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ValentineRhapsody


9



「──笑い事ではないんですよ、古谷さん」

 高宮が深い嘆息をもらすと、腕を捕まれていた薫が声を荒らげて言った。

「ちょっと、いい加減に放しなさいよ、高宮!
 言ったでしょ、あたしは仕事に戻らなきゃいけないんだから!」

 高宮は薫を見下ろすと、その手をつかんだまま淡々と告げた。

「今回の件はあなたにも責任がありますから、事が終わるまでここで待っていてください。
 だいたい、あなたと零さんが共謀しなければ、ここまでの騒動にはならなかった。
 零さんを焚き付けたのが薫さんなら、今回はしっかりと責任をとってもらいます」

 丁寧な言葉遣いではあるが、拒否は絶対に許さないとでも言いたげな高宮の断固たる態度は、完全に慇懃無礼というものであった。

「……共謀って、バレンタインに義理チョコ贈っただけじゃない!
 去年だって、その前だって、あたしは普通にチョコあげてたでしょ」

「今年は零さんが加わってますから、去年までとは事情が変わったんです。
 一年近く様子を見てきましたが、あなたと零さんがつるむと、いつもろくでもない事が起こっていますから、そろそろ対策を講じなければならないでしょう」

「対策って……何よ?
 あたしと零ちゃんを引き離そうったって、そうはいかないんだからね!」

 牙を剥きだした牝豹さながらに威嚇してくる薫を見下ろし、高宮は軽く肩をすくめた。

「それに関しては、今後できるだけ早急に考えます」

 その時、地下の方から、ガツッ……という鈍く何かが砕けるような音が聞こえてきた。

「な……何、今の音──」

 ぎょっとしたように薫が思わず呟くと、男たち3人は顔を見合わせた。

「新堂がヤキ入れられてるんだったら、骨の2、3本ですめばラッキーな方だろうな」

 煙草に火をつけた古谷が、ため息と共に紫煙を吐き出した。

「零ちゃんの義理チョコでここまで大騒ぎになるとはねえ。
 あ──でも帰ったら、零ちゃんもお仕置きされるってことかな」

 わずかに首を傾げ、東山が呟いた。

「そりゃもう、鷲塚の事だから、徹底的にとことんやるだろ。
 チョコレートに見向きもしなかった鷲塚が、マジで反応したのはすげえ事だけどよ。
 零ちゃんには少々気の毒──って、おい、おまえさん、目が笑ってるぜ」

 応じた古谷は、横目で東山を見上げると、彼の端整な顔に微笑が浮かんでいることに気づいた。

「ああ、すみません──想像したら、つい。
 何が起こるのか、見られないのが寂しいですね」

 東山はそう言って、理知的な唇に微笑みを刻んだのだった。

 しかし、扉が開き、鷲塚が戻ってきた瞬間、4人は思わず硬直した。

 鷲塚の右手には日本刀が握られており、その抜き身の刃は妖しい光を放っている。

 彫刻めいた秀麗な顔に激情の余波など感じられなかったが、その鋼の双眸は日本刀と同じほどに鋭利なものを秘めていた。

 デスクの上にあるハート型のザッハトルテを見下ろした鷲塚は、すっと双眸を細め、次の瞬間、ケーキの真上に刃を振り下ろしていた。

 デスクまでもが叩き割られる──鷲塚の周囲から飛び退いていた4人は、皆そう思った。

 しかしいつまでたっても破壊音は聞こえない。

 鷲塚は無言で踵を返すと、手にしていた日本刀を高宮に押しつけた。

「──17日まで来ないから、後はおまえが勝手にやれ。
 休みの日にまで俺は出てきてるのに、どうやらここは暇人が多いようだからな。
 俺一人がいなくても、人手が余ってるんだから問題ないだろう?」

 そう言い残し、鷲塚は唇に皮肉げな微笑を浮かべると、そのままさっさと立ち去っていった。

 荒神会を事実上率いている鷲塚がいなければ、その分の負担は、全て補佐である高宮に降りかかってくることになる。

 鉄面皮を誇る高宮も、さすがに顔を引きつらせた。

「あら〜、やっぱりキレちゃったか、鷲塚の奴。
 あの様子だと、まだ零ちゃんにチョコもらってねえな、あいつ。
 それにしても……見事に真っ二つだな」

 大げさなほど盛大に息を吐き出した後、古谷がデスクの上のザッハトルテを見て、ほとんど呆れたように呟いた。

「──結構、子供っぽいところあるのよねえ、海琉のやつ」

「零ちゃんのハートは、誰にも渡さないっていう意思表示ですかね、これも。
 ……それにしても、新堂君、本当に生きてるんですかねえ」

 薫と東山もまた、ぱっくりと2等分されてしまったチョコレートケーキを見下ろた。

 テーブルに当たる瞬間に鷲塚は刃を引いたのか、デスクには傷一つ残っていない。

 しかし、ケーキは両断され、綺麗に断面を見せて転がっていた。

「新堂が心配なら、拷問部屋を見てきたらどうだ、東山さんよ?
 あんたの好きそうなモノが、いっぱい転がってるぜ。
 ついでに、新堂の血塗れの首まで転がってたりしてな」

