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舞の刻



<34>



 己の意思と身体がばらばらになったような感覚が襲い、総毛立ち、吐き気を催しそうなほどの違和感が丞を苛んでいた。

 嘲笑する声は鈍い鐘を鳴らすように、途切れることなく頭の奥で響いている。

 しかしその一方で、頭の深い奥の片隅から、冷たく冴えた声が囁きかけてきた。

(──幻聴に惑わされるな。支配の拒絶を……)

 どうやってと自問したが、その声は突き放したように何も答えなかった。

 その時、突然丞の身体に白い子犬が飛びつき、「ワンッ!」と大きな声で鳴いた。

 驚愕し、誘惑者の声から意識がそれた瞬間、いきなり霧が晴れたかのように精神が解放され、身体がふっと楽になった。

 脱力しそうになるのをこらえながら、丞は軽く頭を振り、顔に向かって飛びついてくる子犬を片手で押さえた。

「……何だかよく判らないが、おまえのおかげで助かった」

 小さく口の中で呟いた丞は、激しく尻尾を振っている白い子犬の頭を撫でてやり、深くため息をついた。

 子犬を撫でている丞の瞳には、先ほどのような狂気じみた光はなかった。
 ほっと安堵した玲熙は、無邪気に跳ね回る子犬をじっと見つめ、胸の奥にわき起こった不安を必死で消そうとしていた。

 ふと顔を上げた玲熙は、テレビキャビネットの上に飾られた美しい写真立てを見つめた。

「──ねえ、丞、あれ、君のお母さんなの? ものすごく綺麗な人だね」

 胸にわだかまる不安をごまかすように、玲熙はそう訊ねていた。

 その写真立てには、2枚の写真が並べて飾ってあった。

 1枚は、若いカップルが微笑んでいるものだった。
 今よりさらに童顔の司と、金髪に琥珀色の瞳をした美しい女性。
 どこかの公園で撮影されたその写真の中に写る二人は、青々とした芝生の上に座り、肩を寄せ合いながら幸せそうに微笑んでいた。

 そしてもう1枚は、白いバレエ衣装を着て優雅なポーズを取る女性の写真だった。
 顔を優雅に傾げ、長いほっそりとした腕を交差させた姿は静寂に満ちている。
 伏し目がちの高貴な顔はしかし表情が乏しく、ひどく冷たい印象があった。

「ああ、母はユーリヤ・オルロフという名前のロシア人でね。
 彼女は才能のあるバレリーナだったそうだ。
 詳しくは教えてもらっていないが、二人はアメリカで出会い、一目で恋に落ちた。
 そしてどういう運命の悪戯なのか、駆け落ち同然に結婚してしまったそうだ」

 そこまで語り、丞は苦笑を浮かべた。

「……と、父さんは言っているが、どこまでが真相なのか謎でね。
 母が死んでいる以上、聞き出しようがないんだ。
 どう考えても父さんと、この人が結婚したというのが信じられないんだよな。
 まあ、現実に俺がここにいるんだから、事実なんだろうが」

 丞の言葉を聞いていた玲熙は、しばらく写真を眺めていたが、くすりと笑った。

「それほど謎じゃないと思うよ、僕は。
 だって、君のお父さんはすごく暖かそうな人だもの。
 公園の写真に写っているお母さん、すごく幸せそうな顔をしてる。
 もう一枚の方は踊っているせいもあるんだろうけど、何だか切羽詰まったような表情だもんね。
 きっと、丞のお母さんは、お父さんと一緒にいる時が、一番安心してくつろげたんだと思うけどな、僕は」

 玲熙はそう言い、飛びつき、手元でじゃれて転げ回る子犬をあやしながら、優しく微笑んで丞を見返した。

 今まで考えても見なかった事を聞かされた丞は、声を失っていたが、ややあって濡れて濃い金色にも見える髪を掻いた。

「まいったな、玲熙に母の気持ちを説明されるとは思わなかった。
 ──そう言えば、母の話で思い出したんだが、おまえに見てもらいたいものがあるんだ。
 母が持っていたという能面なんだが……」

