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舞の刻



<32>



 ふっとため息をもらした丞は、深刻そうな顔をしている玲熙に訊ねた。

「紅茶とコーヒー、どっちがいい? 何なら、酒でもいいが……」

 玲熙はその問いに驚いたような表情を見せたが、ややあってから「紅茶」と答えた。

 台所に戻った丞は、父親が好きなセイロンのリーフを使って紅茶を入れると、個人的に隠しておいた秘蔵のブランデーを取りだし、栓を抜いた。

 玲熙には砂糖とティースプーン一杯程度のブランデーを落とす。

 さらにグラスにブランデーをそそぐと、丞はそれを一息であおった。

 居間に戻った丞は、子犬を抱き抱えている玲熙に、ティーカップの載ったトレーを渡した。

「俺はシャワーを浴びてくるから、そいつの様子を見ていてくれ」

 トレーを受け取った玲熙は、湯気とともに一緒に立ち上ってきたブランデーの芳香に驚いたようだった。

「──お酒を入れたの?」

「その方が早く身体が暖まるからな。
 心配するな、スプーン一杯ってところだ。
 その程度じゃ酔えないと思うぞ」

 躊躇っている玲熙を見下ろして笑うと、丞はバスルームへと向かった。

 熱いシャワーを十分に浴び、身体を暖めた丞は、乾いた服に着替えて戻った。

 見れば、司の白いバスローブを着た玲熙は、子犬を抱いて小さな声でいろいろと話しかけているところだった。

 そんな姿を見て、丞は思わず口許をほころばせた。

 小さく丸まった子犬を抱いたまま、ずっとその小さな頭を撫でている玲熙からは、侵しがたい神々しさに包まれた「羽衣」の天女の顔は微塵も見られない。

 心配そうに、優しく子犬に話しかけている姿は、無邪気であり、少女のように美しく可憐であった。

「どうだ、そいつの様子は?」

 台所から氷とブランデーの瓶、そして先ほど使ったグラスを持ってきた丞は、ヒーターの前に座り込んでいる玲熙に訊ねた。

 玲熙は緊張したような表情を一瞬浮かべたが、すぐに微笑んだ。

「うん、目を開けたよ。もう大丈夫みたいだ」

 玲熙は心から嬉しそうに微笑んでいた。

 邪気のまったく感じられない、はっとするほど印象的な笑顔だった。
 どうすれば人がここまで美しく微笑むことができるのかと疑うほど、それは限りなく無垢で透明な微笑だった。

 一瞬にしてその微笑みに心を奪われた丞は、不躾なほど強い視線で玲熙を見つめた。

 そんな丞に不審を抱いたのか、玲熙の顔に微かな陰がよぎり、不安そうに首を傾げる。

 その途端、強い呪縛から解放されたかのように、丞は我に返った。

「──そうか、それは良かった」

 とってつけたかのような口調で言い、丞は抱かれている子犬の顔をのぞき込んだ。

 少し汚れてはいるが、真っ白い毛皮をしている。
 驚くほど大きな丸い目は、毛皮と対称的なまでに真っ黒だった。
 まだぼんやりしているのか、潤んだ双眸は恐れる様子もなく、丞をじっと見つめていた。

