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舞の刻



<10>



 海からの風が吹き上げてきた。

 薄紅の花弁がぱっと舞い上がり、はらはらと白洲の上に落ちてゆく。

 篝火に照らし出された能舞台は、そこだけが闇の中にぽっかりと浮かんだかのように、幽玄なたたずまいを見せていた。

 老桜に囲まれた能舞台の上天には、今宵の白銀の満月がかかり、冷ややかな光を地上に投げかけている。

 そして舞台の上には、翁の面をつけた何者かが流麗な舞を舞っていた。

 澄んだ鼓の音が響き、低く静かな謡いが流れる。

──非情無心の草木の…花に憂き世の科はあらじ……。

 夜の夢の中で舞う老桜の精。
 時を越えた桜の幽艶。

 抑揚のついた声は閉ざされた空間に響き、それはすでに人の声ではない。

 桜の精の言葉は風に乗り、花弁と共に舞い降りた。

 ゆっくりと過ぎゆく時の中で、艶やかな衣を纏った精霊は、風の歔く声に満たされた舞台で舞い続けた。

──惜しむべし惜しむべし…得難きは時、逢い難きは友……。

 やがて終曲になると、おぼろの春の夢が醒めゆくように、桜の精は夜明けの光の中に溶け込んでいく。

 能舞台から桜の精霊は消え失せ、静寂が戻る。

 舞台を囲む桜の木々は、それを惜しむかのように風の中で身を揺する。

 花弁は春風とともに舞い狂うのだった。


 竜桜学園に編入してから初めての日曜日となり、丞はここ何年かぶりにゆっくりと眠ることができた。

 寝過ごした経験などほとんど無かったのだが、目覚めた時にはすでに日は高く、気温も驚くほど上がっていた。

 欠伸をかみ殺して上半身を起こした丞は、ふと、布団の周りに桜の花弁が無数に散っていることに気づいた。

 どこから舞い込んできたのか、布団を埋め尽くすほどである。

「──風流といえば風流だが」

 何が苦手教科かと聞かれれば、真っ先に古典を上げる丞でさえ、この光景に心を奪われた。

 季節折々に和歌を詠んだかつての公家の心境が、少しは判るような気さえしてくる。

 一枚の花びらをつまみ上げ、ふっと吹き飛ばした丞は、いつの間にか窓が全開になっていることに気づいた。

「父さんか。起こせばよかったのに」

 低く呟いて立ち上がった丞は、大きく背伸びをして背筋を伸ばすと、部屋の中に散乱している桜を見下ろした。

 綺麗には違いないが、このまま放置しておくわけにもいかない。

 朝食を摂る前に片づけてしまおうと、丞は箒を取りに部屋を出た。

 台所まで来ると、テーブルの上に一枚のメモが置いてあった。

『急用があるのででかけます。夜には戻ってくるので、心配しないように』

「いつまでたっても子供扱いしてくれるな、あの人は。
 自分が一番危なっかしいってことを、自覚していないらしい」

 思わず呟いた丞は、司が用意していったらしい朝食を眺めた。

 白飯、味噌汁、オムレツ、アジの開き、サラダ、そしてコーヒー。

 ずいぶんな和洋折衷である。
 それがあまりにも司らしく、丞は思わず嘆息し、笑い出した。

「──さてと。箒はどこだ?」

 納戸の中から箒とちりとりを見つけた丞は、部屋戻って散らばった花びらを片づけはじめた。

 そして裏庭にまき散らす。

 掃除機を使わなかったのは、無慈悲に吸い込んでしまっては、あまりに花びらが哀れに思えたからだった。

「俺らしくもない感傷だな」

 裏にある竜海山から散ってくるらしい桜を身ながら、丞はぽつりと呟いた。

 桜の儚い美しさは、どこかあの隠岐宮玲熙を思わせた。

 桜は散るからこそ美しいと、誰かから聞いたことがある。
 それを思い出した途端、丞は暁の夢の中で、誰かが桜の中で舞っていたのを見たような気がした。

 なぜそんな夢を見たのかは判らなかったが、それはあまりにも鮮明な映像として頭に焼き付いて離れなかった。

「──非情無心の草木の、花に憂き世の科はあらじ、か……」

 古文が死ぬほど苦手な丞が、どうしてそんな言葉を覚えていたのかは謎であったが、舞手の言葉は切々と何かを訴えているような気がした。

 静かな声の中に含まれた深い悲しみ。

──隠岐宮玲熙は、あの桜のように非情無心になろうとしていたのだろうか。

 鬱蒼と繁る木々の間に山桜が美しく咲いている。

 それを見つめながら、丞はそう思った。

 仮面のような美貌、決して崩れることのない凍えた表情。

 心を閉ざさなければならなかった玲熙の痛みが、舞手の残した言葉に重なるような気がした。

 父親が作っていった朝食を食べ終わった丞は、家中の掃除に取りかかった。

 何しろ古い家である。
 一日放っておいただけでも、畳の上にうっすらと埃が積もるのだった。

 広いことが取り柄の家屋を掃除し終わった時には、すでに正午を回っていた。

「後は買い物をして、洗濯物を取り入れて、夕飯を作って……」

 黙って立っていれば、丞はモデル並みの美丈夫である。
 その彼が一日中家事に追われていると知ったら、果たしてクラスメイトはどう思うか。

 あのバスケの試合以来、どうやらファンクラブというものができたらしく、丞は終始女子生徒から追い回される羽目に陥っていた。

──しかしまあ、幻滅してくれた方が助かるな。

 彼女たちに家まで押し寄せて来られてはたまらない。
 理想を押しつけられるのは迷惑であったし、彼女らの想像通りに動く義理もない。

 幼い頃に散々外見をからかわれたこともあり、丞は自分の容姿に関しては恐ろしくシビアな考えを持っていた。

 拒絶していた人々の目が、羨望や賞賛に変わっていったのはいつの頃からだっただろう。

 獣のようだと気味悪がられた琥珀の瞳でさえ、今では賛美の的となる。

 母親譲りの顔も身長も生まれつきなのだから、羨ましがられ、妬まれてもどうしようもない。

 容姿は所詮器に過ぎないと思いつつも、一方でその器が与える甚大な影響力を、丞は良くも悪くも自覚していた。