Rosariel.com
舞の刻



<33>



「気にするなと言っても、おまえの性格じゃ無理そうだな」

 丞は小さくため息をついた。

「──いつも、僕に関わった人が死んでいく。
 それなのに、僕にはその原因が判らないし、何が起こっているのかさえ判らない。
 みんな、僕に関わらなければ、死ななかったはずなんだ……」

 淡々とした口調が、かえって玲熙の深い苦悩を伝えていた。
 どんなに考えても、悩んでも、答えが見つからない謎。
 玲熙の深い黒曜石のような瞳は、ありありと深い苦痛を表していた。

「心配するな、俺はとりあえず生き残っているからな。
 それに、今回は目撃者がいるんだろう?
 その人が『鬼を見た』って言っているようだし──」

 片膝を立て、その上で頬杖をついた丞は、考えを巡らせながら言葉を続けた。

「問題なのが、この『鬼』なんだがな。
 俺が見たのも確かに『鬼』だったはずなんだが、時間が経つと、やっぱり誰かが能面をつけていたんじゃないかって思えたりもする。
 ──荒唐無稽な話だからな、鬼なんてのは」

 丞が首をひねると、今まで不安そうな面持ちだった玲熙が、はっとするほど強い意志の秘められた漆黒の瞳で見返してきた。

「──ねえ、丞。
 確かに警察は能面を使った殺人事件だって思っているけど、僕はね、絶対にそうではないと思っているんだ。
 だって、能面をつけたまま人を殺すなんて、不可能なんだから」

 玲熙の言葉に、丞は琥珀の双眸を細め、凛とした美しい顔に視線を向けた。

「どういうことだ?」

「能面をつけるとね、ひどく視野が狭くなってしまうんだ。
 視界は闇に閉ざされ、光は小さな目の穴からしか入らない。
 見えるのは手元と、遠目にわずかな光景だけ。
 足下なんて全然見えないから、例えば障害物か何かが落ちていたら、簡単に躓いてしまうだろうね」

 玲熙はため息をもらし、まるで能舞台に立っていることを思い浮かべるように、顔から表情が消え失せた。

「熟達した演者でさえ、時として舞台から転げ落ちることさえある。
 だから僕たちは、演じる曲目に合わせて、何度も何度も舞い込んでいくんだよ。
 歩幅や歩数に注意を払い、能舞台にある柱の位置を確認しながら。

 視界を広くしようとして、たとえ能面を顔に密着させたとしても、今度は鼻や口が塞がれて息苦しくなってしまうだろう。

 それほどに、能面をつけて動くっいうのは難しいことなんだ。
 素人じゃ無理だし、能楽師であっても、闇の中で動くというのは不可能だ。
 特にそれが予測外の動作であればあるほどね。
 さらに能楽師であれば、神聖な面を悪用するなんて考えるはずもない。
 僕たちにとって、面は『神』にも等しい、神聖なものだからね」

 玲熙の説明を聞いていた丞は、感心したようにうなずいていた。

「なるほど、さすが専門家の意見だな。
 考えたこともなかったぞ、そんなことは」

 すると玲熙は少し寂しそうな微笑みを浮かべた。

「そうだね。普通の人は、あまり馴染みがないから仕方がないよ」

「──能面を使った殺人って可能性は低くなるということか?
 だが、もし、自分で目と鼻の穴を大きく削ったら、使うことは可能なのか?」

 丞の乱暴な意見を聞き、玲熙は信じられないとでも言いたげに大きく目を見開き、まじまじと丞を見つめた。

「だって、あれは封印しなければいけないほど大切な面で……」

 あたかも禁忌に触れてしまったというように、玲熙は呆然と呟いた。
 そして思い悩むように柳眉をひそめると、しばらくして躊躇いながらうなずいた。

「考えたくはないけど、多分ね。相当、面は崩れてしまうのだろうけど……。
 僕の方こそ、そんな事、考えてもみなかった。
 面を悪用するってことだけでもぞっとするのに、それを傷つけるなんて──」

