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舞の刻



<28>



「忙しくて味まで気にしてられなかったんだよ、昔は。
 でも、ひどいものを食べさせたという自覚はあるな。
 よく育ってくれたものだと思うよ、本当に……」

 しみじみと呟いて司は丞を見つめ、笑った。

 眼鏡の奥の瞳は優しく、穏やかだった。
 典型的な日本人とでも形容できそうな司の容姿ではあったが、その双眸はすっと筆で描いたような綺麗な二重だった。
 黒い瞳は決して荒々しい感情を映し出すことはなく、いつも優しく微笑んでいる。

 実際、丞は司が本気で怒ったところなど見たことながった。

「──そういえば、父さん。鬼塚森神社について、何か知ってる?」

 丞が話題を変えると、司はきょとんとした表情になり、首を傾げた。

「鬼塚森神社? あまり詳しくは知らないけど、まあ一般的なことなら。
 もっとも寺社建築はあんまり真面目に勉強していないんだけどさ。

 ……ええと、創建は室町時代の後期、建築様式は出雲大社系の妻入り型。
 神域は竜海山一帯らしいけど、昔は島全体がそうだったみたいだよ。
 神社境内の本殿、拝殿、能楽殿は重要文化財に指定されているらしいね。
 御祭神は月読命(ツクヨミノミコト)だったかな。
 夜を司る月の神様のことだよ」

 丞は箸を置くと、まじまじと父親の顔を眺めた。
 さすが建築家だと、妙なところで感心してしまう。

「それだけ知っていれば十分じゃないか。俺は全然知らなかったから」

「丞の歳で神社に興味がある方が珍しいんじゃないのかな。
 あの神社は、神事能がわりと有名なんだよ。
 やっぱり無形重要文化財扱いらしいから。

 能面とかもたくさん奉納されているって話だし、その昔は殿様がわざわざ見物に来たこともあるらしいよ。
 まあ、この辺りはそういう神社は多いけどね。
 出雲神楽は全国的にも有名だし、なんといっても、神々が集う地だから。
 旧暦10月を神有月と呼ぶのは、出雲地方だけだもんね」

「──そう言えば、古典の授業でそんなことを言ってたな。
 ほとんど半分、眠っていたけど」

 授業を思い出して眉間に皺を寄せた丞を見て、司は声を立てて笑った。

「丞の古典嫌いは変わらないねえ。現国はできるんだから、問題ないと思うんだけど」

「これに関してはアレルギーってやつかも。
 それはそうと、クラスに鬼塚森神社の宮司の息子がいるんだ。
 隠岐宮玲熙って名前なんだけど」

 丞の言葉に司が驚いたように箸を止め、その拍子に摘んでいた刺身がぽとりと落ちた。

「へえ、すごいな。隠岐宮家の話題は僕もよく聞くよ。
 この辺りじゃ知らない人はいないぐらいに有名だもんね」

「そうらしい。
 ──神事能ってやつなんだろうけど、玲熙は能を舞うんだ。
 今日初めて見たけど、何というか、感動したな。
 いつの間にか意識が引きずられて、引き込まれるような感じだった。

 玲熙の舞は神々を鎮めるための舞らしいんだけど、少しカルチャーショックを受けた。
 日本の神社って、そういうものだったのだろうかってね」

 複雑そうな表情を浮かべている丞を、司は愕然としたようにじっと凝視していた。
 そして、ややあってから深いため息をついた。

「昔ね、君のお母さんにも似たようなことを聞かれたことがあるよ。
 何でだろう、本当に不思議だな」

 箸を置いた司は、驚いて見返してくる丞を見つめ、優しくそして少し寂しげに微笑んだ。

「丞には話したことなかったかもね。

──君のお母さん、ユーリアがバレリーナだったってことは知っているよね。
 でも、彼女は日本の能楽の勉強をしていたんだ。
 最初に出会った大学のキャンパスで、彼女は熱心に能面の写真を見ていたよ。

