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舞の刻



<21>



 澄み切った青い空を見上げた丞は、思ってもみなかった成り行きに思わず苦笑した。

 人を拒絶している玲熙とは違い、晴熙はずいぶんと気さくで話しやすい。
 人を威圧することなく、誰でも受け入れて和ませてしまうようなおおらかさがあった。
 融たちが晴熙を慕う気持ちが、何となく丞にも理解できるような気がした。

 と、風がほのかな芳香を運んできた。
 白檀と麝香が入り混ざったような薫り。
 焚きしめたような香の薫りには覚えがあった。

 風の流れてきた方向を仰ぐと、屋上の階段の上にある水道タンクの陰に、ちらりと人影が見えたような気がした。

 もう一度、風が丞を誘うように芳香を運んでくる。
 確信を持った丞は、階段のわきにある鉄のハシゴを上がり、そのコンクリートの屋根の上に顔を出した。

「何だ、こんな所にいたのか」

 水道タンクの陰に座っている玲熙を見つけた丞は、歩み寄りながらそう声をかけた。

 すると玲熙は丞を見上げ、どうしようかと迷った様子ですっと視線をそらした。

「ああ、ひょっとして、今の会話を聞いていたのか?」

 丞が苦笑しながら訊ねると、玲熙はちらりと丞を横目で睨み、再び視線をそらした。

「──兄さんは大げさすぎる。要もだ。
 生れながらの巫女なんて、僕に苦痛しかもたらさない。
 要は僕の舞は特別だって言っているけど、僕にはよく判らないし……」

 低い小声で、それでもはっきりと自分の意見を言った玲熙を見て、丞は少し驚いた。
 丞は穏やかな微笑を浮かべると、玲熙の傍らに座り込んだ。

「晴熙さんはおまえのことを心配しているだけだろう。
 巫女うんぬんの話は俺にはよく判らないが、本当に嫌ならやめてしまえばいい」

 空を見上げながらそう言った丞に、玲熙あ非難がましい視線を向け、ため息をついた。

「──君は、強引すぎる。僕のことも、放っておいてくれればよかったのに」

 玲熙は悲しげに呟くと、膝を抱え込んだまましばらく黙り込んでいた。
 その後、思い詰めたような声で、玲熙は丞に訊ねた。

「傷の具合はどう? 要から、ひどい傷だって聞いた。
 ……多分、一生痕になるだろうって」

 その声に含まれていた悲痛な響きに、丞は驚き、からかうように微笑んだ。

「俺を追い払わなかったのは、この傷のせいだったのか?」

「──僕は、もう誰にも傷ついてほしくなかった。
 僕と関わることで傷つく人がいるなら、もう誰とも関わらないようにしようと思っていたんだ。
 それなのに、こんなことになるなんて……」

 今にも消え入りそうな声で玲熙は言うと、腕の中に顔を埋めた。
 泣いているのだろうかと思い、丞が見下ろすと、華奢な肩が微かに震えていた。

「──非情無心の草木の、花に憂き世の科はあらじ」

 丞が呟くと、玲熙がはっと顔を上げた。
 漆黒の闇を思わせる瞳から、透明な雫がこぼれ落ちていた。

「桜の精の言葉らしいな。融から教えてもらった。
 最初の頃、俺はおまえが本当に感情が無いのかと思っていた。
 竜宮郷の事件がなければ、こうしておまえと話すチャンスもなかっただろう。
 だから、とりあえずは安心した。
 一応、人間らしいということが判ったからな」

 双眸を見開いて丞の顔を見つめる玲熙を見返し、丞は唇を微笑の形に刻むと、その場から立ち上がった。

「今朝の事を謝りたかった。返って居づらくさせたんじゃないかと思ってな。
 本当に悪かった。
 ──それから、この傷はおまえのせいじゃない。
 だからこれ以上気に病むな。俺が勝手に行動した結果なんだから」

