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ValentineRhapsody


13



 夢さえ見ることのできない、深く重い睡りの底から浮上した時、ふと、零は身体が全く動かない事を不思議に思った。

 まるで重石を乗せられているような重苦しさと、精神と肉体がばらばらになったような鈍い気怠さを感じる。

 大きく深呼吸をした零は、とろとろと瞼を上げ、淡い色彩の瞳を見開いた。

 一つ一つの動作をすることが辛く感じられ、零はもう一度小さく吐息を吐く。

 そしてゆっくりと首を巡らせ、静かな寝息の聞こえる方へと、零は顔を向けた。

 驚くほど間近に鷲塚の秀麗な顔があり、零は思わず小さな瞬きをすると、男らしい端整な寝顔を見つめた。

 剛毅な光を帯びる鋼の瞳は閉ざされ、長く艶やかな黒い睫毛が瞼を縁取っているのが見える。

 枕に顔を埋めるようにして眠っているため、彫りの深い容貌に陰影が落ちていた。

 触れてみたいという衝動に駆られた零は、しかし腕を持ち上げようとした時、押さえ込まれている感覚と、引っ張られるような感触を、同時に感じて愕然とした。

 思わずそちらを見ると、鷲塚の逞しい腕が零の身体を巻き込むように抱き締めており、さらには昨夜手首を縛っていた赤いリボンが、何故かまだ手首に残っていた。

(──えっと……これは、どういう事なんだろう?
 確か、満足したら解いてやるって──まだ残ってるってことは、満足してないってこと?
 でも、確か昨日は……)

 途中から完全に途切れてしまっている記憶を、零は遡るようにして思い出した。

 記憶が鮮明になるにつれ、あまりの羞恥に頬が火を吹くように熱くなる。

 鷲塚に操られるがままに痴態をさらし、その悦楽の虜となった。

 狂っていたとしか思えない──正気であれば、恥ずかし過ぎてとても言えないような言葉まで、自分は口にしていたのだから。

 たまらなくなって身を捩った瞬間、その動きに反応し、鷲塚の腕がさらに強く零を引き寄せた。

「ちょ…ちょっと──ねえ、海琉、この手、いつになったら解いてくれるの?」

 目覚めたに違いないと思い、零がそう訊ねると、鷲塚は片目だけ開けて零を見返した。

 すぐには答えず、何故か鷲塚は深い嘆息をもらす。

 美しいほどに鍛えられた筋肉に覆われた上半身を起こした鷲塚は、広い胸の中に零を引き寄せ、優美なラインを描く白い首筋にキスを落とした。

 そのまま肩口に顔を伏せ、鷲塚はぼそりと呟いた。

「いつにするかな──何だったら、ずっとそのままでいたらどうだ?」

「このままじゃ何もできないよ……解いてくれるって言ったでしょう?」

 驚愕に瞳を見開いた零が微かに怯えた声を上げると、鷲塚は喉の奥で低く笑った。

「──俺が満足したらっていう条件付きだったはずだ。
 いくらおまえを抱いても、満腹になった気がしない……ますます飢えが酷くなるような気がする」

 そう言って、鷲塚はもう一度嘆かわしげなため息をついた。

「だいたい、おまえは、新堂たちには気前良くチョコレートを配り歩いていたくせに、恋人の俺には1つも無しだからな。
 あげく、女からは山ほどチョコを貰ってきて、新堂からは花束を贈られて、へらへら喜んでいるし。
 新堂には大きなハートのチョコレートをくれてやって、平気な顔をして笑っているし。
 天使のように綺麗な顔をした、薄情で冷たい恋人の愛情を、俺は信じられなくなりそうだ」

 鷲塚のからかいを含んだ言葉を聞き、零は少し怒ったように言い返した。

「へらへらなんかしてないよ!
 ──だって、海琉はチョコレートケーキの大きいのなんて、全部食べられないでしょう?
 だから、甘いお菓子じゃなくて、チョコレートを使ったお料理にしようと思って、朝からずっと準備してたんだよ?
 海琉はお肉が好きだからチョコを混ぜたソースを作ったり、サラダドレッシングにしたり、スープに入れたりして頑張ったんだから。
 デザートもあんまり甘くしないように作ったのに──後で食べるって言ったっきり、結局食べなかったのは海琉の方だよ。
 美味しそうなレシピを探してくるのも大変だったのに……私は薄情で冷たいの?
 ──海琉は、私の事が信じられない?」

 説明しているうちに感情が高ぶり、朝焼けのようなセピア色の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ち始める。