 『能がお好きなんですか?』って聞いたのが、僕と彼女のつきあいの始まり」

 突然の思い出話に戸惑いながらも、丞は耳を傾けた。

 司は両手の指を組み合わせ、それを見つめながら話を続けた。

「僕が日本人だって知った彼女は、いろいろ質問してきたな。
 僕は建築専攻だから、能についてはまったくの無知だったけどね。

 彼女は博識だったよ。
 どうしてバレリーナの君が能楽に興味を持つのか聞いたら、笑って言ったんだ。
 『カルチャーショックを受けたのよ』って。
 それから真剣な顔でこう言うんだ。
 『能は鎮魂の舞だ。バレエもキリスト教も私を救ってはくれなかった。
 能は私を救ってくれるだろうか』ってね」

「母さんが、能を勉強してたなんて──」

 あまりの驚きに言葉が続かず、丞は悲しそうな父親を見つめることしかできなかった。

「因縁すら感じるよね。
 古典嫌いな丞が能に興味を持ったのは、やっぱりユーリアの血のせいかな」

 司は立ち上がると、呆然としている丞を残して自分の部屋に引っ込んだ。
 そしてしばらくして、桐の箱を携えて戻ってきた。

「この能面はユーリアが非常に大切にしていたものだよ。
 『増女(ゾウオンナ)』って言うらしい」

 司は面箱を開け、中に入っている金襴作りの面袋を恭しい手つきで取りだした。
 面袋の中から面を引き出すと、面紐の部分を持って丞に見せる。

「女神や天女、高貴な女性を舞う時に使うそうだよ。
 戦後のどさくさで海外に流出したものを手に入れたって言っていたな」

 その面の白い顔は、冷ややかなまでに美しかった。
 能面のようなという言葉がぴったりの曖昧な表情、しかし卑しさや醜さといった感情は見事なまでに排除されていた。
 まったく似ていないにも関わらず、その冷ややかな端整な面はどこか玲熙の美貌を思い起こさせるものがあり、丞の心臓がどきりと高く拍動した。

「この面も破損している部分があるから修復しなきゃいけないんだ。
 だけど誰に頼んでいいのか判らなかったから、ずっとそのままにしてあったんだよ。
 隠岐宮君と知り合ったなら、ちょっとその辺りの事を聞いてみてもらえないかな」

 丞は魅入られたように面を見つめながら、司の言葉を遠くで聞いていた。

 鬼が舞に使った蛇の面、玲熙の『羽衣』の舞、そして母の形見である増女の面──。
 それらが丞の頭の中で奇妙な感覚を呼び起こしていた。
 まるで異世界から目に見えない触手が伸びてきて、全身が絡め取られていくような不気味さがある。

 司の使った「因縁」という単語が、丞の脳裏にくっきりと刻み込まれていった。




 高速道路から一般道に下りると、その車は深夜の鬼ヶ浦町に入った。
 しばらく海岸線に沿って走ると、右手の方にライトアップされた鬼ヶ浦大橋が見えてくる。
 そしてすぐに竜泉閣ホテルが巨大な燈台のような姿を現した。

「──やばいなあ。こんなに遅くなって、きっと怒ってるだろうな」

 白いセダンを走らせている大沢清司は、3月に結婚したばかりであった。
 しかし最近は仕事が忙しいせいで、ろくに妻と会話する時間がない。
 先日もそのことで激しく口論になったばかりなのだ。

 今夜帰宅してからの事を思うと、胸が重くなってきた。
 今日は大阪まで出張であったが、大学時代の友人としばらくぶりに出会い、つい予定時刻を大幅にオーバーしてしまったのだ。 
 いつもなら自宅に連絡するのだが、どういうわけか、今日に限ってすっかり連絡を忘れてしまったのである。

 憂鬱な気分に陥った大沢は、信号を右折すると、鬼ヶ浦大橋に向かった。

 車通りはなく、対向車線にも車は走っていなかった。
 しかし橋の半ば当たりに、ハザードランプを点滅させた車が路肩に止まっていた。

 大沢は今夜何度目かになるため息をついた。
 単に居眠りをしているだけなら良いのだが、もしかすると車に何かトラブルが起こったのかもしれない。
 人口の少ない沖月島であるから、運良く手助けする車が他に現れるとも思えなかった。

「──仕方がない。ちょっと覗いてやるか」

 大沢は車を路肩に止めると、車を降りて前方の車へと近付いて行った。