 丞の言葉を聞き、玲熙は驚いたように目を見張った。

「能面? 丞のお母さんが、能面を持っていたの?」

「バレリーナなのに不思議だろう?
 父さんが言うには、バレエを踊りながら、能の勉強もしていたらしい」

 立ち上がった丞は、父親の部屋に置いてある桐箱を取りに行った。

「父さんが修復をしたいって言ってたんだが、どこに出していいのかも判らなかったからな。
 とりあえず、おまえなら詳しいと思って」

 桐製の面箱をテーブルに置き、丞は蓋を開けて玲熙の前に差し出した。

 穏やかに微笑んでいた玲熙は、面箱を見た瞬間表情を改めると、敬意を払うように恭しい手つきで面を取りだした。

 司が「増女」と言っていた女面を手に取り、見下ろした瞬間、玲熙の端整な美貌からすうっと表情が消えた。

「──これは、『雪の女神』だ……」

 まるで能面が乗り移ったかのように冷厳な面差しのまま、玲熙はふと顔を上げて丞を見つめた。

「これはね、丞、あの盗まれた真蛇の対として作られた面だよ。
 不思議だね、ずっと失われていたのに、またここに戻ってくるなんて」

 ふっとため息をもらした玲熙は、まるで語りかけるような眼差しで面を見下ろした。

「女神の専用面というのはほとんど無いんだけど、これはその貴重なものだよ。
 増女よりもさらに人間性が失われ、代わりに神性を帯びている。
 この面には、人間の憎しみや嫉妬といった醜い感情はないんだ。
 真蛇が負の感情が凝り固まり、鬼と化したものだから、まさに対極的存在なんだよ。

 だから、あの真蛇にこもった邪念を封じるのに、この女神が使われていたんだって。
 封印を施した蛇の面といつも見合わせるような位置に保管されていたらしい」

 玲熙の説明を聞き、丞は驚いたように目を見開いた。

「父さんが言うには、これは戦後、海外に流出したものらしいぞ。
 おまえの説明が正しければ、もともと隠岐宮家が所蔵していたってことか?」

「──戦後、沖月島もかなり荒れていたみたいだからね。
 重要な面が、その頃かなり盗まれたらしいし。
 どこをどう巡ったかなんて、もう誰にも判らなくなっていると思う」

 少し寂しそうに玲熙は微笑み、目が離せないといったように『女神』の面を見つめた。

「盗まれた蛇の面は、『邪の面』と言われていたほど曰くがあるものなんだ。
 それをつけて舞った能楽師が狂気に陥ったり、急に自殺したり、人殺しをしてでも蛇面を手に入れようとしたり……。

 その邪念に満ちた面を封じるために、同じ作者によってこの面は作られたそうだよ。
 これと共にある時は、『真蛇』も悪さができないんだって。
 でも女神がいなくなってしまったから、真蛇は幾重にも封印され、舞台でも使用されなくなったということだけどね」

 つくづくと面を見つめていた玲熙は、もとの穏やかな表情に戻り、にこりと微笑んだ。

「彩色が剥落したり、少しひび割れていたりするけど、状態としては良い方だと思う。
 ひどい修復をすると面の生命が絶たれてしまうから、これは僕に任せてくれる?
 これだけのものだから、時間をかけて丁寧に修復した方がいいと思うよ」

 玲熙に言葉を聞き、丞はうなずいた。

「俺には縁遠い世界だから、おまえに全部任せる。
 父さんもそう言っていたからな。
 だが、どうせうちでは誰も使わないし、もし父さんが許せば、神社に奉納してもいいか」

「──でも、お母さんの形見の品でしょう?」

「俺が見たのは、昨日が初めてなんだ。
 だからと言って、飾って置くのももったいないと思うし、置きっぱなしというのはもっと悪いような気がする。
 この面がもとあった場所に戻ってきたのも、何かの巡り合わせだろう?
 真蛇と対になっていたというなら、なおさらじゃないか?」

 広い肩をすくめて丞が答えると、玲熙は少し嬉しそうに微笑んだ。

「──うん、面のためには、ちゃんと管理していった方がいいと思う。
 でも、ちゃんとお父さんと相談してからにしなよ。
 お父さんはずっと、お母さんの代わりに大切にしてきたはずだからね」

 高き天空を舞う天女の、疑いを知らぬ、無垢なる微笑み──。

 玲熙の清麗な微笑を見返した丞は、ふと先ほどわき起こったどす黒い欲望を思い出し、内心で自嘲しながら、口許に苦笑を刻んでいた。