Rosariel.com
舞の刻



<12>



 その角を曲がると、天井が吹き抜けているような場所に出た。

 高い円蓋を思わせる天井の頂点には穴があいており、そこから太陽がスポットライトのように降り注いでいた。

 暗闇の中から急に明るい場所に出た丞は、眩しさのあまり思わず目を細めた。

 地面には白い砂が絨毯のように敷き詰められ、光を反射して輝いている。

 その驚くべき光景の中で丞は、洞窟の壁によりかかって座り込み、顔を覆い隠している玲熙を発見した。

「おい、隠岐宮、大丈夫か?」

 頽れそうになっている玲熙を抱きとめた丞は、その顔色の悪さに驚いた。

 前々から白いと思っていた顔は青白くなっており、唇も紫色に変っている。
 白いシャツは無惨に引き裂かれ、首筋や胸元に傷つけられた痕があった。
 ぐったりとしている玲熙の顔は涙に濡れており、意識を失っているようだった。

 そんな玲熙を抱えた丞は、彼の身体があまりに華奢で軽いことにひどく驚いた。

 黄昏時の夕闇を凝縮させたかのような美しい顔に魅せられていた丞は、玲熙の身体が大きく震えたのを感じ、奇妙な後ろめたさを覚えて目をそらした。

 光の中にいると、闇はさらに暗さを増したように見える。

 丞は、先ほども聞いた何かを引きずるような音が、闇の奥から次第に迫ってきていることに気づいた。

 目を凝らしても何も見えない。
 ただ、時々ぴちゃぴちゃと何かを舐めるような音だけが、耳鳴りのように大きく反響していた。

 それに気づいた時、心臓が大きく脈打ち、額から汗が流れ落ちてきた。

 目を細めた丞は、闇の中に二つの小さな炎が浮かんでいることに気づいた。

 ──冷たく光る、深紅の光。

 それが何かの獣の目であることを確信した丞は、息をつめて睨みつけた。

 その獣の目は、ちょうど人間の目と同じくらいの高さにあった。
 180センチくらの身長があれば、その高さぐらいにはなるだろう。

 ぎょっとした瞬間、その獣が音もなく動いた。

 玲熙を抱えたまま、その獣の攻撃をかわせたのはほとんど奇跡に等しかった。

 安堵したのも束の間、それは再び攻撃をしかけてくる。

 風を斬るような音とともに、鋭い刃物のようなもので、丞は左の肩口をざっくりと切り裂かれていた。
 筋肉が緊張していなければ、恐らく腕ごと持っていかれただろう。

 ちょうど光の真下に身を投げ出した丞は、自分を襲った獣の正体を見極めた。

 それは、額から二本の角を生やし、黒く長い髪を振り乱していた。
 その装束は、歴史の教科書で見た平安貴族のようである。
 そして、その顔。
 血に濡れた赤い唇からは鋭い牙がのぞいており、深紅に光る双眸が爛々と闇の中で光っていた。

──まさか、鬼?

 呆気にとられた瞬間、その鬼はにたりと嬉しそうな笑みを浮かべた。

 そして左手に持っていたものを無造作に投げ出す。

 それは、腹部から内臓が飛び出した人間の死体だった。
 血塗れになった胸にはぽっかりと穴が開いており、血に濡れた肋骨が飛び出している。
 首は千切れ富んでおり、片腕も引き裂かれたようにもがれていた。

 そのあまりに惨い死体を見た丞は、思わず吐き気を覚えそうになった。
 しかし根源的な恐怖を感じ、鬼から目を離すことができなかった。

 鬼は血に濡れた手を軽く振り、長く伸びた鋭い爪から血糊を払う。

 そして爪に残った血を真っ赤な舌でちろりと舐めると、丞を見下ろし、唇をつり上げ恐ろしい笑みを浮かべた。

 その異形の角と牙がなければ、鬼の顔は美しくさえあった。
 しかし全身を包む不気味な禍々しい妖気のせいか、その容姿は底知れぬ恐怖を呼び起こさせた。

 その時、丞は突然地面に身体が沈み込むような感覚を感じた。

 思わず鬼から視線をはずすと、玲熙もろとも、身体が地面に飲み込まれていく。
 我に返った時には、2人は滝壺に落ちるかのように地底へと吸い込まれていった。


 玲熙をしっかりと抱いたまま地面に飲み込まれた丞は、感触が不意に海水に変ったことに気づいた。

 窒息する恐れを感じ、慌てて泳ぎ出すと、水面が微かに明るい場所を見つけた。

 大きく息を吐き出して水面から顔を出した丞は、呼吸できることに安堵し、玲熙が溺れないように抱え直した。

「……助かったのか、それともさらに絶体絶命に追い込まれたか──」

 思わず独り言を呟くと、丞は立ち泳ぎをしながら周囲を見回した。

 そこは、天然の洞窟でありながら、謎めいた古代神殿を思わせた。

 鍾乳洞のようであったが、白い砂浜が中洲のように盛り上がっている。
 列柱のような鍾乳石の間には海水が川のように流れており、壁の隙間から所々光が射し込んできていた。

 玲熙を抱えて白い砂浜にたどり着いた丞は、疲労のあまり砂の上に突っ伏した。

 状況が目まぐるしく変ったため、すぐには頭で理解することができない。
 何が起こったのか、思い出すことさえ困難だった。

 荒い息を吐いていた丞は、すぐ横に倒れている玲熙を見た。
 微かに瞼が痙攣し、玲熙は大きく胸を喘がせた。
 すると、ほんのりと唇が色づいてゆく。

 玲熙が生きていることに安堵した丞は、上半身を起こし、華奢な身体を胸に抱き寄せた。

 不思議なほど愛おしさが込み上げてくる。

 どういう状況か完全には把握しきれてはいないものの、死神の手から逃げ出せたことは確かだった。

「──晴熙兄さん……?」

 その時、朦朧として濡れた目を開けた玲熙が小さく呟いた。
 そのうちに深い瞳が丞に向けられ、はっと恐怖に見開かれた。

「──いやああっ! やめて、近寄らないでっ!!」

 突然、無我夢中で暴れ始めた玲熙に、丞は思わずぎょっとしたが、パニックに陥っていることをすぐに悟った。

 何者からか必死に逃れようとして、玲熙は闇雲に腕を振り回している。
 その表情は極度の恐怖に歪み、涙が溢れ出していた。

「玲熙、落ち着け!」

 玲熙を背後から強く抱きしめた丞は、抗う玲熙に努めて冷静に語りかけた。

「──大丈夫だ。おまえを襲った奴はここにはいない。
 もう怖くないから、落ち着いてくれ」

 ここまで襲ってこないという確信はまるでなかったが、丞は自分に言い聞かせるかのようにそう囁いた。

 玲熙は少しずつ大人しくなり、やがて身体から力が抜けた。

 また失神したのかと思ったが、抱きしめた身体が小刻みに震えているのを感じ、玲熙が啜り泣いていると判った。

 口許を両手で押さえて声を必死で押し殺しているが、両目からは止めどなく涙がこぼれ落ちてゆく。
 時々、堪えきれない低い嗚咽が喉をついて漏れた。
 これほどまでに苦しげに泣く人間の姿を初めて見た丞は、何とも言えない哀れみを感じた。