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TearyDoll


60



 瞬発力を生み出すために身体をたわめた安斉は、間合いを測るように新堂を睨んでいた。

 凶器に対処するためにファイティングポーズを取る様子もなく、新堂は揶揄するような微笑を浮かべたまま安斉を眺めている。

 どんな攻撃でも防げるという自信があり侮っているのか──。

 強かにプライドを傷つけられた安斉は、目の前が真っ赤に染まるような怒りを感じた。

 憎しみが膨れあがり、刹那的な殺意が全身を支配してゆく。

 ゆらりと新堂が身体の重心を変えた隙を狙い、安斉は大きな叫び声を上げ、ナイフを握りしめて飛びかかっていた。

 銀色の切っ先が触れる直前、紙一重のところで新堂は身を引いてかわし、前のめりに伸ばされた安斉の腕を爪先で蹴り上げていた。

 肘に鋭い激痛が走り、安斉の手からナイフが離れる。

 放物線を描いて飛んだナイフがコンクリートに落ちた瞬間、振り向いた安斉の目の前に、黒い影が迫っていた。

「──ぐああっ!!」

 地面を蹴って宙に浮いた新堂から、破壊力を持った回し蹴りが放たれる。

 安斉の顔面にローリングソバットが見事に決まった時、突然、パチパチと緊迫感の無い拍手が響いた。

「お見事、新堂君──さすがだねえ、ちょっと見直したよ」

 涼やかな表情で手を叩いている東山を、微かに汗ばんだ額を手の甲で拭いながら、新堂は呆れたように見返した。

「……『ちょっと』って何なんです?
 それより、咲妃ちゃんの事、一人で放っておいて大丈夫なんですか?」

「もちろん、大丈夫だよ。
 安斉君が零ちゃんの事が好きだったって叫んだ時、彼女は私と一緒にここにいて、その言葉を聞いていた。
 彼女、随分とショックを受けていたようだよ。
 だから車の中で休むように言って、安全のためにロックをかけてきた」

