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舞の刻



<40>



「時間はある。誰も僕たちを邪魔することはできないんだから──要ですらも。
 ゆっくりとおまえを味わってやるよ。
 その身体も、血も、声も……全てね。
 嫌なら抵抗しても構わない。
 だけど、僕からは逃げることはできないけれどね」

 淡々とした言葉が恐怖を煽り、玲熙はその言葉が意味する禁忌に戦慄を覚えた。

「──どうして? 何故、兄さんがこんな事を……?」

「おまえを愛しているからだ。
 憎みもし、恨みもしたが……それでも最愛の弟であることには変わりない。
 僕はおまえしか残されていないというのに、おまえは他の男に惹かれはじめている。
 そんなことは、絶対に許せないと思った」

 玲熙の痛切な疑問に、晴熙は優しく残酷な微笑を浮かべたままそう答えた。

 そして、言い終えた瞬間、晴熙の双眸が光を発した。

 血のように赤い閃光が洞窟を染め抜き、玲熙にも襲いかかる。

 目を閉じることさえできず、玲熙はその恐るべき光景を見つめていた。

「……まさか、鬼?」

 深紅と闇の混ざり合う光の中で、晴熙がその姿を変えようとしていた。

 漆黒の髪は血の赤みを帯びた禍々しい色に変色し、数万の蛇のように怪しくのたうちながら長く伸びてゆく。

 その瞳は深紅に変わり、その奥には地獄の業火にも似た妖火がゆらゆらと揺れていた。

 そして髪の生え際の額には、血を啜った黄金という表現が似つかわしい、鬱金色の二本の角が生えていた。

 晴熙の変容を見つめていた玲熙は、恐怖の中で、ぼんやりと黒頭で舞う『道成寺』を思い出していた。

 ──ひかねどこの鐘躍るとぞみえし……あれみよ、蛇体はあらはれたり──

 黒煙を上げ、落ちた巨鐘が上がると、そこに美しい白拍子の姿はなく、恐ろしい怨念の化身である蛇身が姿を現す。

 叶わぬ恋の執念に捕らわれた清姫は、ついには邪悪な蛇へと変化したのだ。

 閃光が消え失せた闇の中で、まさしく鬼と化した晴熙が艶然と笑っていた。

 秀麗な容貌は損なわれていない。
 それどころか、前よりもさらに研ぎ澄まされた美しさが増したような気さえする。

 しかし、その身から漂う邪悪な妖気が、まるで毒のように晴熙を包み込んでいた。

「隠岐宮家の一族には、鬼の血が流れている。
 それが覚醒するかどうかは、まさしく運次第なんだよ。
 かつて吉野から落ちのびてきた鬼の一族が、この島に隠れ住み、その血を絶やさぬように人と交わりながら生きてきた。
 古の血が濃く出たものは、本来の姿に立ち戻ることができる。
 ただし血は薄れてしまい、その存在が出現するのは極めて稀となっていたそうだ」

 姿は変わっても、その声は変わらない。

 淡く微笑を浮かべた晴熙は、鋭い爪のある指で、玲熙の顎を持ち上げた。

 触れられた瞬間、玲熙は凄まじいほどの毒気に当てられ、血の気が顔から引いていくのを感じた。

「僕も、最初はただの伝説だと思っていた。
 お父さんや要たちは信じているようだったけど、馬鹿馬鹿しいことだと思っていたんだ。
 だけど、封印されていた『蛇の面』に触れた瞬間、僕はそれが真実であると気づいた。
 思えば昔から、あの面は僕に語りかけてきていたんだけどね」

 くつくつと嬉しげに笑いながら、晴熙は突然、宙に『真蛇』の面を呼び出して見せた。

「これは、僕に言ったよ、自分の望みを叶えろと。
 おまえにも、僕と同じ血が流れているんだ、玲熙。
 人を殺め、支配することのできる、素晴らしい力を持った存在になれるかもしれない。
 おまえが覚醒すれば、僕はおまえと交わり、新たな鬼の一族を作り出す。
 こんな狭い島に隠れ住まなくとも、いずれは世界をも支配できるだろう。
 いったい誰が、神に近い僕たちを止めることができる?」