「非常に残念ですが、殺人現場の第一発見者になるのは遠慮しておきます。
 でもいつか必ず、見せていただきたいものですね」

 古谷が皮肉っぽく言うと、東山はあっさりと肩をすくめた。

 その時、バタンと扉が開き、ジャニーズ系の甘い容貌を真っ青にした新堂が、よろよろとした足取りで戻ってきた。

「──あ、生きてた。大丈夫だったの、新堂君?
 海琉に何された? 肋骨折られちゃった?」

 薫の声に顔を上げた新堂は、恐怖に顔を凍らせたまま、唇を引きつらせた。

「い、いえ──多分、骨は大丈夫だと思うんですが……」

「じゃあ、指が無くなっちゃった? 1本? 2本?」

 骨が大丈夫なら、指も大丈夫だろうと、古谷と東山はほとんど同時に同じ事を考えたが、薫は気にする様子もなく、床にへたり込んだ新堂の指を調べ始めた。

「あら、全部そろってるわね──本当に、何があったの、新堂君?
 何だか、もの凄い音がここまで聞こえてきたわよ」

 新堂は虚ろな目で薫を見返すと、視線を巡らせ、高宮が持っている日本刀を見た。

 その瞬間、青ざめていた顔がさらに蒼白になり、額に脂汗が浮かぶ。

「一発、蹴り飛ばされましたが……あとは特に──。
 た、ただ……」

 そこまで言って、新堂はゴクリと息を飲み込んだ。

「今度何かあったら、指じゃなくて……ここを切り落とすって──際どい所にアレが降ってきました」

 そう言い、新堂は己の股間を指で示した。

 新堂の指が指し示す場所と、日本刀を交互に見比べた男3人は、反射的に思わずぞっとする。

「──そりゃあ……こえーなあ。
 零ちゃんは好きだけど、鷲塚にムスコをちょん切られるのは……遠慮したい」

「同感です……一度の過ち、一生の後悔ってことになりそうですからね。
 まあ過ちを犯すにしても、自己防衛を考えてからにしないと」

 強張った笑いを浮かべる古谷と東山を見やり、薫はいまだショックを引きずっている新堂の頭を「よし、よし」と撫でてやった。

「怖かったよね〜、海琉もえげつない事言うよね〜、せっかくの誕生日だったのにね〜。
 まさか零ちゃんのチョコレートに、海琉があんな過剰反応示すとは、あたしも予想してなかったんだけどね」

「──ホントに予想してなかったんですか、薫さん?」

 ほとんど涙目に近い眼で新堂に見返され、薫は少々良心の呵責を覚えながら、親指と人差し指でわずかな隙間を作って見せた。

「う〜ん、実はちょっとだけ予想してた。こんな風になるんじゃないかな〜ってね」

 あはは……と薫が笑った瞬間、すっと長い刃が、薫と新堂の横に突き出されていた。

 ぎょっとして薫が振り返ると、そこに日本刀を持った高宮が、無表情で仁王立ちになっている。

 ぬらりと光る刃には、黒いものが──零の作ったチョコレートが付着していた。

「若頭が休みの間、薫さんにもしっかりと働いてもらいます。
 新堂、おまえも死ぬ気でシノギに行ってこい。
 それから……首を突っ込んできたカタギの2人! 逃げるな──おまえたちも同罪だ!」

 あたかも憤怒に燃える仁王像のごとき高宮から、こそこそと逃げだそうとしていた古谷と東山は、扉を開けようとした瞬間、落雷のような怒声に襲われていた。

「零さんの義理チョコ食った奴は、全員、死ぬ気で働け!」

「ひえええ〜!」

 冥府の死神と恐れられる若頭が不在の間、荒神会の指揮を執るのは地獄の閻魔大王であった。

 こうして、裁きを下す閻魔大王と化した高宮は、まさに地獄の亡者を鞭打つようにして、チョコレートに飢えていた組員たちを働かせ続けたのである。

 そして、自分もまた、薫にそそのかされて禁断のチョコレートを食べてしまったことを悔やみつつ、鷲塚が残した膨大な仕事の山を代行することになったのだった。