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舞の刻



<11>



 壁にかかった時計を見ると、まだ少し時間に余裕があった。

 引っ越して以来、ろくに沖月島を見回っていなかったことを思い出し、丞は遅ればせながら観光に出かけることにした。

 見るものはたかが知れているのだが、それでも一応は観光地である。
 暇つぶしぐらいにはなりそうだった。

 車庫からマウンテンバイクを引き出した丞は、買い物のメモと財布だけ持って家を出た。

 観光名所はだいたい標識に書かれているため、地図を持って出る必要もない。

 海岸線の道路には、あまり車は走っていなかった。
 時々、観光客がレンタサイクルで走っているぐらいなものである。

 沖月島の道路は海岸線を取り巻くように一周しており、それを走れば最終的に元の場所に帰れるようになっていた。

 家の前から北方向に向かうと、十分ほどで竜海山から流れ出してくる青津川に出会う。

 明治時代に造られたという青津橋は、石造りの眼鏡橋であり、せいぜい車1台しか通れる幅がない。
 しかし現在では、大型バスも通行できる鉄橋が、海岸線に張り出して掛けられていた。

 青津橋のわきから竜海山に上る細道を少し上がると、3段に流れ落ちる滝があった。

 標識には「狐参りの滝」と書かれており、大きな楓や咲き誇る山桜が、滝の落ち込んでいる沢の周囲を彩っていた。

 そして山桜に囲まれるように小さな稲荷神社が立っており、そのさらに奥には立派な屋敷の白壁が見えた。

 丞は好奇心に駆られ、その屋敷の古めかしい門の前に行ってみた。

 門の上部には一枚板に「割烹旅館 滝桜」と書かれている。
 そして脇の表札には「滝沢」と書かれてあった。

「──これが、融の自宅というわけか」

 いかにも最近の少年という感じの融からは、想像もつかない古い屋敷である。
 その格式の高そうな門から、あの赤毛の少年が飛び出してくるという事が、にわかには信じ難かった。

 感心して門を見つめていた丞は、もう一度美しい滝を眺めると、その場を後にした。

 海岸線をさらに北上すると、最北の岬である竜宮郷に出た。
 そこは無数の小さな島や岩礁、奇岩が散らばっており、見事な景観を呈していた。

 断崖絶壁が海に突き出した岬は、陽光を浴びて白く輝いており、青々とした松林と絶妙な対比を見せている。
 断崖のすぐ側まできらきらと光る白い砂浜が続いており、砂浜と断崖の境には、大きな洞窟が口を開けているのだった。

 道路標識には、「竜の風穴」と書かれていた。

 砂浜に下りるコンクリートの階段が道路のわきにあり、そこにマウンテンバイクを寄せた丞は、誰かが砂浜を急ぎ足で歩いているのを見つけた。

 長い黒髪が海風で煽られている。
 白いシャツにベージュのズボンという格好をした人物は、真っ直ぐに「竜の風穴」に向かっているようであった。

 一瞬、風が黒髪を跳ね上げ、白い横顔が露わになる。
 その繊細で神秘的な美貌を見間違うことなどなかった。

──隠岐宮玲熙!?

 まさかこんな所で出会うとは予想すらしなかった人を見て、丞は愕然とした。
 自転車を白いガードレールの横に止め、思わずその歩みを目で追いかける。

 玲熙の足取りはしっかりとしており、ひたすら大きな口を開けた洞窟を目指しているようであった。

 玲熙が洞窟に姿を消すのを見送った丞は、軽く息を吐いてガードレールにもたれかかった。

 晴熙に仲良くしてやってくれと頼まれたものの、教室ではまだ挨拶程度しか交わしていない。
 話しかけられることを極端に拒絶しているような雰囲気が玲熙にはあった。

 もともとお節介を焼く性格ではないため、丞はまだ玲熙を観察中だった。

──強引に話しかけても、不愉快にさせるだけかもしれない。

 幼い頃の経験が影響しているのか、丞はいつも人間関係には一歩距離を置いていた。
 お互いに踏み込みすぎなければ、摩擦が生じることもない。
 執着しなければ愛憎が生れるはずもない。

 何人もの女とつきあってはみたが、最終的に彼女たちは丞の淡泊すぎる性格に不平を唱え始めた。
「丞は薄情だ」と一様に言い、彼女たちの方から去っていく。
 その都度、丞は奇妙な虚しさを感じていた。

 丞はしばらく海を眺めながら、過去の回想にふけっていた。
 東京では人が多すぎて、1人でぼんやりとする時間すらなかったような気がした。
 海に行っても誰かしらに出会い、このような素晴らしい景色を独占することはできなかった。

──今、この瞬間の景色を見ているのは、俺1人なんだな。

 そう思うと不思議に楽しく、心が解放されていくような気がした。

 丞がおおらかな気分を満喫していたその時、突然、風と共に悲痛な悲鳴が聞こえてきた。

 はっと我に返った丞は、悲鳴の聞こえた方角へと顔を向けた。

 それは洞窟の中から聞こえてきた。
 もう一度、激しく抗うような声が聞こえ、不意に途絶える。

 丞の頭の中に警鐘が鳴り響いた。

 階段を使わず一気に砂浜へと飛び降り、丞は玲熙の後を追って洞窟へと走った。

 洞窟に入ると、鼻孔を突く異臭が運ばれてきた。

 臭いをかいで顔をしかめた丞は、足音を殺しながら洞窟の内部へと歩を進めた。
 異臭は奥の方から運ばれてきており、その臭いに丞は覚えがあった。

──血臭だ。どこから……。

 洞窟はずいぶんと奥に続いているようであった。
 観光名所にもなっているため、小さなランプがいたるところに取りつけられている。

 しかし入り口から遠ざかるにつれて、洞窟の中はどんどん薄暗くなっていた。

 左右に分かれている場所まで来ると、丞は一度立ち止まった。
 通路は右に続いており、左は通行禁止になっている。

 そして、血臭は明らかに左から漂ってきていた。

 ロープをまたいで左側の洞窟へと進んだ丞は、闇が濃縮したような気分を味わった。

 空気がぴりぴりと緊張しているのが感じられる。

──何か、いる。

 濃密になった血の臭いに目眩を覚え、丞思わず壁に手をついていた。
 ざらざらとした石の壁は冷たく、しっとりと濡れていた。

 ときおり、天上から水滴が落ちる音が聞こえる。

 頭を軽く振った丞は、その時、何か重いものを引きずるような音を聞き、とっさに身を屈めた。

 薄暗い闇に目をこらすが、奥は暗く、何も見えない。

 息を殺して様子をうかがっていると、小さな啜り泣く声が聞こえてきた。

「──隠岐宮? そこにいるのか!?」

 丞は立ち上がると、泣き声のする方向に進んだ。
 先ほど聞こえた、何か引きずるような音は消えている。

 心拍数が上がるのを感じながら、丞はいくつかの曲がり角を曲がった。