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舞の刻



<26>



 一方の要は、顎に片手を添えて考え込んでいた。

「──あの蛇の面が使われるのは『道成寺』ぐらいです。
 3年前の事件でも般若らしき面が使われていたはずですよ、玲熙さん。
 どちらもおそらく盗まれた真蛇の面でしょう。
 この舞台を使っていたというのも同じです。
 ……やはり、同一犯のようですね」

「神聖な面を悪用するなんて……」

 力ない声で呟いた玲熙は、じっと彼を見つめていた丞を見上げ、ふわりと微笑んだ。
 初めて見るその笑顔に、丞は一瞬心を奪われた。

「でも、本当に無事でよかった。君は本当に無茶をするね」

「悪運が強いだけなんだろう、多分。
 まさか鬼に出くわすとは思わなかったからな。
 最初は単なる観光のつもりだったし」

 そう言って丞は、皮肉っぽく片端をつり上げた。

「玲熙さん、どうしますか? 気分が乗らなければ、少し時間をおいてからでも」

 しばらく舞台を見つめていた要が玲熙の方を振り返ってそう訊ねると、玲熙は首を振った。

「大丈夫だよ、要。せっかく準備して来たんだから、済ませてしまおう。
 それに、鬼が出たというなら、舞台を浄めておかないといけないな」

「──そう言えば、何をしに来たんだ?」

 玲熙の言葉を聞き、丞が訊ねると、玲熙は微かに微笑みながら答えた。

「奉納舞の練習を少しね」

「──見ていっていいか? もちろん、おまえが嫌なら帰るが」

「いいけど、つまらないかもしれないよ」

「何事も経験ってやつだ。
 おまえが舞うのを見たいとも思うしな。
 さっきよりは、安心して見ていられるだろう?」

 丞が答えると、玲熙はくすりと微笑んだ。
 そして軽く頷き、踵を返して舞台の方に歩みだした。

「判った。僕が今度舞うのは『羽衣』という曲なんだ。
 能の初心者でも判りやすいと思うよ。
 ──じゃあ、要、行こうか」

 舞台の上に上がっていく二人と、丞は白洲の上から見つめていた。

 神社の息子らしくとでも言うか、玲熙は浅葱色の袴をつけた白い狩衣姿だった。
 もともと男であることが信じられないほど端麗な容姿であるだけに、その姿は常よりもさらに清麗さを増している。
 扇を持つ白い手の優雅な動き、すべるような足取り、能面をつけていないがその顔は、清浄無垢な天女の高貴さを宿していた。

 バレエのような大きな動作はないものの、抑制された舞は丞の意識を魅了した。
 しなやかな腕が掲げられると、そこから清らかな光がこぼれ落ちていくような錯覚さえも覚える。

「──疑いは人間にあり。天に偽りなきものを」

 惚けたように舞を見入っていた丞の隣で、突然低い呟きが聞こえた。

 我に返った丞がそちらを見ると、いつの間に来たのか晴熙が無表情で舞台を見つめていた。

 丞の視線を感じると、晴熙は淡く微笑んだ。

「……天女の羽衣を盗んだ漁師は、羽衣を返せば、彼女は舞を舞わずに天に帰るだろうと疑うんだよ。
 天女はそんなことは決してしないと言うわけだ。
 他人を疑うのは人間だからであって、天には疑いそのものが存在しない。
 この言葉を聞いて、漁師は自分の心根の卑しさを恥じるんだけどね」

 晴熙はじっと玲熙を見つめながら、静かな口調でそう説明した。

「羽衣伝説は日本各地に存在するんだけど、そのほとんどが天女は漁師の妻となり、子をなすそうだ。
 能の『羽衣』の天女だけが、清らかなまま天に戻れる。
 美しく、汚れのないままに。

