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舞の刻



<29>



 運転席をのぞくと、シートにもたれかかるようにして男が座っていた。

 車内ランプはついておらず、ただ陰影でしか人物を確認することができない。
 眠っているのか、起きているのかすらよく判らなかった。

 大沢は軽く運転席側の窓ガラスをノックしてみた。
 しかし車内の男は何の応答もせず、ぴくりとも身動きしなかった。

「──何だ、眠っているだけか。こんな所に車停めるなよ、紛らわしい」

 小さく毒づいた大沢は、すぐに車に戻ろうとした。

 一歩足を引いて振り向こうとすると、足下で水溜まりを踏んだような音がする。

 地面を見下ろした大沢は、そこに黒々とした水が溜まっていることに気づいた。
 ぽとん、ぽとんと車の扉の隙間から、水滴が落ちている。

 規則正しく落ちるその雫を見ていた大沢は、不意にその水がどろどろとして滑りがよいことに気づいた。
 乾いている場所で靴底を擦りつけると、何かぬるりとしたものがアスファルトに付着した。

 凄まじく嫌な予感がして、大沢は唾を呑み込んだ。
 海峡を渡る潮風が急に冷たく感じられ、彼は背筋が泡立つのを感じた。

「──まさかな。眠っているだけだよな」

 思わず声が漏れたのは、不安の裏返しだった。

 大沢は片手を伸ばし、そっと車のドアを開けようとした。
 ロックはされておらず、その車の扉は不自然なほど簡単に開いた。

 ドアを開けた途端、中の男が首を動かした。

 大沢はほっとすると同時に、慌てて車のドアを開けたことを弁解しはじめた。

「すみません、何かあったのかと心配になって──」

 声が裏返っていることを自覚しながら、大沢は暗いにもかかわらず愛想笑いを浮かべていた。

 しかし男の首が動き続け、そのまま転がり落ちたのを見て、大沢の笑いは凍り付いた。

 車の外に落ち出た生首は、そのままボールのように転々と車道に転がった。

 それを呆然と見つめていた大沢は、ひゅうっと喉が笛のような音を立てたことを他人事のように聞いていた。

 しばらく血の滴る首を見つめていた大沢は、急に我に返ると、転びそうな勢いで自分の車に戻ろうとした。
 現実を受け入れることを拒絶しているせいか、身体がもどかしいほどに動かない。

 もがくようにして車に戻った大沢は、しかし運転席のドアの前に不審な人物が立っているのを見つけ、思わず立ち止まっていた。

 大沢が最初に見た部分は、その異様な装束であった。

 絵巻物に出てくるような、あるいは神社の神職がまとっているような狩衣姿。
 淡いブルーの生地は光沢を放っているようであり、自分のライトのおかげでその紋様までもがくっきりと見えた。

 呆気にとられて視線を上に上げていくと、その血のように赤い唇で視線が止まった。
 ぬらぬらとした朱唇の形は良かったが、しかしその狭間から白く尖った牙が見えていた。

 さらに上には深紅の両眼が光っており、驚くほど長い黒髪が、潮風に吹かれて無数の蛇のように蠢いていた。

 黒髪の間から、細い般若のような角がのびている。

 そこではじめてその異形の者の全身を認識した大沢は、自分の歯が騒々しいほどにカチカチと鳴っていることに気づいた。
 相手に対する底知れぬ恐怖が、地面から突き上げてくるような気がした。

