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舞の刻



<35>



「じゃあ、僕はそろそろ帰るよ。
 黙って出てきてしまったから、きっとみんな心配していると思うし。
 この面は、少し預からせてもらうね」

 司の洋服に着替えてきた玲熙が、身体を屈め、足下に走り寄ってきた子犬を撫でてやりながらそう言った。

「気を付けて帰れよ、マスコミが多分うろうろしているだろうからな。
 こいつは預かっておくから、飼えるようだったら言ってくれ」

 ぴょんぴょんと飛び跳ねている子犬をすくい上げ、肩に乗せた丞を見上げ、玲熙は明るく微笑んだが、ふと心配そうな表情になって首を傾げた。

「……でも、飼えないって言われたらどうしよう」

「ダメだったらうちで飼うことにする。
 犬一匹ぐらいは養えるし、番犬になって丁度良いんじゃないか?」

 丞の言葉を聞き、玲熙はうんとうなずいた。

 玲熙が口を開きかけた途端、突然、電話が鳴り始め、丞はそちらに視線を向けた。

「悪い、ちょっとこいつを見張っていてくれ」

 子犬を玲熙に手渡し、丞は電話機に歩み寄った。

「はい、峰月ですが……」

 受話器を取り上げて応じると、一瞬、沈黙の間があり、その後聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「──もしもし、僕は隠岐宮晴熙だが、そちらに玲熙はお邪魔しているだろうか?」

 いつも明朗闊達な晴熙の声が、なぜかこの時は非常に緊迫して聞こえてきた。

「晴熙さん? ええ、玲熙ならここにいますが。
 ちょうど今、そろそろ帰ろうかって話をしていたところですよ」

 驚きを隠して丞が答えると、受話器の向こう側で重いため息が聞こえた。

「ずいぶんと探していたんだよ、でも、無事なら良かった。
 融の所にも電話してみたんだがいないと言われたし、滝沢家にいなければ君の所かなと思ったんだ。
 玲熙が人に気を許すのは、とても珍しいことだからね」

 沈鬱な晴熙の言葉に首を傾げ、丞は玲熙の様子をうかがった。

 玲熙は晴熙という名前を聞いた途端に表情を消し、不審げに柳眉をひそめた。
 そして子犬を抱いたまま、足音を忍ばせるようにして近付いてきた。

「ちょっと待ってもらえますか、玲熙に代わります」

 丞がコードレスの受話器を玲熙に渡そうとした時、子犬がその受話器にじゃれついた。

「あっ、こら!」

 ガリガリと受話器を引っ掻き、慌てたように玲熙が引き離すと、案の定、不審そうな口振りで晴熙が訊ねてきた。

「──何の音?」

 笑い出しそうになるのをこらえながら、丞はできるだけ冷静に説明した。

「すみません、子犬を拾ったもので。
 どういうことなのかは、そのうち玲熙から説明があると思いますけどね」

 子犬を受け取り、代わりに受話器を渡した丞は、緊張気味の玲熙の顔を不思議そうに見つめながら、腕の中でもがく子犬の頭を軽く叩いた。

「……晴熙兄さん?」

 躊躇った末にそう問いかけた玲熙の声を聞き、受話器の向こう側から少し厳しい口調になった晴熙の声が響いてきた。

「玲熙、みんなで心配していたんだよ。
 要を迎えに行かせるから、早く帰ってくるんだ。
 ──さっき、お父さんが急に倒れたんだよ」

 晴熙の言葉を聞き、玲熙は瞳を大きく見開いた。

「……お父さんが?」

「医者は、おそらく過労だって言っているけど……。
 調子が悪くなるようなら、病院に入院させるかもしれない。
 だから、早く帰っておいで」

 耳を打つ晴熙の言葉にうなずきながら、玲熙は呆然と虚空を見つめていた。
 動揺しているためか、片手が口許まで上がり、その手はがくがくと震えていた。

 受話器を置いた玲熙は、表情を失った瞳で丞の顔を見返すと、次の瞬間、がくりと膝から床に崩れ落ちそうになった。

 とっさに片腕を伸ばし、丞は玲熙を背中から抱きとめた。
 暴れている子犬を離し、糸が切れた人形のように頽れた玲熙の身体を支えてやると、瞳を見開いたまま小さく玲熙が呟いた。

