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舞の刻



<25>



 と、その時、能楽堂の裏手の闇がぼんやりと明るくなった。
 闇の中に炎の陰影が揺れ、その光が徐々に近づいてくる。

 鬼もその灯に気づいたのか、歩みを止め、そちらを向いた。

 注意がそれたために金縛り状態が解けた丞は、獣のような素早さで鬼に飛びかかっていた。
 長い鍛えられた足で回し蹴りを繰り出した途端、鬼はひらりと宙を飛んだ。

 空を蹴った丞が態勢を崩すと、鬼はそれを嘲笑うかのように地面に降り立つ。
 そして鬼は般若の面を片手で取り去り、薄闇の中で素顔をさらした。

 その顔を見て、丞ははっと息を呑んだ。
 般若の面の向こうからのぞいた顔は、まぎれもなく竜宮郷でクラスメイトを殺害した鬼のものであった。

 鬼は丞を見て鋭い牙の生えた唇をつり上げると、身を翻し、そのまま暗い森の中へと姿を消したのだった。

「──畜生……待てっ!」

 唸り声を上げた丞が追いすがろうとした途端、闇の中から松明を持った2人の人物が現れた。

 その姿を見た丞は、驚いて足を止めた。
 それは相手も同様であったらしく、呆然としたように丞を見つめていた。

「──どうして、ここへ?」

 白い装束を纏った玲熙がそう呟くと、丞は大きく息を吐いた。
 そして玲熙を護衛するかのように付き添う沖守要を見た。

「ちょっと立ち寄っただけなんだがな。──今、その舞台の上に鬼がいたぞ」

 丞の言葉に、玲熙と要が同時に眉をひそめた。

「──鬼?」

 呟いた玲熙を見て丞はうなずくと、先ほど鬼が投じた短刀の方に視線を転じた。
 しかし確かに地面に突き刺さっていたはずの短刀は、あたかも幻だったかのように消え失せていた。

「嘘じゃない。奴はその舞台で般若の面をつけて舞を舞い、そして俺に襲いかかってきた」

 そう言ったものの、鬼がいたという痕跡はまったく無く、丞は自分が幻影に囚われていたのだろうかと思い悩んだ。

「──霞となりて失せにけり、というわけですか」

 能舞台をじっと見つめていた要が、混乱した様子の丞を振り返ってそう言った。
 松明の炎と舞台の篝火だけが暗闇を照らす中で、要は日頃の穏やかな表情とはまったく異なる、妖しく謎めいた笑みを浮かべていた。

「要さんは、俺が幻を見たと思っているんですか?」

 自分自身が信じられなくなっている以上、そう思われても仕方がない。
 しかしそれはそれで納得できず、知らず知らずのうちに憮然とした表情になっていた。

 そんな丞を見やり、要は面白そうに笑った。

「いいえ、まさか。確かに鬼はいたようです。
 ずいぶんと濃い妖気が漂っていますからね、この辺りは。
 しかし君が見たのは、やはり幻だった可能性もある」

 要は眼鏡をはずすと、それをスーツジャケットの胸ポケットに入れた。
 そしてぐるりと周囲を見渡し、大きくため息をついた。

「ずいぶんと結界が破綻してしまった。
 もともとここの結界は外からの邪気を防ぐために張られたもの。
 内からの力には弱いんですよ。
 3年前に血が流されて以来、まめに浄化しているというのにね」

「──要、妖気ってどういうこと? 僕は何も感じないんだけれど」

 要が見ているものを見ようとしていた玲熙は、しかし諦めたように訊ねた。
 その不安げな顔を見返した要は、1人で納得したようにうなずいた。

「ああ、あなたは感じないでしょう。あなたは強い霊力で守られていますからね」

「俺も何も感じないけどな。その結界とやらも見えないが」

 丞が怪訝そうに言うと、要は軽く肩をすくめた。

「いくら尋常ならぬ気の持ち主である君でも、そう簡単には無理でしょう。
 まあ修行の成果だとでも思ってください。
 沖守は隠岐宮家の守人ですからね。
 清浄なるものに対するよりも邪悪なものには人一倍敏感なんです。
 それに、一応私も禰宜ですからね」