 この曲は相当に古いものだけど、誰がそんな演出にしたのか僕は非常に興味がある。
 誰もが美しい天女に憧れるだろうけど、それはきっと舞を見たいからじゃない。
 伝説通りに天女を我がものにしたいからだ。
 美しく、高貴で手の届かぬ存在を、地面に引きずり倒したい。
 そうして初めて、男は天女が自分のものになったと思えるだろう。

 誰もがそう考えるだろうけど、この作者は天女を汚すことをよしとしなかった。
 天女への憧れを、舞という形で昇華させてしまったんだ。
 ──凡人には、考えも及ばないだろう?」

 晴熙は丞が驚いているのを見ると、自嘲するかのような微笑を口の端にのぼらせた。

「玲熙は、この『羽衣』が得意なんだよ。
 あいつは純真無垢な天女そのものになりきれる。
 それどころか、玲熙自身が天女の化身なんじゃないかとさえ思えるよ。

 僕も父親からずいぶん厳しく稽古をつけられたけど、玲熙ほどに天賦の才がなかった。
 『低俗な天女』だって言われたことがあるよ。ひどいよね」

 饒舌な晴熙を、丞は少し訝しく思った。

「晴熙さんでも苦手なものがあるんですね。俺にはさっぱり判らない世界ですが」

「舞うのは本当に苦手だよ。
 やれと言われればやるけど、義務的なものだね。だから余計にみっともなくなる。
 要の方がまだ才能があるよ。
 ──神懸かりの舞を舞えるのは、玲熙を含めてごく少数だろうね」

「要さんも舞えるんですか? 
 さっきは神主の資格があるって言ってたし、ずいぶんと芸達者なんですね、あの人は」

 丞の言葉に晴熙は声を小さくたてて笑い、足下の玉砂利を蹴った。

「あの若さで玲熙の後見役だからね。相当な実力者だよ、実際。
 玲熙に何かあればその代役を務めなければならないし、守らなければならない」

 晴熙はそこで言葉を切ると、凄みのある微笑を浮かべながら丞を見た。

「隠岐宮家の祖先は鬼だったそうだよ。
 時の権力者に追われて、この小さな島に逃れてきたそうだ。
 だから、神社の奥宮には、鬼の首が奉られている」

 突然の言葉に、丞は愕然として晴熙の顔を見返していた。

「もっとも、誰も見た者はいないということだけど。
 正式な御祭神は月読命(ツクヨミノミコト)だから、これは単なる伝説。
 先祖は卓越した巫女で、悪霊に苛まれていたこの島を浄化したっていう話もある。
 昔は悪霊のことをオニといったんだ。
 どこかで話が混乱しているんだろうね」

 明るく笑い出した晴熙を見て、丞は自分がからかわれていたことを知り、苦笑した。

 舞台の方に目をやると、舞を終えた玲熙が何やら要と話しているところだった。

 ふと丞は、爽やかな夜風が吹いているのを感じた。
 桜の花びらが変わらずひらひらと舞っているが、さきほどまでの息苦しいような重い雰囲気は消えている。
 玲熙の舞が空気に溶けだしたかのように、その風は清々しく思えた。

 不意に丞は眉根を寄せて考え込んでいる晴熙を見やり、唐突に訊ねた。

「晴熙さん。あなたには、この神社に張られている結界が判りますか?」

 丞の問いに、晴熙はきょとんとした顔になり、ぐるっと周囲を見渡した。
 そして怪訝な顔をしてかぶりを振った。

「──いや、判らないな。
 神社は聖別された場だってことは、小さい頃から散々聞かされてはいるけどね。
 実感として感じたことはないんだよ。
 でも、どうして君がそんなことを?」

「さっき、要さんがそう言っていました。
 玲熙も判らないって言っていましたけどね。
 ……ということは、それが見えるのは要さんだけってことか」

 丞が考え込むと、晴熙は苦笑を漏らした。

「要も、英才教育を受けた1人だからね。
 僕が知らない裏事情まで知っている可能性はあるけど。
 僕は直系の人間だけど、そういう資質はまるでないからな」

 晴熙は重々しく嘆息すると、舞台上の2人を見やった。