 うつむいている玲熙を見下ろし、丞は笑うと、思い出したように付け加えた。

「それから、もう一つ。ずいぶん融が心配していたぞ。
 あいつは本当におまえの事を大切に思ってるらしいから、あまり悲しませないでやってくれ。
 あの底抜けに明るい奴が苦悩しているのは、何やら不気味だからな」

 唇を噛んでいる玲熙を見て、丞は哀れに思った。
 草木や花のように非情無心に徹してきた玲熙に、残酷な事を突きつけている。
 閉ざしていた心を開けば、再び傷ついてしまうことは目に見えているのだ。

 内心で重いため息をつきつつ、丞は表面的には明るい声で言った。

「俺は先に教室に戻っているからな。気が向いたら、おまえも帰ってこい。
 必ず連れ戻せと融に言われているんだ。
 おまえを残してきたことがばれたら、またぎゃあぎゃあと騒ぐだろうからな」

 答えはなかったが、丞は構わずハシゴを降りた。


 昼休みが終了し、5時限目が始まる直前、隠岐宮玲熙は教室に戻ってきた。

 彼に注目していた生徒たちはひそひそと言葉をかわしていたが、教師が教室に入ってくると、慌てたように着席した。

「えーと、今日はどこからだったかなぁ」

 担任でもある数学教師の中野が、のほほんと授業を開始した。

 玲熙の美しい横顔を斜め後方から眺めていた丞は、隣の正志から肘をつつかれると、そちらの方に顔を向けた。

「何だ?」と視線で訊ねると、正志はノートに走り書きしたらしい文字を指で示した。
 それには、「グッドアイデアを思いついたぞ」と書かれてあった。

 丞はそれに興味を示し、「どんな?」と唇の動きだけで訊ねた。
 すると正志は妙に嬉しそうな顔になり、再びノートに何事かを記していく。

「壁越えだ。記者連中は門を見張っているだろうからな。
 指定した場所に車を用意して、そこから壁を越えるんだ」

「やつらに見つからない場所に、心当たりはあるのか?」

「もちろん。クラブハウスの裏だよ。
 ハシゴも借りてくるから、手間取る心配もないしね。
 隠岐宮家のあの黒ベンツは目立つからやめた方がいいな」

 無言の会話に熱中するあまり、2人は中野がこちらを見たことに気づかなかった。
 中野はしばらく様子を見ていたが、やがて仕方なさそうに声をかけてきた。

「こら、有馬、峰月。何をやってるんだ?」

 その声にはっと黒板の方を見ると、教科書を丸めて軽く肩を叩いている中野と、完全に視線が合ってしまった。

「……い、いえ、何でもありません。
 峰月クンが判らないところがあるというので、ちょっと教えていただけです」

 引きつった愛想笑いを浮かべて正志が答えると、中野は首を傾げて丞を見やった。

「本当に? 峰月は先週のテストで、数学は学年単独トップだったよ」

 その途端、クラス中がざわざわと騒ぎ始め、2人に視線が集中した。

 正志は愕然と目を見開いていたが、慌てたように言いつくろった。

「……というか、お互いに意見を述べ合っていただけです」

 慌てふためく学級委員長の様子を中野は悪戯っぽい目で見つめていたが、軽く声を上げて笑い出すと、チョークを持った手で黒板を叩いた。

「まあいいや、どっちでも。
 有馬、峰月、前に出て、この問題を解いてみなさい」

「え……、いきなり?」

 思わず丞の顔を見た正志に、丞は宙を仰いでみせた。
 結局、仕方がないと思い、2人は立ち上がった。

「じゃあ、他の人も自分で解いてみて」

 興味津々といった面持ちで2人の様子を眺めている生徒たちに、中野はそう言った。
 途端に彼らの顔が不満そうに変る。
 すると中野はにこりと笑った。

「数学は自分で考えることが大切なんだ。
 人の解答を見ても仕方がないだろう?
 どうしても判らなかったら手を挙げて。ヒントはあげるからね」

 生徒たちがぶつぶつと不平をこぼしながら、それでも自分のノートに向かう姿を見て、中野は心底嬉しそうな微笑を浮かべた。