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TearyDoll


61



 身体にねっとりとまとわりつく闇が息苦しく感じられ、零は必死でもがいた。

 蔦が身体に巻き付くように……あるいは蜘蛛の糸に絡め取られるように──。

 底の見えない深淵に引き込まれるような錯覚に、零は恐怖し、悲鳴を上げる。

 ふと下を見下ろせば、零を捕らえ、引きずり落とそうとしているのは、血にまみれた無数の手だった。

 足を掴まれ──赤い手は肌の上を滑るようにして這い上がり、零の全身に巻き付いていく。

(……嫌だ──堕ちてしまう……助けて……助けて──)

 ざわり、ざわりと身体の上で蠢く手は、忌まわしい愛撫にも似て、零の喉から悲鳴が迸った。

 だが、助けを呼ぶ声を封じるように、唇を塞がれ、押さえつけられてしまう。

(──助けて……海琉、助けて……怖い……このまま堕ちてしまうのは──)

 救いの手を求め続けながら、零の瞳から涙が流れた。




 運転席に座る久松の後ろ姿を認めた瞬間、零は引きつれた細い悲鳴を上げていた。

「──れ、零さん、落ち着いてください……俺は、何もしませんから──」

 シートの隅で泣きながら身をすくめている零に、久松はなだめるように言った。

 安斉たちに押さえ込まれ、弄ばれそうになったショックと、悪夢の余韻にパニックを起こし、零は冷静な判断ができなくなっていた。

「久松さん──あんた、何やってんだよ!」

 車の外で煙草を吸っていた新堂は、慌てて吸い殻を放り出し、サイドドアを開けた。

「大丈夫ですよ、零さん、あなたはもう、助かりましたから。
 俺です、新堂です──判りますよね?」

 屈み込んで零の顔を見つめた新堂は、怯えさせないように穏やかな声で話しかけた。

 涙に濡れ、大きく見開かれていたセピア色の双眸が、やがて正気を取り戻したかのように頼りなく揺れる。

 瞬きした瞳から、透き通った雫がこぼれ落ちると、零の唇から震える声がもれた。

「……し、新堂さん──私…どうして……」

「覚えていませんか? 若頭と古谷の兄貴が、零さんを助け出したんですよ」

 零は茫然として新堂を見つめていたが、ふと新堂の背後に立った東山の姿に気づいた。

 東山は人を安心させるような柔和な微笑を浮かべ、ゆったりとした口調で零に告げた。

「咲妃ちゃんも無事に助け出したから、もう安心していい。
 ──君は、咲妃ちゃんを助けたくて、一人でここに来たんだろう?」

 確認するように東山が問うと、零ははっと瞳を瞠った。

「咲妃は……咲妃は、無事なんですか──?」

 すがりつくような眼差しを向けられ、東山はふっと双眸を和ませた。

「零ちゃん、君はいい子だね──でも、少し無謀すぎる。
 君一人の力で、本当にどうにかなると思っていたのかい?」

「ちょ、ちょっと……東山さん──」

 その厳しい言葉を聞き、新堂の方が動揺した様子で立ち上がった。

 諫めようとする新堂を手を上げて制し、東山は穏和な口調のままさらに問いを重ねた。

「咲妃ちゃんを利用して、安斉君は君を誘き寄せた。
 だけど、どうして君は、会長に助けを求めなかったんだ?
 相談していれば、君は傷つくこともなく、咲妃ちゃんを助けることができただろうに」

 零は東山を見上げたまま彼のの言葉を聞いていたが、ふっと思い悩むように睫毛を伏せた。

「私は……咲妃を助けたかったけど──それ以上に、海琉に人を傷つけてほしくなかった。
 海琉の事は好きだけど、私には彼のやり方が正しいとは思えなくて……。
 だけど、私は咲妃を助けられなくて……結局、海琉を巻き込んでしまいました」

 セピアの瞳から溢れ出した涙が頬を伝い、ぽとりぽとりと膝に落ちてゆく。

 必死で涙をこらえようと唇を噛み、俯いている零を見つめていた東山は、怜悧な眼差しを後方に向けた。

 そこには、零の言葉を聞いて茫然と立ちつくしている咲妃の姿があった。

「──と言うことだよ、咲妃ちゃん。
 君の軽率な行動が、君の大事な『お兄ちゃん』を傷つけた。
 安斉君が、零ちゃんに何をしたのか……さすがに、もう理解しただろう?」