「ネギ?」

 その単語に丞が反射的に問い返すと、要と玲熙は顔を見合わせて苦笑した。

「──失礼。一般の方には宮司とか神主とか言った方が理解できやすいかな。
 細かく言うと、宮司は神社の長、私みたいなのはその部下といったところでしょう。

 ……とにかく、丞君は確かに鬼を見たはずです。
 ただ、それは鬼の幻術だったかもしれない。
 何が目的なのかは判りませんが、君を狙ったことだけは確かですね」

 要はそう説明し、怜悧な眼差しで丞を見た。
 その視線を見返した丞は、顔を青ざめさせた玲熙を一度見ると、要に視線を戻した。

「幻だったなら、俺を殺すことはできないんじゃないですか?」

「幻影を甘く見ない方がいいですよ。
 幻を見た時点で、あなたは半ば支配されている状態なのですから。
 傷つけられたと感じれば、本当に痛みを感じるでしょうし、幻の中で致命傷を受ければ、君の心臓は止まるでしょう。
 ただし、司法解剖しても何の傷も見つからず、急性心不全による死亡ということになるでしょうがね」

 冷ややかにさえ見える要の顔に、丞は不思議な違和感を感じた。
 どこがどう違うというわけではないが、目の前に立つ要と、昼間会った要は、とても同一人物には見えないほどの隔たりがある。
 その顔や声は同じであるにもかかわらず、身を包む雰囲気だけが明らかに異なっていた。
 爽やかな5月の風が、いきなり木枯らしに変わったかのようであった。

「どうして鬼は舞を舞っていたんだろう?」

 ふと玲熙がつぶやくように言った。

「般若の面って言ったよね。どんな姿だったか判る?
 どういう舞だったかまで判ればいいんだけど……」

 玲熙が丞を見上げてそう訊ねると、丞は困惑したように片手で頭を掻いた。

「どんなと言われてもな。実際にあんなものを見るのは初めてだし。

 黒くて長い髪を振り乱した角と牙の生えた鬼の面だったぞ。
 眉間に深い縦皺があって、赤い舌があった。
 ああいうのを般若っていうんだろう?」

 丞が確認するように問うと、玲熙は愕然として丞を見つめ返した。

「──赤い舌があった? 般若の面に?」

「ああ、確かにあった。妙にリアルで不気味だと思っていたからな」

 丞は特に不思議に思うわけでもなくそう証言したが、玲熙は恐怖さえにじませた表情で驚いているようだった。

「丞、それは般若じゃない。──蛇の面だよ」

 丞が首を傾げると、玲熙は落ち着きを取り戻そうとして軽く両目を閉じた。

「般若と蛇の決定的な違いは、舌があるかないかだけなんだけどね。
 意味合いはずいぶん違うんだ。

 基本的に般若は女面で、嫉妬を怨念を映し出した面なんだ。
 だから男が主人公である能では使わない。
 蛇の面は般若よりさらに恨みが深くなったもの。
 もはや人でも女でもない、怨念の化身である時に使われる」

 玲熙はそう説明すると、気がかりそうに要を見やった。

「そして、蛇の面は3年前に神社から盗まれてしまったんだ。
 室町時代後期に作られた面で、神社に奉納されていたんだけど、そのあまりに邪悪な顔のために封印されていたんだよ。
 警察にも届け出て、探してもらっているんだけどね。

 他にも面はたくさん奉納されているのに、犯人はその真蛇だけを選んで盗んでる。
 真蛇をつけて舞を舞っていたって言うし、その鬼はずいぶんと能に詳しいみたいだ」

 玲熙が悲しげに、深い嘆息を漏らした。
 白い狩衣をまとい、長い黒髪を元結でまとめた玲熙の姿を見ていると、まるで時が遙か過去に遡ったような錯覚を覚えさせた。