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舞の刻



<39>



 目を開けて見えたのは、底知れぬ暗い闇だった。
 どんなに目を凝らしてみても、そこにはただ暗黒だけがあった。

 どこからか、水滴の落ちる音が聞こえてくる。

 規則正しく、静かに響いてくる音は、闇に包まれて不安に苛まれていた玲熙の心を、さらに恐れさせ、戦かせた。

 だが、音が聞こえてくるなら、自分はまだ生きているのだ。
 そう自分を納得させると、玲熙はほっと息を吐いた。

 ゆっくりと指先に神経を集め、動かしてみると、意思に従って指は動いた。

 仰臥の形で横たわっていた玲熙は、身体に力を込め、上半身を起こしてみた。
 しかし両腕が奇妙なほど重く感じられる。

 闇の中で軽く腕を振ってみた玲熙は、ジャラリと鎖の鳴る音を聞いたのだった。

 何があったのかを必死で思い起こそうとし、玲熙は頭を軽く振った。

 昨日、気を失ってしまい、気がついたら自室に寝かされていた。

 そして、父親が倒れたという事を思い出し、寝室を訪れたのだった。

「──玲熙、この島には…隠岐宮家には、おまえの知らない秘密がある。
 もし、私や、晴熙がいなくなったその時には、おまえが一族を統べなければならない。
 もっと早く──おまえにも話しておくべきだった」

 枕元に座った玲熙に、父は辛く、悲しそうな視線を向けてきていた。

 その言葉に混乱し、さらにその先を聞こうとした時、突然、父の口から真っ赤な血がこぼれ落ちた。
 そしてそのまま意識を失い、父は病院に運ばれたのだった。

 取り乱し、パニックに陥っていたため、それから何がどうなったのかはよく覚えていない。

 そして今朝、夜が明け切らぬほどに早く目覚めてしまったことは覚えている。

 何かに引き寄せられるように屋敷の廊下を歩いていた玲熙は、庭に植えられた満開の古桜の下で、この世ならざる存在を見つけていた。

 闇を溶かし込んだような漆黒の狩衣を纏い、長い髪を振り乱した──鬼。

 そして、その顔には、盗まれたはずの真蛇の面。
 何よりも禍々しく、邪悪な表情の『邪の面』を、見間違うはずはなかった。

 鬼は玲熙をじっと見つめ、そして誘うようにゆっくりと手招きをした。


 その時、暗闇の中に炎が灯った。

 それは瞬く間に数を増やし、あまりの眩しさに目を背けていた玲熙は、その見たことのない景色に愕然とした。

 幾つもの篝火に照らされた空間は、どうやら自然の鍾乳洞らしかった。
 先日、丞と共に迷い込んだ洞窟によく似ている。
 しかし遙かに規模が大きく、見通せぬほど高い所に天井はあるようだった。

 不思議な景観を形作る洞窟を見上げていた玲熙は、ふと己を見下ろすと、自分が朝着ていた服のまま、黄金に輝く祭壇の上に寝かされていたことにようやく気づいた。
 そして両手首には美しい彫刻がほどこされた、しかし頑丈な鉄枷が嵌められている。