「──お父さんが、倒れたって……」

 神秘的な漆黒の瞳に涙が浮かび上がり、玲熙は驚愕した丞を見返した。

「お父さんがいなくなったら……僕は、どうすればいい?
 僕を無条件に認めていてくれたのは、お父さんだけだったのに──」

 切羽詰まったような玲熙の言葉に、丞は不審を感じ、わき起こった疑問を口にしていた。

「おまえには、晴熙さんもついているだろう?」

 丞の顔を見返し、玲熙はゆっくりとかぶりを振った。

「──兄さんは僕を憎んでる…僕が、父や母を奪ってしまったから……」

 かすれた声でそう言い、玲熙は唇を噛みしめた。

「前に、言われたんだ。『おまえなど生まれてこなければ良かった』 って。
 いつもは優しいのに、時々、怖い目で僕を見てる。
 その目が、僕は怖くてたまらなかった。
 父が死んだら、晴熙兄さんは、きっと僕を許さない──」

 玲熙の瞳がそれを思い出したように揺れ、助けを求めるように丞の腕をつかんだ。

「玲熙、落ち着け。まだお父さんが死んだってわけじゃないだろう?」

 混乱し、パニックに陥っている玲熙の細い肩をつかみ、丞はその瞳をのぞき込んだ。

 琥珀の双眸を見返した玲熙は、その瞬間、漆黒の瞳を大きく見開き、何かに憑かれたような表情で丞の顔に指先を伸ばした。

「──いつの日か取り残されてしまう……それが、一番、怖かった──。
 愛する人に置いて逝かれた深い悲しみが、なぜか僕の心に深く刻み込まれてる。
 失ってしまえば二度と出会うことは叶わないのだと、誰かがいつも泣いているんだ。
 舞を舞っている時だけ、その魂が癒され、僕は悲しみの呪縛から解き放たれた。
 あの人は誰……何を求めているというの?
 僕は──それを見極めなければ……」

 胸を掻きむしられるほどに悲痛な声を漏らした玲熙は、不意に吸い込まれそうなほどに深い瞳で丞を見つめると、頬に触れていた指先で唇をたどった。

「──ここは神聖なる地であったというのに……浄化することができないまま…穢されていく……。
 その血に狂い…求めた者が──さらなる恐怖と穢れをもたらした……」

 突然、表情の消えた神懸かった美貌が、凍てついた月のように厳かな言葉を淡々と紡ぎだした。 

 しかし謎めいた言葉はすぐに途切れ、その漆黒の瞳が閉ざされると、玲熙の腕がぱたりと落ちて全身から力が抜ける。

 その身体を支えながら、抱き寄せるようにして床に座らせた丞は、重々しくため息をついた。

 すると、突然の異変を心配したのか、白い子犬がとことこと近付いてきた。
 投げ出されている白い手の匂いをかぎ、まるで慰めようとするように優しく舐める。

 しかし反応がまるでないと、子犬は不安そうに鼻を鳴らし、丞を見上げた。

「大丈夫だ、意識を失っただけだから……」

 近付いてきた子犬の頭を、丞は撫でてやった。

 白い瞼が閉ざされた玲熙の目から、一粒の涙がこぼれ落ちた。
 そして後から涙がさらに溢れだし、白磁の頬を伝い落ちていく。

 悲しみの道筋を作り出す涙を見つめていた丞は、大きくため息をもらし、華奢な身体を胸の中に抱き寄せた。

「──玲熙、おまえ、いったい何を抱え込んでいるんだ?」

 ただ父親の死を恐れるにしては極端な反応に、丞は理解しえない玲熙の深い苦悩と、底知れない神秘性を垣間見たような気がしていた。