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舞の刻



<36>



 それからしばらくして、沖守要が姿を現した。

 誠実そうな印象を与えるスーツをまとった要は丁寧に頭を下げると、気を失っている玲熙の身体を丞から受け取った。

「──さっき、晴熙さんから電話があった後、急に意識を失ったんです。
 それまでは特に変わった様子はなかったんですが……」

 双眸を細めて美しい玲熙の顔を見下ろしていた要は、丞の顔を見返し、何もかも判っているというような表情でうなずいた。

「この人は、普通の人に比べて神経過敏なところがあるのです。
 巫女として生まれた宿命とでも言えるのか──。
 あまり悩みをうち明けるような人ではありませんから、すぐに思い詰めてしまう。
 何もかもが自分のせいなのだと、そう思っているのでしょうね」

 おそらく玲熙が目覚めていたら決して見せないであろう温かい眼差しを向け、要は嘆息を漏らした。

 そして今やっと気づいたというように、丞の足下にまとわりつき、キュンキュンと鼻を鳴らしている子犬に視線を落とした。

「こいつが海に流されていて、玲熙が助けに行ったんです。
 俺は偶然、それを見つけたわけですが」

 苦笑を漏らした丞は、少し驚いているような要に簡潔に事情を説明した。

 要は、丞の足下でじゃれ回っている子犬を見つめ、静かに微笑んだ。

「玲熙さんらしいですね。君にもご迷惑をおかけしました」

「迷惑ってほどではないですけどね。それより、これも持って帰ってもらえませんか?」

 丞は靴箱の上に置いてあった桐箱を取り上げた。

「──それは?」

 少し訝しげに問い返した要に、丞は軽く首を傾げて見せた。

「能面です。玲熙が言うには『雪の女神』という名がついているらしい」

 丞の言葉は、要に劇的な衝撃を与えたようであった。

 常に冷静沈着な男の端正な顔に動揺が走り、要は愕然としたように丞を見返した。

「少し待っていていただけますか?」

 要はそう言い置いて踵を返すと、峰月家の門の前に停めてあったベンツへと戻った。
 そしてぐったりと意識を失った玲熙を、車の後部座席にゆっくりと横たえる。

「どうして『雪の女神』がこちらにあるのですか?」

 玲熙と同じように丁寧な手つきで能面を改めた要は、弁護士ならではの詰問口調でそう訊ねた。

「俺も詳しい事は知らないんですが、昔、死んだ母が海外で手に入れたみたいですね。
 父が保管していたんですが、そんなに由緒あるものだとは知らなかったんじゃないかな」

「……峰月司氏が?」

 そう言った要は、思わず口にしてしまった事を自戒するように、すっと柳眉を寄せた。
 その表情に不審を感じ、丞は重ねるように質問していた。

「要さんは、父をご存じなんですか?」

 丞の問いに、要は内心の動揺を綺麗に押し隠した表情でうなずいて見せた。

「ええ、まだお会いしたことはありませんが。
 狭い島ですから、転居してきた人の噂はすぐに広がるんですよ」

 当たり障りのない答えだったが、丞は直感的にうまくごまかされたことを悟り、さらに問いつめようと口を開きかけた。

 しかしまさにその時、不躾なほど大きな音で電話が鳴りだし、丞は顔をしかめた。

 電話機は、玄関から続く階段のすぐ下に置いてあったため、そのまま無視して話を続けるには支障があるほど、騒々しい音を立てていた。

「すみません、ちょっと失礼します」

 要に断りをいれ、丞が催促するように鳴り続ける電話を取ると、途端に、耳に響く声が飛び出してきた。

「──もしもしぃ? あ、タスク? あたしだけど、元気にしてたぁ?
 あんたってば一度も電話してこないんだもん、あまりに薄情じゃなあい?」

 済んだ、よく通る声だけに、大声で話されると耳をつんざくような騒音に聞こえる。
 顔をしかめた丞は、15センチばかり耳元から受話器を離し、不機嫌な声で応対した。

「……冴夜子(サヤコ)か。頼むからもう少し静かに話してくれ」

「えーっ! いいじゃないの、別に。それより、元気だったの?」

 鳴り響くような声はおそらく筒抜けだろう。
 そう思い、ちらりと横目で要を見ると、彼は我関せずといった無表情で、じっくりと能面を眺めていた。

 内心で舌打ちした丞は、さらに低い声で答えた。

「ああ。それより、今、来客中だ。また後で電話する」

「──またまたぁ……さては女の子連れ込んでるでしょ。
 だめよ、素人に手を出しちゃあ。
 何人、女を泣かせれば気が済むわけ?
 あんたの場合、普通の女子高生じゃあ太刀打ちできないんだからね。
 それをちゃんと弁えなさい──司ちゃんに言いつけるわよ」

 機関銃のように喋られては、言い返す隙さえない。
 思わず受話器を握りしめた丞は、地獄の底から響くような声で低く恫喝した。

「それ以上喋ったら、今度、その首をねじ切るぞ。それで、何の用なんだ?」

「おお怖い。はいはい、判りましたよ。それはそうと司ちゃんいる?」

「緊急会議らしくて東京に出張だ。そっちにいるんじゃないのか?
 2、3日はこっちに帰らないはずだぞ」

 不機嫌極まりない声にも動じず、冴夜子はあっけらかんと話を続けた。

「あっそう。でも変ね。
 あたしがお母様に電話した時、そんな事全然言っていなかったけど。
 ──まあいいわ。
 それより、あたし、今、出雲にいんの。今夜、そっちに泊めてくれないかな?」

 冴夜子の突然の言葉に、丞は要がいるのも忘れ、思わず聞き返していた。

「出雲? まさか本当に来る気か?」

「そうよ、嬉しいでしょ。じゃあ、今夜そっちに行くから。
 出迎えはいらないわ、車だからね。
 それじゃあ、また後でねえ〜」

 ガシャンと一方的に切れた受話器を見つめ、丞は一瞬呆然としていた。
 しかし思考回路が周り出すと、途端に怒りに駆られる。

「──ったく、あのバカ女! どこまで人騒がせな奴なんだ、あいつは」

 十分に押さえた声であったが、丞の怒りは傍にいた子犬を怯えさせるには十分過ぎるほとであった。

 ヒュンヒュンと情け無そうな鼻声を出した子犬を見下ろし、丞は思わず額を押さえていた。

「すみません、お騒がせしました」

 気を取り直して振り返ると、そんな丞を哀れむように要は微笑み、慎重な手つきで桐箱を捧げ持つように持ち上げた。

「いえ、お気になさらずに。それより、この面は確かにお預かりいたします。
 詳しいお話は玲熙さんから伺いますので、お任せください」

 父親について質問する機会を完全に逸し、丞は内心で大きなため息をもらしていた。

「お願いします。
 ──要さん、玲熙のお父さんの様態はどうなんですか?
 玲熙が……ひどく心配しているようでしたから──」

 立ち入るべきではないと思いつつ、丞は躊躇った末にそう訊ねていた。

 要は人を圧するような怜悧な瞳で丞を見返すと、逡巡するように視線を伏せた。