 昨夜の料理の中にチョコレートが混ざっていたのかと、思わず感心していた鷲塚は、スープの上に載せられていた小さな削りチョコレートを思い出して納得した。

 デザート以外は全て平らげた。

 確かにいつもより甘めの味付けではあったが、それでも無理なく食べきったのだから、それは零の細やかな愛情の成果だと言えるかもしれない。

 恋人が甘い物を苦手としている事を知っているからこそ、零は、バレンタインデーに甘いチョコレート菓子を鷲塚に贈る事を避けた。

 ところが、その思いを理解してもらえず、傷ついてしまった零は、込み上がってくる涙を止めることができなくなっていた。

「──判った、俺が悪かった。……だから、もう泣くな」

 いつの間にか零の涙には滅法弱くなってしまっている鷲塚は、震える華奢な肩を抱き締めた。

 こめかみや頬に、慰めるようなキスを降らせていくと、少しは気が治まったのか、零の身体から力が抜け、鷲塚の胸にもたれかかってくる。

「本当に悪かったって……思ってる?」

 拗ねたように呟く零に、鷲塚はうなずき、その手首を縛っている赤いリボンを解いた。

 白い肌に赤い痕跡がくっきりと残り、手首の裏側の薄い皮膚の上に、鷲塚は唇を寄せる。

 跡をなぞる優しい感触にそっと目を閉ざした零は、身体を捩ると、両腕を伸ばして鷲塚の首に強く絡めた。

「──愛してる……どんな事があっても、海琉だけを愛してる。
 どうか──それだけは疑わないで。
 チョコはあげたけど、私の心は海琉のものだから、海琉以外の人には絶対にあげないよ。
 海琉が嫌なら、来年からはチョコもあげないようにする」

 しがみついてくる優美な身体を抱き返した鷲塚は、非常に複雑な気分に陥った。

 零は自分だけのオンナで、誰にも触らせたくないし、本心を言えば、誰にも見せたくはない。

 だが、優しく、慈悲に満ちあふれた微笑の虜になってしまった者は、荒神会内部でもすでに多数存在している。

 バレンタインデーに一度手作りチョコの味を覚えてしまった飢えた男たちは、鷲塚が絶対禁止を言い渡せば、今後毎年この時期に恨みがましい視線を向けてくるのかもしれない──何故かそんな予感がした。

 義理チョコをばら巻いても構わないが、せめて既製品にして、手作りだけは止めて欲しい。

 すでに妥協案を考え始めている己を自嘲しながら、鷲塚は零の唇を貪るように奪っていた。

「……んっ、ん…海琉──ね、昨日のデザート食べようよ。
 また後でって言ってたら、ずっと食べられなくなっちゃう」

「──俺としては、デザートよりもおまえに興味があるんだが……」

 恭しくほっそりとした指先に接吻した鷲塚は、ベッドから下りて裸体の上にローブを羽織った。

「それで、冷蔵庫のどこにあるって?」

「一番上の棚の中──あ、スプーンも持ってきてね」

 淡く、嬉しそうに微笑む零の顔を見返した鷲塚は、ベッドルームのドアを開けると、キッチンの方へと出ていった。

 それからすぐに戻ってきた男の手には、透明なグラスと、小さな銀のスプーンがあった。

「冷たいし、コーヒーとブランデーがきいてるから──海琉でも食べられると思うけど……」

 冷蔵庫で冷やされていたチョコレートムースをすくった零は、隣に滑り込んできた鷲塚の口許にスプーンを運ぶ。

「──どう、美味しい?」

 促されるままムースを口にした鷲塚は、首を傾げる零に軽くうなずいて見せる。

「良かった。あのね、『ショコラ』って映画、知ってる?」

「映画? いいや、見てない」

 突然、零に問われ、鷲塚はあっさりと首を振る。

 それを見て、零はくすくすと笑い出した。

「その映画の中では、主人公がチョコレート屋さんなんだけど、チョコレートは幸せを運ぶ魔法の食べ物なんだって言うんだよね。
 最初は、私もチョコじゃなくてもいいかなって思ってたんだけど、幸せを呼び寄せてくれるのなら、海琉にも食べさせちゃおうと思って。
 でも、海琉は甘いのダメだし、どうしようかなあって悩んでたんだ。
 その映画の中ではチョコレートがお料理に使われていて、映画を思い出した時、これにしようって決めたんだよ」

 ふふっと思い出したように微笑みながら、零は銀のスプーンでチョコレートムースをすくった。

「──でも、海琉に気づいてもらえないんじゃ、仕方がないよね。
 やっぱり、普通にチョコをあげれば良かったかな」

「……これで十分──どうせ新堂のばかでかいケーキを出されても、食いきれないし。
 だが、おまえのハートがあいつに行くと思うと、腹が立つ。
 そもそも、どうしてハート型になったんだ?」