 ほとんど口調は変わらないものの、東山の声にやや冷ややかなものが入り混ざる。

 その途端、零は驚いたように顔を上げ、青ざめている咲妃を見つめた。

「咲妃……良かった、無事で──怪我はしてない?」

 安堵したように微笑んだ零が、求めるようにゆっくりと両手を差し伸べると、強張っていた咲妃の身体がふらふらと前に進み始めた。

「お兄ちゃんは……バカよ──あんな、危険な人を好きになるなんて……」

 震える声でそう言った咲妃の目から、ぼろぼろと大粒の涙が溢れた。

 言葉には刺があったが、声の中にはもはや糾弾するような響きは無い。

 零は悲しげに微笑み、首にしがみついてきた咲妃を強く抱き締めていた。

「ごめんね……ごめんね、咲妃──」

「謝らないでよ──本当はあたしが、一番バカだったんだから……。
 安斉さんに騙されて……お兄ちゃんをこんな目に遭わせて──あたしが悪かったの。
 ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……どうかあたしを、許して下さい──」

 声の震えが大きくなり、咲妃はしゃくり上げながら、零の身体を抱き締めた。

 幼い頃と同じように、零は咲妃の背中をあやすように優しく撫で、そして泣きすぎて真っ赤になってしまった妹の目を覗き込んだ。

「もちろん、許すよ……許さないわけないじゃないか。
 咲妃は、僕の大切な妹なんだから──」

 ふわりと包み込まれるような零の美しい笑顔を見返し、咲妃は新たな涙を溢れさせた。

「お兄ちゃんって……本当にお人好しで…バカなんだから……。
 だから、騙されちゃうのよ──でも、もう……あたし、邪魔しないから。
 何言ってもダメみたいだから、お兄ちゃんの事、ずっと見守っててあげる」

 顔を赤らめ、照れくさそうにうつむいた咲妃は、もう一度ぎゅっと零の身体を抱き締めた。

「大好き……大好きよ、お兄ちゃん──だから、どうか……ずっと、元気でいて……」

 嘘偽りの無い心からの思いを口にした咲妃を抱き返し、零はセピア色の瞳を潤ませた。

(だーいすき……さきは、おにいちゃんが、いっぱいいっぱいすきだから、しょーらいは、おにいちゃんのおよめさんになるの──)

 公園で遊んでいた頃、幼い咲妃がよく言っていた言葉を唐突に思い出し、零はいつの間にか妹が大きくなっていた事を実感していた。

(もう、大丈夫……この子はもう、一人でちゃんと歩けるんだから──)

 誰よりも大切にしてきた、たった一人の妹──血は繋がっていないが、だからこそ、ずっと守ってやりたいと思っていた。

 けれど、もう、咲妃の手を引いて隣を歩いてやることはできない。

 握りしめていた手を離して、彼女の人生を見守っていてやることが、自分が与えられる最後の愛情なのだろう。

 立ち上がることのできない苦難に陥ってしまったなら、また手を差し伸べてあげればいいのだから──。

「咲妃も元気で──大学受験、頑張ってね」

 精一杯の明るい笑顔を作り、零は咲妃に、別れの言葉を告げた。

 その時、二人の様子を見守っていた東山が、腕時計を見下ろした後で声をかけてきた。

「零ちゃん。時間は遅いけど、咲妃ちゃんを実家まで送らせよう。
 ご両親に無断で出てきているみたいだから、今日も帰らないと、心配されるだろう?」

 零は驚いたように東山を見返し、考え込むように首を傾げた。

「でも……家まですごく遠いから、ご迷惑になりますし、今夜は泊まった方が──」

 躊躇いつつ零がそう言うと、東山は端整な唇に揶揄するような微笑を刻んだ。

「どこに泊めるつもりだい? 零ちゃんたちのマンション?
 言っておくけど、これからもっと大変な目に遭うのは、君の方だよ、零ちゃん。
 君が勝手に飛び出して、会長は随分とご立腹だったからね──お仕置きは、覚悟しないと。
 きっと今夜は……寝かせてもらえないだろうねえ。
 ──ねえ、新堂君?」

 優美な顔を青ざめさせた零を眺めつつ、東山は新堂に同意を求めるように流し目を送る。

 その途端、新堂が顔を赤らめながら、慌てふためいたように言った。

「な、何て事を言い出すんですか、東山さん!
 で、でも、零さん──送ってくれるって言ってるんだから、その方がいいですよ。
 これでまた咲妃ちゃんが長居すると、若頭が、それこそ何を考えるか……」

 鷲塚が咲妃の事を邪魔だと考えているのだから、あまり零の周辺をうろちょろさせるわけにはいかなかったし、邪魔者はとっとと送り返した方が問題も起こらないだろう。

 そう考え、新堂は東山の意見に賛同した。

「──お兄ちゃん、あたし、家に帰るよ。
 学校も休んじゃったから、帰って、お父さんとお母さんや先生に謝らなきゃいけないし。
 それに……明日、学校で大事な模試があるんだよね」

 咲妃ははっきりした口調でそう言い、零を安心させるように、明るい笑顔を見せた。