 兄の言葉に心底驚愕した玲熙は、心臓をつかみとられ、じわじわと握りつぶされていくような恐怖を感じた。

「──そんなのは……神じゃない」

 かすれた声で抵抗した玲熙を見返し、鬼は嘲るように首を傾げた。

「この神社には鬼の首が奉られている──当主だけが見ることができるそうだが。
 だが、僕は見たよ、確かにそこにあったのだから。
 かつて一族を統べ、森羅万象を操ったという鬼神の首をね。

 だが、かの神はもはや力を失った。
 新たなる神として、僕が一族を支配して何が悪い?
 僕は当主として君臨し……そしておまえの神となる。
 神の言葉を聞き、その言葉を皆に告げ、受け入れるんだ、玲熙。
 それが巫女であるおまえに課せられた、大切な役目なのだからね」

 長い爪がゆっくりと首筋をなぞっていく。

 触れられたその部分から、邪悪なる妖気が忍び込んでくるような気がして、玲熙は必死で身をよじった。

 おぞましさは先ほどの比ではない。
 爪の先が触れただけでも、これだけ苦しいのだから。

 逃れようとする玲熙を、晴熙は鮮やかな嘲笑を浮かべたまま見つめていた。

 そして腕を伸ばして顎をつかむと、鋭い牙の生えた口で玲熙の唇を塞ぐ。

 鬼の息吹が吹き込まれ、味わうようにねっとりと舌が絡みついた。 

 その瞬間、強張っていた玲熙の身体から力が奪われ、金縛りにあったようにぐったりと抱かれるままとなった。

「──いい子だ、玲熙。大人しくしていれば、優しくしてやるよ」

 喉の奥で笑い、耳の傍で優しく、淫蕩な声で囁きかけた晴熙は、玲熙の着ていたシャツを難なく引き裂いた。

 そして、甘い血の芳香を味わうかのように、首筋から心臓にかけて唇を這わせながら、弟の身体をゆっくりと黄金の祭壇に押し倒していった。


 隠岐宮家の正門の前に立った時、丞は滝沢家を見た時とは比べようがないほどの衝撃を受けた。

 竜海山の麓にある門から続くなだらかな坂を上って、ようやく頂上に達して見たのは、麓の門が裏門にしか見えないほどどっしりした見事な門構えであった。

 屋敷の門というより、ほとんど城門に近い。

 この日本に、まだこれほどの館が存在したのかと不思議な感動を覚えた丞は、すぐにその思いを振り払った。

──さて、どうやって乗り込むかな。

 玲熙を捜す前にその実家を把握しなければと思って来てみたのはいいが、とてもではないが気安く入れそうな雰囲気ではなかった。

 城門は固く閉ざされており、簡単に開きそうな気配はない。

 丞が周囲を観察しようと見回した時、胸の中から白い塊が飛び出した。

「あ、こら、ナナシ」

 便宜上、白い子犬に勝手に名前をつけていた丞は、そのナナシが門の前できゃんきゃんと吠えだしたのを見て、慌てて子犬を抱き上げた。

 と、その時、大きな門の横にある通用門が開き、中から赤茶色の頭が飛び出した。

「……あっ、丞! どうしたんだよ、こんな所で」

 通用門から姿を現した融は、ジーンズにパーカーといういかにも不似合いな格好で、丞の前まで歩いてきた。

「玲熙がいなくなったって聞いてな。
 昨日、玲熙の父親が倒れたって聞いたし──」

「ああ、玲熙が帰ってきた後、すごい発作を起こして、結局病院に入院になったんだって。
 うちの親父も大慌てだったぜ。
 川村先生が殺されたって話を聞いた時より、泡食ってたもんな。
 そんな最中に玲熙がいなくなったんで、もう大わらわって感じ。
 年寄り組は玲熙の親父さんの方、要さんを筆頭とする若者組は玲熙捜しってわけよ」

 融は両手を上げ、やれやれと首を振った。