 差し出されたムースを呑み込みつつ、鷲塚がぼやくように言うと、零はおかしげに笑った。

「──カッツェにあるケーキ型で、あれより小さいのが無かったんだよ。
 『バレンタインが誕生日ならぴったりでしょ』って、マスターに言われたんだけどね。
 でも何だか意外……海琉もハート型って気になっちゃうんだ」

「今までは全く気にならなかったんだがな」

 ふんと鼻を鳴らした鷲塚を見上げ、零はくすりと微笑んだ。

「じゃあ、来年はとびっきり大きなハートを海琉にあげるね。
 残さずに、ちゃんと食べてくれないと嫌だよ。
 海琉にあげるハートは、海琉だけのものなんだから」

「──巨大なハート型のチョコレートは……遠慮する」

 想像しただけで胸焼けに襲われた鷲塚は、機嫌を直してくすくすと軽やかな笑い声を響かせる零を見返すと、ムースを食べていた零の頭部を引き寄せた。

 そのまま唇を重ね、甘さの滲む舌を絡めとり、柔らかな口の中を探る。

 切なげな、甘い声が微かにもれると、鷲塚は零の手からグラスとスプーンを取り上げた。

 それらをサイドテーブルに置いてしまい、抱きすくめた儚いほどに華奢な身体を、鷲塚はベッドの上へと押し倒した。

「チョコレートで幸せを呼ばなくても、俺はおまえが傍にいればいい。
 この淫らな甘い身体が、何よりも好物だからな。
 昨日は俺を放り出してさっさと眠ったんだから、今日と明日はずーっと付き合ってもらおう」

「──エッ!? ……だって、仕事に行かなきゃいけないでしょ?」

 くくっと笑った鷲塚を、零は愕然と見上げた。

 その瞳の中に驚愕とわずかな怯えを見取り、男は皮肉っぽく唇の片端をつり上げた。

「新堂のチョコレートケーキで深く傷ついていた俺を見て、高宮がわざわざ休みをくれたからな。
 休み明けには立ち直ってないと、あいつに迷惑かけるだろう?
 だから、おまえはこの2日間で、傷心の俺を頑張って慰めなければならない──理解したか?」

 傍にいられるのはもの凄く嬉しいのだが……丸2日となると、身体が保つかどうか──。

 言えばきっと怒られてしまうのだろうが、鷲塚が仕事に出ている平日の方が、ずっと家にいる休日よりも、零の体調は遙かに良いし、楽だった。

 胸の中に予想以上に大きな衝撃が走り、瞬きもできずにいる零を見下ろし、鷲塚は心外だと言うように片眉をつり上げた。

「──嫌なのか?」

「……嫌じゃないけど──身体がまだ痛いし、あんまり動かせない。
 だから……今日はゆっくりしてようよ──ねっ?」

「ふーん、ゆっくりね……判った。だったら、おまえはマグロみたいに横になってろ」

 意外なほどあっさりと承諾した鷲塚に驚きながらも安堵し、しかしその言葉に何やら不穏なものも感じていた零は、不意に優しくうつ伏せに身体を返された。

 思わずどきりとしたが、鷲塚はうなじにそっと口付けた後に、緊張していた首筋を優しく揉みほぐしてゆく。

 その心地よさに思わず瞼が下がり、いつの間にか零はとろとろと微睡みに落ちた。

 ──愛撫の指は優しく、さざ波のような陶酔が全身に満ちてゆく。

 強張っていた筋肉から力が抜け、うつらうつらとしながら、零はいつしか全てを委ねていた。

 幸せそうな微笑みを浮かべ、無防備に投げ出されたしなやかな白い裸体を見下ろした鷲塚は、折り重なるように強靱な身体を横たえた。

 優雅な曲線を描いている腰を撫で、すんなりと伸びた大腿をなぞる手は、徐々に官能をまとった淫猥なものへと変わる。

 異なる快感が熱情を呼び覚まし、唇から濡れた吐息がこぼれると、応じるように唇が重なった。

 焦らしながら、鷲塚は確実に快感の高みへと零を導いてゆく。

 たまらなくなった零がしがみついてくると、鷲塚は唇に狡猾な笑みを浮かべた。

「あっ…ふっ……海琉──少し…このまま──」

 やがて、熱い男の欲望を身の内深くに受け入れた零は、力強い身体を抱き締めたまま、己の身体をそっと寄り添わせていた。

 規則正しい脈動がさざめくような恍惚を生み出す。

 荒々しさのない快楽の海に抱かれ、緩やかな波に揺られていると──やがて、目眩く幸福の境地へとたどり着く。

 世界が弾けるような光に包み込まれた瞬間、零は、ただ一人愛する者の名を呼んでいた。



─ The End ─