「捨て子にしては、なかなか可愛いじゃないか」

 軽い口調でそう言うと、玲熙はまるで自分のことを褒められたかのように嬉しそうにうなずいた。

「──そう思う? よかったね、おまえ。命の恩人が、おまえのこと、褒めてるよ」

 子犬に話しかけた声は微かに震えていた。

 子犬の頭を優しく撫でていた玲熙は、しばらくうつむいたままだった。

 長い濡れた黒髪がその横顔を隠し、丞にはどんな表情をしているのか判らなかった。

 しかしグラスを口に運んでいると、玲熙の白い繊細な手に、ぽたりと涙がこぼれ落ちるのが見えた。

 と、子犬がバスタオルの中で、急にもそもそと動き出す。

 小さな前肢で身体を起こした子犬は、玲熙を不思議そうに見上げ、小さな舌でその手をそっと舐めた。

 黒い潤んだような瞳が、じっと玲熙を見上げている。
 まるで時が止まったかのように、玲熙は動きを止めてしまっていた。

 子犬はぱたぱたと尻尾を振ると、丞の方に転げるようにして走り寄ってきた。

「お、何だ、おまえ。元気じゃないか」

 頭を撫でてやると、子犬はその手にじゃれつき、転げ回る。
 その無邪気な姿と生命力の強さに、丞は思わず笑ってしまった。

 丞と遊んでいる子犬を見つめ、玲熙は涙を指先でぬぐうと、ふわりと笑った。
 ブランデーの入った紅茶のせいなのか、心と体が暖まったような気がした。

 不意に琥珀色の眼差しに出会い、その優しく、穏やかな瞳にどきりとし、玲熙は自分の心の動きに戸惑った。

 ところが、いきなり飛びついてきた子犬が、ガジガジとバスローブの裾を囓りだしたのを見下ろし、玲熙は驚いて声を上げていた。

「あ、こら。おまえ、噛んじゃだめだよ」

 子犬をバスローブから引き離すと、今度は玲熙の指にじゃれかかってくる。
 そして可愛らしい前肢で指を押さえ込むと、また小さな牙を立てた。

「いたっ! もう、噛んじゃだめだって……」

 小さな牙と格闘している玲熙を見つめ、丞はくすくすと笑い出した。

「きっと腹が減っているだろ。ミルクでも持ってきてやるよ」

 立ち上がった丞は、無邪気に子犬と戯れる玲熙を見下ろし、気になることを訊ねた。

「玲熙、おまえ、この子犬をどうするつもりだ? 飼ってやれるのか?」

 はっと丞を見上げた玲熙は、美しい柳眉をひそめた。

「──飼えればいいんだけど、父が何と言うか。帰ったら、相談してみる」

 心配そうな玲熙の顔を見て、丞は軽く吐息をつき、肩をすくめた。

「じゃあ、飼えるかどうかが決まるまで、ここに預かっておいてやるよ。
 だから、そいつに早く名前を付けてやるんだな」

 その途端、玲熙は漆黒の瞳を見開いた。

「……名前?」

「じゃないと呼びにくいだろう? 
 俺が勝手に呼んで、それが定着したら困るからな。
 おまえが助けたんだから、おまえが名付け親になってやれ」

 玲熙は当惑したように子犬を見下ろしていたが、すぐに微笑んでうなずいた。

 暖めた牛乳を白い子犬の前に置くと、子犬は飛びつくようにぴちゃぴちゃと舐め始めた。

 その貪りつくような様子を見て、丞は思わず苦笑した。

「牛乳に溺れそうな勢いだな」

 玲熙は優しく微笑んでいたが、やがて唇から笑みが消え、悲しげな表情になった。

「酷いことをする人がいるね。
 この子には何の罪もないのに、どうしてあんな事ができるんだろう。
 いらないなら、貰い手を探せばよかったのに……」

「人の心には鬼が住むことがある。
 それを舞っているおまえは、誰よりも理解しているんじゃないのか?」

 玲熙の言葉にはまったく同感なのだが、丞はそう言うことができなかった。
 自分の心の底にどんな悪魔が住み着いているのかは判らないが、それが何かの拍子に現れないとは限らない。
 魔がさす、という言葉があるように。

 丞の言葉を聞いてうつむいてしまった玲熙を見つめ、丞はため息をついた。

「──ところで、玲熙。おまえ、どうしてあんな所にいたんだ?
 こいつが溺れているのを見つけたのは、まったく偶然だろう?」

 玲熙は丞を見つめると、ひっそりと悲しそうな微笑を浮かべた。

「川村先生が殺されたって聞いて……。
 また僕のせいで人が死んだのかなと思ったら、家にはいられなくなってね。
 父や晴熙兄さんは気にするなって言ってくれたけど、他の人は僕を怖がっているんだ。
 視線に耐えられなくなって、外に飛び出しちゃって──」

 ゆっくりとした口調で告白する玲熙の様子は、ひどく儚く、哀れに見えた。