「……ここは、どこ?」

 思わず漏らした声が、驚くほど大きく静謐な洞窟の中に反響した。

 自分の声に驚いていた玲熙は、篝火の炎がふっと揺れた事に気づいた。
 そして、その陰から音もなく現れた人物を見て、驚愕に身体を強ばらせた。

「──晴熙兄さん」

「まだおはようと言ったほうがいいかな。
 思ったよりもよく眠っていたね、玲熙」

 晴熙は、いつもと変わらぬ優しい微笑を浮かべながらそう言った。

 兄は漆黒の狩衣を纏っており、その姿に玲熙は愕然とした。
 そして、微かに嘲弄を含んだ言葉に不審を覚え、柳眉をひそめる。

 その表情を見て晴熙はくつくつと笑い、音も立てずに歩み寄ってきた。

「ここはね、隠岐宮家に伝わる神殿のような場所だ。
 上の神社は、ただの目くらましにすぎない。
 隠岐宮家にとって本当に神聖な場所は、この地下の祭壇というわけだ」

 晴熙は玲熙のすぐ前に立つと、驚愕に目を見開いている美貌をじっと見つめた。

 その視線を呆然と見返していた玲熙は、晴熙の瞳が深紅に光ったのを見とった。
 その途端、頭の芯が揺れるような気分に襲われる。

 気持ちが悪いというのに、視線を逸らすことも、瞬きすることもできない。
 玲熙の意識と肉体の自由は、晴熙の邪眼に絡め取られていた。

 晴熙は片手をすっと上げると、硬直している玲熙の頬を優しく撫でた。

「おまえが寝ていたその祭壇は、かつて生贄を捧げるために作られたものだ。
 血を啜った黄金が、美しく輝いているだろう?」

「──生贄? いったい、何を……」

 辛うじて声だけは出せた玲熙は、妖しい光を放つ晴熙の目を見つめるしかなかった。

 晴熙は玲熙の顔から目を逸らさず、残忍な微笑を浮かべた。

 はっとするほど秀麗な顔だけに、それは酷く邪悪な表情に見えた。

 ──あたかも、計り知れないほどの憎悪を秘めた、封じられていた『真蛇』の面。

 揺れる篝火のせいで、その印象はさらに深まった。

「お父さんは、おまえには何も知らせていなかった。
 一族の事も何も知らずに育ってきて、果たしてそれが幸運だったのか、不幸だったのかは謎だけれどね。
 だが、一族が望んでいた巫女を、お父さんは見事に作り上げたというわけだ」

 玲熙は目を見開いたまま、晴熙の恐ろしい顔を見つめていた。

 何を言われているのかが判らない。
 いったい自分は、父親から何を知らされていなかったというのだろう。

「……巫女?」

「そう、おまえは巫女だ。我が一族の大切な、本当に貴重な巫女なんだよ。
 巫女の役目は、神を受け入れ、神託を下し、そしてこの島を浄化すること。
 男でも女でもない、あるいはその両性であるものが最も望ましい。
 隠岐宮家の祖先である、最初の巫女にも似た神の依代。
 それは、おまえのことだろう、玲熙?」

 呆然としている玲熙の顔を、晴熙は優しく撫でた。

 その声はひどく優しく、愛を囁く時の声にも似て、その手は恋人を愛撫するかのようだった。

 衝撃を受けた玲熙は、身体ががたがたと震えだしたのを他人事のように感じていた。

 今はただ、兄の、晴熙の視線から逃れたい。
 その冷たい、蛇のように赤く燃え立つ眼差しから逃れられるなら、再び意識を失っても構わなかった。

 玲熙の胸の裡が聞こえたのか、晴熙は不穏な微笑を浮かべた。

「もう逃げられないぞ、玲熙。
 僕がこの時をどれほど待ち焦がれていたか、おまえには判らないだろう?
 おまえがこの世に生まれ出た時、僕は家族を失った。
 おまえが憎くて仕方がなかったよ、おまえさえ生まれてこなければと何度願ったことか。
 だけどおまえは、育っていくほど、お母さんにそっくりになった」

 はっと目を見開いた玲熙を見つめ、晴熙は嬲るように言葉を継いだ。

「奪われたものは取り戻せばいい。
 美しい玲熙──僕は、おまえを手に入れることを待ち望んでいた。
 そんな時、『邪の面』が僕に力を与え、封じられていた古の血を呼び覚ましたんだ」

 くつくつと笑いながら、晴熙はさも嬉しそうに玲熙を見つめた。

 そして、小刻みに震えている唇をゆっくりと指でなぞり、己の唇を重ねた。

 身動きもできずに兄の口づけを受け入れていた玲熙は、目尻から涙が流れ落ちてゆくのを悪夢のように感じていた。

 呼吸することもままならず、力強い腕で絡め取られた身体は、人形のようにぴくりとも動かなかった。
 苦しいと感じることだけが、生きている証拠のような気さえする。

 玲熙は背筋を這い上ってくるようなおぞましさを感じ、精一杯抗おうとした。

 ささやかな抵抗を事も無げに封じ込んだ晴熙は、獲物を前にした肉食獣の微笑みを浮かべ、一度己の腕から玲熙を解放した。