 大沢の意識は急速に遠のいた。
 悲鳴を上げたと思っていたが、声は出なかった。

 彼は真正面から見た鬼が滑るような足取りで自分に近づき、黒く濡れた手を振り上げたのを見ていた。

──こんなことなら、早く電話をかけとくんだった。

 失われていく意識の中でそう思い、大沢は愛する妻の名前を呼んだ。


 いつも通り7時に目覚めた丞は、今日が土曜日であったことを思い出した。

 竜桜学園は大学と同じく週休二日制を採用している。
 以前いた清南学園は隔週二日休みだったため、時々登校日ではなかったかと慌てることがあった。

「──今日は何をしよう」

 布団から手を伸ばし、目覚まし時計を取り上げた丞は、以前では考えられないような質問を自分に投げかけた。

 その時、机の上で充電中だった携帯電話が鳴り始めた。

 腕を伸ばしてもさすがに届く位置ではないため、丞は不機嫌になりながらも布団から起きぬけた。
 着信表示を見ると、相手はどうやら融らしい。

「──どうしたんだ、こんな朝早くから?」

「大変だ! 今朝、橋のところで人が殺されてたんだって。
 まだ朝刊には出てないけど、大騒ぎになってる。
 ──それが、殺されてたの、川村先生らしいんだ」

 丞の不機嫌な低音に気づく様子もなく、融は早口でまくし立てた。

 その言葉ではっきりと意識を覚醒させた丞は、椅子に座ると冷静な口調で訊ねた。

「川村先生って、玲熙を校門から閉め出したあの人だな。
 また要さんが知らせてきたのか?」

「そうそう、今、大橋の所で検問中らしいんだ。
 車の中で殺されていたらしくて、首がすっぱりと落とされていたんだって。
 ……昨日のことがあるから、玲熙、また辛い目に遭うよ。
 本当に、どうすりゃいいんだろう」

 情けない声を上げた融の顔が目に浮かび、丞は思わず片手で顔を覆っていた。

「おまえが慌てても仕方がないだろうが。
 それより、もう少し詳しい話が聞きたい。
 直接会えればいいんだが、どこか適当な場所を知ってるか?」

「今日はあまり外を出歩かない方がいいよ。
 マスコミがますます増えているからな。
 丞も相当有名になっているはずだから、よければ俺が出向いていくよ」

 それから一時間後、社用でどうしても出かけなければならなくなった司を送ってから、丞は飛び込むようにしてやって来た融を出迎えた。

「──どうした、汗だくじゃないか。走ってきたのか?」

 峰月家の玄関に入り込むなり、前屈みになって荒い呼吸をしている融を見て、丞は驚いて訊ねていた。

「湾岸線は警察やらマスコミの車やらが走り回ってるから、裏道を回ってきたんだ。
 竜海山の山道だから、結構ハードなんだよね。
 山駆けしてる修験者みたいな気分かも」

 融は額から流れ落ちてくる汗を服の袖でぬぐうと、丞の顔を見上げて笑った。

「要さんから話を聞いてから、もう心配でたまらなくなってさ。
 玲熙には頼りになるお父さんも晴熙さんも、それに要さんだってついているのに、本当に不思議だよな。
 俺1人が騒いだところで、どうしようもないのに」

「それが友達ってもんなんだろ。まあ、上がれ。朝食は食べてきたのか?」

「──まだ。うちの家も大騒動で、俺の食事どころじゃないってさ」

 丞に促されて家に上がった融だったが、そう答えた途端、胃袋が盛大な音を立てた。

「簡単なものでよければ食べさせてやるよ。
 朝は和食、洋食、どっちだ?」

「うちの家は基本的に和食。でも俺は洋食がいいなあ。
 そう言うと、親は怒るけど」

「じゃあ洋食でいいか。夜食の方が手間がかかるんだよ、実際のところ」

 10分後、見事なコンチネンタルブレックファーストを目の前にして、融の顔をは涙を流さんばかりに輝いていた。

「すごい。夢にまでみた洋風朝ご飯。
 ご飯の代わりにトースト、卵焼きの代わりにオムレツ、味噌汁の代わりにコーヒー。
 ──ありがたくいただきます」

 しおらしく手を合わせた融は、その後もの凄い勢いで食事を始めた。
 その食べっぷりを呆れたように見守りながら、丞はコーヒーを口に運んだ。