 自分が傷つけられたかのように身を震わせた玲熙を見やり、丞は納得した。

 神を鎮める舞を舞うことを定められ、幼い頃から能面は何よりも神聖なのだと教えられてきたのだろう。
 誰かがそれを傷つけるなどと、疑うことすらできないほどに。

「誰もがおまえのように考えているわけじゃない。
 踏み絵と同じだ。
 十字架にかかったキリストを、踏める者もいれば、踏めない者もいる」

 崇めないものにとっては、能面も十字架もただのモノでしかありえない。

「──そうなんだね、きっと。
 でも、たとえそうだとしても、僕は盗まれた『真蛇』の面が無傷であることを願わずにはいられないんだ。
 僕にとっては、どの面も本当に大切なものだから……」

 ふわりと微笑んだ玲熙は、ミルクを飲んで満腹したのか、傍に寄ってきて丸くなった白い子犬の頭を撫でた。

(──疑いは人間にあり。天に偽りなきものを……)

 ふと丞の脳裏に、晴熙が言っていた言葉が蘇った。
 その言葉が重みを増し、ぞくりと背筋に戦慄が走る。

 舞を舞い、能面を神のごとくに崇めるなら、まさに玲熙は舞に選ばれた巫女であるのかもしれない。
 そして舞の巫女は、天女と同じく、清浄で無垢なる者。
 卑しき人間が傷つけ、汚してはならない、聖なる存在であった。

 しかし一方で、清冽な天人を傷つけ、地に堕とそうとする者が存在する。
 その美しさに恋い焦がれるあまり、天女を強引に妻とした漁夫のように。

 3年前に最初に殺されたという男、そして次の高校生、さらに今回殺されたクラスメイトたち──。

 そこに思い至った途端、丞の頭の中に、事件の輪郭が徐々に形作られていった。

 竜宮郷に居合わせた自分は、殺された渡辺たちと同じように、玲熙を汚そうとした人間であると、鬼に認識されたのだろうか。
 殺し損ねた人間を、今度こそ確実に葬るために、再び丞の前に現れたのかもしれない。

(──そういうことか。目撃者の口封じというよりは、俺は鬼の標的になっているらしい)

 そう考えるなら、何故「鬼」の姿を見たはずの大沢という人物が殺されなかったのかも説明がつく。

 川村は明らかに玲熙を傷つけた、そして殺された他の男たちもまた。
 しかし大沢は、玲熙には何の関わりも持っていないのだ。

 やはり「鬼」は、明確な意志と理性を持って殺戮を繰り返している。
 天女を、巫女を汚し、傷つけようとする者を、地上から抹殺するために──。

「──丞、どうかした? 気分が悪いなら、お水持ってこようか?」

 自分の思索に深くはまり込んでいた丞は、肩に触れた指先の感覚と、心配そうな玲熙の声で、現実に引き戻された。

 美しい漆黒の双眸を間近で見返してしまい、丞は宇宙の深淵に引き込まれるような感覚を覚え、瞬きもせずに玲熙の瞳をのぞき込んでいた。

 心の奥底で、不意に激しい感情が渦を巻いた。
 目の前にある美しい硝子細工を叩き壊したくなるような、凄まじいほどの破壊衝動。
 どす黒い蛇のように頭をもたげてきたその感情は、丞の心にぎりぎりと絡みついた。

 そして、頭の奥で、嘲笑うような声が聞こえてくる。

(──無垢なる者を陵辱し、その美貌が苦痛と恐怖に歪む様を見たい。
 それは人間の誰しもが持つ、心の闇だろう?)

 頭の裏側をざらりと舐めるような声は、ひどく優しく聞こえた。
 高らかに嘲笑しながら、罪を犯すことを促している。

 ふっと目眩を感じた丞は、それに耐えるように奥歯を噛みしめた。

 丞に見つめられた玲熙は、射すくめられたように動けなかった。
 琥珀色の瞳が、濡れた黄金のように輝き、それは獲物を前にした獣のような鋭さだった。

 不気味なほどの沈黙がその場を支配し、玲熙は初めて丞に畏れを抱いた。