Rosariel.com
舞の刻



<31>



 両手に買い物袋をぶら下げ、マウンテンバイクで自宅まで戻ってきた丞は、風がどこからか痛切な悲鳴を運んできたのを聞きつけた。

 ふと顔を空に向け、耳を澄ませる。

 身を切られるような叫び、それは甲高い断末魔の悲鳴にも似ている。

──それは、子犬の恐怖の悲鳴だった。

 自転車を車庫に入れた丞は、買い物袋を手にしたまま、海岸沿いの堤防をのぞき込んでみた。
 悲鳴はわりと近くから聞こえている。

「──事故にでも巻き込まれたか?」

 その声があまりにも痛々しいため、顔をしかめた丞は、声が聞こえてくる方向へと歩き出した。

 そして、しばらく歩いたところでぎょっとして立ち止まった。

 誰かが、海の中にいた。

 まるで引き込まれるように深い方へと泳いでいく姿を見て、丞は慌てて砂浜に飛び降りていた。
 買い物袋はその辺に放り投げる。

「──自殺でもするつもりか?」

 春とはいえ、日本海の海は身を切るほどに冷たい。

 海水に入った丞はその冷たさに総毛立ったが、すでにだいぶ深いところまで行っている人物を放っておくことはできなかった。

 見れば、気を失いかけているのか、海の中に沈み込みそうになっている。

 肩の傷口に塩水がしみ、心拍数が跳ね上がった。

 それでも痛みをこらえながら、丞は溺れかけている人物の傍らまで泳ぎよった。
 沈み込みそうになる身体を片手で支えた時、その青ざめた顔を見て、丞は二重のショックを受けた。