 唇に謎めいた微笑を浮かべた東山は、指先で車のキーを回して見せた。

「私の車は、キーが無ければ内側からもドアは開けない。
 つまり、逃げられる心配はないというわけだ」

 新堂は納得したようにうなずくと、コンクリートの上で気絶している安斉を見下ろした。

「こいつをここに置いとくわけにはいかないから、連れていかなきゃですね。
 若頭は多分、向こうにいるんだろうし──」

「さすがに、あっちは未成年の女の子に見せられるような雰囲気じゃないだろうな。
 咲妃ちゃんを車に置いておくなら、この子は担いでいかなきゃならないわけだ」

 珍しく常識的な意見を言った東山を、新堂は驚愕したように見返していたが、はたっと見過ごせない事実に気がついた。

「……担いで行くって、誰が?」

「そりゃあ、君しかいないだろう、新堂君」

 当然といったように微笑む東山に、新堂は恨めしげな視線を向けた。

「──少しは、手伝ってやろうとかって思いませんか?」

「腰を痛めるのは嫌だから、遠慮させてもらうよ。
 何と言っても私は、君と違って、頭脳労働専門だからね」

 指先でこめかみを軽く叩いて見せ、東山はくすりと悪戯っぽく笑う。

 新堂は盛大にため息をついて天を仰ぐと、横たわった安斉を忌々しげに睨みつけた。




 倉庫から鷲塚が外に出ると、古谷が軽やかにステップを踏みながら意気揚々と戻ってきた。

「おっせーぞ、鷲塚。逃亡した雑魚は、全員回収しておいたぜ」

 古谷が指差した方を見ると、叩きのめされた若者たちが、交互に折り重なるようにして積み上げられていた。

 無言でうなずき、鷲塚は腕時計で時間を確認する。

 ちょうどその時、ヘッドライトを消した黒塗りのメルセデス・ベンツとトラックが現れ、鷲塚と古谷のすぐ近くに停車した。

「若頭──遅くなりました」

 トラックを先導するように走ってきた黒塗りのベンツから高宮が降り立ち、トラックの運転手に指示を出すと、荷台のドアが開かれた。

 荷台から体格の良い組員が数名降りてくると、訓練された兵士のように素早く整列し、彼らは鷲塚に無言で一礼する。

「雑魚どもをまとめて移動させろ。
 ただし、首謀格の二人は、別々に処分する」

「判りました──おい、手分けして全員をトラックにぶち込め」

 高宮の命令に、組員は無言を保ったまま任務を遂行しはじめる。

 その様子を面白そうに眺めていた古谷が、ふと怪訝そうに双眸を眇めた。

「おい、鷲塚──あの安斉ってガキはどうした?」

「逃げた。だが、すぐに捕まえる──絶対に逃がしはしない」

「……仲間を見捨てて逃げるたぁ、情けねえ野郎だぜ。
 それにしても、零ちゃんは難儀なヤツばっかりに気に入られるよなあ。
 おまえといい、九頭竜の坊といい──あのくそ生意気なガキといい……」

 やれやれと呟いた古谷を、鷲塚は冷ややかな双眸で見下ろした。

 その時、ぐったりと力を失っている零を横抱きにして、先に倉庫の裏口から脱出していた久松が姿を現した。

「わ、若頭──零さんが……気を失ってしまって──」

 無精ひげを生やし、デニムのシャツにジーンズという姿をしている久松は、長身のわりに童顔なせいか、飼い主を見失ってしまった犬のように情け無い風体に見えた。

 全ての表情を消して近づいた鷲塚は、久松から零の身体を受け取ると、小さく安堵のため息をもらした。

 ところが、胸がゆっくりと上下するのを認めると同時に、ボタンを失い、はだけてしまっているシャツの存在にも気づく。

 その途端、零の悲鳴を聞いた時の荒れ狂うような激情を思い出し、鷲塚はぎりっと奥歯を強く噛みしめていた。

 零を無傷で救出するため、鷲塚は数に勝るチーマーたちに奇襲をかけるべく、古谷と久松と共に作戦を打ち合わせていた。

 だが、不意に零の悲痛な叫び声が響いてくる。

 全身の血が沸騰するような憎悪を、鷲塚は感じた。

 理性という名の箍が弾け飛び、眠っていた狂気が目覚めた──そんな瞬間。

「絶対に殺すな」という古谷の強い警告が無ければ、後先の事を何も考えずに皆殺しにしていたかもしれない。

(──呆気ないな……おまえにかかると、この様だ)

 自分が乗ってきたメルセデスの後部座席に零を横たえさせ、鷲塚は口許に自嘲めいた微苦笑を刻んだ。

 滑らかな白い頬に掌を這わせ、淡く開いた唇にキスを落とす。

 零に言いたい事は山ほどあるのだが、今はまだ、片づけなければならない問題がある。

「おまえのお仕置きは、帰った後だな」

 囁きかけるように独白すると、まるで鷲塚の声が聞こえたか、閉ざされている瞼の下に溜まっていた一粒の涙が滑り落ちた。

 ドアを閉めてロックした鷲塚は、どうしたものかと当惑している久松にキーを渡し、車を移動させるように命じた。

 埠頭に人気は無いが、付近にいる人間が銃声を聞きつけ、警察に通報する可能性もある。

 チーマーたちに制裁を加える現場に、零を連れて行くつもりはなかったが、かといってこのままここに待たせておくのも危険すぎた。

 その時、いつも通りの颯爽とした足取りの東山と、何やら重い物体を引きずりながら歩いて来る新堂が現れた。

「若頭──逃げ出してきた安斉ってガキを、連れてきました」

 安斉と格闘するより遙かに息を切らせながら、新堂がそう報告した。

「よくやった、新堂──これで、探す手間が省けた」

 そう言って、鷲塚は完全に意識を手放している安斉の顔を見下ろした。

 どうやら顔面に攻撃を食らったらしく、顔は鼻血で汚れ、その顔立ちはいまいち不明瞭なものになっている。

 しかし鷲塚は瞬時に本人であると確信し、倉庫で拾ってきたビニールロープで、安斉の両腕を交差させるようにして背中の中央で縛り上げた。

「こいつが、今回の事件の首謀者ですか?」

 興味があるような表情は微塵も浮かべていなかったが、高宮が鷲塚にそう訊ねた。

 鷲塚が認めるようにうなずくと、高宮は安斉を見下ろし、軽く双眸を細めて問い直した。

「──こいつをどうするつもりです?」