼんやりと見つめた。

 確かに昔から零は綺麗だったが、もっと硬質な中性的なイメージがあった。
 微笑むと優しい笑顔になるのだが、表情を消すととてもクールに見えた。

 かつては他人を拒絶しているような張りつめた雰囲気が漂っていたというのに──帰ってきてからというもの、いつも優しく、包み込まれるような柔和な微笑みを浮かべている。

 そして、一緒に暮らしていた時には、零が、あれほど艶めかしく、色っぽく見えた事は一度だってなかったのだ。

「──あら、どうしたの咲妃、ぼんやりしちゃって?
 カフェオレ、できてるわよ」

 水を流しっぱなしにしたまま、考え込んでいた咲妃は、母親の不思議そうな声で我に返った。

 慌てて蛇口をしめ、タオルで手を拭くと、マグカップの置かれているリビングに入った。

 いつもはそのまま自分の部屋に入ってしまうのだが、今夜は何故だか動くことができず、咲妃はそのままソファに腰を下ろした。

 お気に入りの海外テレビドラマを見ていた美弥子は、ぼんやりと一点を見つめたまま座り込んている娘の顔を見つめ、訝しむようにもう一度訊ねた。

「塾で何かあったの?」

 相変わらず塾と予備校の区別がついていない母親の顔を見やり、膝の上に温かいマグカップを抱えていた咲妃は、混乱している思考の中から1つの言葉を選び出した。

「──そういうわけじゃないけど……ねえ、お兄ちゃんさ、ちょっと変わったよね」

 珍しく会話に応じる咲妃に驚きながら、美弥子は曖昧な微笑みを浮かべるしかなかった。

 変化の原因は判っているのだが、零が自分から妹に話すといっている以上、ここで教えてよいのかどうか判らない。

「そうねえ。前よりもっとお手伝いしてくれるようになったし、お買い物にも付き合ってくれるし、ちょっとお喋りにもなったかしら。
 ──やっぱり、一人暮らしをしてるせいじゃないかしらね」

「──どうせ、あたしはお母さんの手伝いなんて、何にも手伝ってないわよ」

 母親の言葉を皮肉と解した咲妃は、ふんとそっぽ向いていたが、ちょうどその時、パジャマ姿の零が顔をのぞかせた。

「零、あなたもカフェオレ飲む?」

 ほっとしたように訊ねた美弥子に、零は淡く微笑みながら首を横に振った。

「眠れなくなりそうだから、いいよ。──おやすみなさい、お母さん、咲妃」

 洗面所のドアを開けてしまった妹の事はどうやら気にしていないようで、零はふんわりと見惚れるほどに優しい笑顔を向けてきた。

 何故か心にちりりと痛みが走り、咲妃は思わず視線を落としていた。

「……おやすみ」

 ほとんど聞こえないほど小さな声で咲妃が応じると、零は少し戸惑ったような表情を浮かべたが、そのまま清潔な石鹸の香りを残し、自分の部屋へと戻っていった。

 咲妃が思わず深いため息をつくと、美弥子がどうしたのかと言いたげな視線を向けてくる。

 母親の眼差しが訳もなく無性に苛立ち、咲妃は突然ソファから立ち上がっていた。

「──明日の宿題、やらなきゃ」

 それが全ての理由であるかのように言い放つと、咲妃はマグカップを持って、自分の部屋へと逃げ込んだのだった。