「──玲熙!? おい、しっかりしろ!」

 血の気のない顔を片手で軽く叩くと、玲熙はうっすらと目を開け、丞の顔を見つめた。
 唇は紫色に変色し、顔は紙のように白くなっている。

 海水を飲み込んだのか、彼は丞の腕の中で激しく咳き込んだ。

「この馬鹿野郎! 死ぬつもりだったのか!?」

 身体中を駆けめぐる憤りに任せてそう怒鳴ると、玲熙は微かに首を横に振った。

 そして腕を伸ばし、沖を指さす。
 そちらを見ると、黒いゴミ袋がぷかぷかと浮いていた。

「──子犬が、あの中にいるんだ。……助けようと思って」

 弱々しい声に思わず呆然としたまま、丞は玲熙の顔を見直した。

「──子犬?」

「──悲鳴が、聞こえてきたんだ。お願いだから、助けてあげて……」

 そのまま気を失いそうになっている玲熙の顔を、丞は慌てて叩いた。

「おい、しっかりしてくれ。おまえに死なれちゃ困るんだ」

 丞の声に、玲熙は目を開き、淡く微笑んだ。
 その消えてしまいそうな儚げな微笑を見た丞は、諦めたようにうなずいた。

「子犬は俺が助けてくる。だから、おまえも死ぬなんて考えるなよ」

「……ありがとう。でも、早く。あの子はもう、とても弱っているんだ……」

 すがりつくような眼差しで見つめられ、丞は慌てて泳ぎだした。

 寒中水泳はあまり得意ではない。
 片腕に玲熙を抱えたままではなおさらだった。

 それでも何とか黒いゴミ袋をつかんだ丞は、それを肩にのせ、浜辺に戻りだした。

 砂浜にたどり着き、激しく咳き込んでいる玲熙を見て、丞は張りつめた声で言った。

「とにかく、家に戻るぞ。
 こいつの身体も冷え切っているし、放っておけば死んでしまうからな。
 ──歩けるか?」

 砂浜に膝をついていた玲熙は、差し伸べられた腕を見つめ、うなずいた。
 そして手を取って引き起こしてもらうと、ゴミ袋から取りだした子犬を手渡された。

「おまえが抱いていろ。おまえが助けたようなものだしな。
 それに、俺はちょっと大荷物があるんで、そいつまで手が回らない」

 放り投げておいた二つの買い物袋を拾い上げた丞は、急かすように玲熙に言った。

「早くしろ。外気がどんどんそいつの体温を奪ってるからな。
 おまえも今にも死にそうな顔をしているぞ」

 玲熙はうなずき、丞のあとを追って歩き出した。
 そして買い物袋からのぞいている大根に目を止め、驚いたように目を見開いた。

「──大根?」

「今日の夕飯のもと。そういえば、卵も入っていたんだ。全部割れたかもな」

 情けなそうな丞の声を聞いて、玲熙は驚いているようだったが、そのうちくすくすと堪えきれずに笑い出した。

「そんなに可笑しいか?」

 ぐったりとした子犬をしっかりと抱き抱えたまま、笑い続けている玲熙を見て、丞は安堵した表情で訊ねていた。

 声にするのも苦しいのか、笑いながらうなずく玲熙を見下ろし、丞はつられたように微笑んでいた。

「笑えるなら上等だ。その方が体温も上がるだろうしな」

 家に戻った丞は、数枚のバスタオルとドライヤーを用意し、急いでやかんに湯を沸かしはじめた。
 そしてしばらく使っていなかった石油ヒーターをつけ、押入の中から電気毛布を探しだしてきた。

「玲熙、おまえはシャワーを浴びてこい。着替えは貸してやるから」

 そう言いながら丞は子犬の身体をバスタオルでくるみ、さらに電気毛布のスイッチを入れて子犬のその中心に置いた。

 バスタオルで小さな身体をふきながら、ドライヤーで濡れた毛を乾かし始める。

「──え、でも……」

 戸惑って立ちすくんでいる玲熙を見上げ、丞は命じるような口調で言った。

「早くしないと風邪をひくぞ。
 父さんのバスローブが置いてあるから、とりあえずそれを着てくれ。
 その格好のままじゃ、手伝ってもらえないだろう?」

 頭の先からぐっしょり濡れている玲熙を見て、丞は苦笑する。
 そしてそれでも立ちすくんでいる玲熙を見やり、不思議そうに首を傾げた。

「どうかしたか?」

 玲熙は困惑したまま丞を見下ろしていたが、小さくかぶりを振ると、ようやく踵を返して、浴室の方へと歩いていった。

 その姿を見送った丞は、ぴくりとも動かない子犬を暖め続けた。
 獣医ではない丞にはなす術がなく、ひたすら暖め続けることしかできなかった。

 ドライヤーを片手に持ったまま、濡れて上半身にへばりついていたTシャツを脱いだ。
 玲熙と同じく、丞の身体もまた冷え切っている。

 バスタオルを上半身に羽織った格好で、丞は子犬を見守っていた。
 このまま体温が上がらなければ、多分、この子犬は死んでしまうだろう。
 いったい誰がゴミ袋に入れて捨てるような真似をしたのかと、深い憤りに駆られた。

 この子犬がどこから来たのかは判らなかったが、捨て犬なのは確かであった。
 いらなくなった誰かが、海の中に投げ入れたのだろうか。
 それとも単なるゲームでしかなかったのか。
 いずれにせよ、その卑劣なやり方は許せるものではなかった。

 石油ヒーターの前でドライヤーをかけ続けたのが功を奏したのか、子犬の身体が小刻みに震えだした。
 それを見て、丞はほっとため息をつく、
 自力で震えることができるなら、山は越えたと思っていいはずだった。

 マガジンラックにドライヤーを立てかけた丞は、立ち上がって台所に向かった。
 空のペットボトルに、火傷しない熱さの湯を注ぎ込む。

 そうしてできた簡易湯たんぽを持って居間に戻った丞は、心配そうな顔で子犬を見つめている玲熙を見下ろした。

 子犬の傍に座り込んでいた玲熙は、丞を見上げて不安そうな表情になった。

「この子、助かるかな?」

「まだ微妙なところだな。でも、おまえが助けなければ、確実に死んでいただろう」

 湯たんぽをタオルでくるんだ丞は、子犬を包むバスタオルの中にそっと差し入れた。
 ぶるぶると震えている子犬はしっかりと目を閉じたままだったが、触れた感触ではさきほどよりも体温が上がっているように思えた。