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舞の刻



<43>



 丞が晴熙の部屋に入っていた後、子犬を抱いた融はそっとその場から離れた。

 離れの棟と母屋の境になっている木戸を閉めた融は、ほっとため息をつくと、その場にずるずると座り込んだ。

「何だかなぁ、妙に疲れちゃったんだよねえ」

 ぼそりと独り言を呟いた時、腕の中から子犬が飛び出し、すとんと廊下に飛び降りた。
 あっと思った瞬間には、コロコロと転がるような足取りで、中庭に飛び出して行く。

「こらっ! 待てよ、おい!!」

 融の呼び声もきかず、子犬は無邪気に池の側を走り回っている。
 池に落ちたら大変だと思った融は、スリッパであることも忘れ、中庭に走り降りた。

「待てよ、ナナシ! ったく、丞の奴、もう少しマシな名前を考えりゃいいのに」

 子犬の名前を呼びながら恥ずかしくなった融は、ぶつぶつと不平を漏らした。

 子犬は池に掛かった石橋の上で、興味深そうに錦鯉を見下ろしていた。

 それを捕まえようとした融は、するりと逃げ出され、危うく自分が池に転落しそうになる。
 一方の子犬は、遊んでもらっているとでも思っているのか、激しく尻尾を振りながら、融の周りをぐるぐると走り回った。

「こら、ナナシ! ここで遊んでいたら、怖い人に怒られるぞ!」

 走り回るナナシを危うく踏みつけそうになり、片足立ちになった融は、無邪気な子犬を地面からすくい上げようとした。
 ところが、またも手をかわされ、逃げ出される。

「……もう怒ったぞ。こらあっ、待てったら」

 ゴム鞠のように走っていく子犬を追いかけ始めた融は、静寂に満ちていた美しい庭園には似つかわしくない声を上げた。

 子犬は木々の間をすり抜け、融と玲熙が畏怖を覚えていた桜の木の下まで走っていく。
 思わず怯んで融が立ち止まると、子犬は尻尾を振りながら、巨木の根元に座り込んだ。

「おい、マジかよ」

 顔を引きつらせた融は、悪気はまったく無い子犬を見つめた。
 くりくりとした黒い瞳を輝かせ、小さなピンク色の舌を出して首を傾げている様は、何とも愛らしい。

 ぱたぱたと尻尾を振りながら、ナナシは融をじっと待っていた。

「ほら、こっちに来い。遊んでやるから」

 融は顔を引きつらせたまま、地面に座り込み、軽く手を叩いた。

 しかしナナシは、不思議なものでも見るように首を傾げたまま、ぱたぱたと尻尾を振り続けていた。

「おい、頼むよ。良い子だから、こっちにおいで」

 優しい声で呼びかけ、手を叩く。
 しかし子犬は、ワンッと吠え、遊びを誘うかのように千切れんばかりに尻尾を振りだした。

「──だからぁ、俺は、その桜は苦手なんだってば」

 がっくりと頭を垂れた融は、哀願するような声を上げたが、子犬に通じるはずもなかった。 大きくため息を吐いた融は、立ち上がると、意を決したように歩き出した。

 一歩前に進むたびに、桜の迫力が増すような気がする。

 頭の中で「ただの桜だ、何も怖くないぞ」とひたすら念じつつ、融はゆっくりと子犬に近づいていった。

 融が動き出したのを見て、ナナシは喜びのあまり、桜の樹の周囲をぐるぐると走り回る。
 そして融の反対側に駆け込むと、興奮が極まったのか、隠岐宮家の神木とされている桜の根元を勇んで掘り返し始めたのだった。

「あっ、バカ! やめろって──こら!」

 目を剥いた融は、恐怖も忘れて慌てて走り寄ると、小さな前脚で必死に地面を引っ掻いている子犬を抱き上げた。

「『ここ掘れ、ワンワン』じゃないんだからさあ。
 あ〜あ、こんなにしちまってどうするんだよ」

 掻きむしられた地面を見下ろし、ため息をついた融は、恐る恐るその場に屈み込んだ。
 膝の上に子犬を載せ、桜の木に手を合わせる。

「申し訳ありませんでした。
 ちゃんと元に戻しますので、どうか祟るのだけは止めにしてください」

 迷信の塊のような家に生まれ育っていたため、反動なのか学校では無神論を唱えている融も、神妙な態度で掘り返された土を戻し始めた。

 ところが、それをまたもや勘違いしたのか、融の膝の上からナナシが飛び降り、土を掛けたばかりの所を、再び一生懸命掘り出した。

 焦った融が抱き上げると、じたばたと暴れる。
 その拍子に、子犬の前脚についていた土が、融の顔に飛び散った。

「うわっ! いってえ、目に入ったじゃないか」

 手を離した途端、子犬は地面を掘り返し始める。
 しかし目の中に土が入った融は、その痛みのために押さえることができなかった。

 ぼろぼろとこぼれてくる涙を手の甲でこすったが、ちかちかと痛む目はしばらく曇ったままだった。

 それでもようやく視界が戻った融は、必死で地面を掘っている子犬を睨んだ。

「このバカ犬! やめろって言っただろ」

 さすがに怒った融は、ぱしっと子犬の尻を叩いた。
 ナナシは驚いたように融の顔を見上げ、さすがに怒っていることを察したのか、うなだれて鼻を鳴らした。

 ようやく子犬の行動を止めることに成功した融は、ナナシを膝の上に抱え、もう一度丁寧に土を戻し始めた。

「いいか、おとなしくしてろよ。
 今度逃げたら、またお仕置きだからな」

 片方の手で子犬の頭を軽く叩き、融はそう命じた。

「まったく、丞も何でこいつを連れてきたんだか。
 ……ん? 何だ、これ?」

 ぶつぶつと不平を言いながら、桜の根に土をかけていた融は、桜の根の間からのぞいているものを見つめ、思わず手を止めた。

 それは、鉄の破片のようにも見えた。

「──誰かがゴミでも捨てたのか? まったく、なんて罰当たりな……」

 まるで年寄りのような言葉を吐いた融は、その鉄の破片を取り除くべく、根元の土を今度は自分で掘り返した。

 しかいそれはなかなか全体を現さず、手を真っ黒にした融は、大きく嘆息した。

「これじゃ埒があかないな。おい、ナナシ、ちょっと待ってろよ」

 膝の上から子犬を降ろした融は、中腰になると、その破片をつかんだ。
 そして渾身の力を込めて引っ張る。

「──ううっ……せえのっ!」

 呻き声を上げながらそれを引っ張った融は、途端に反発力が軽減したのを感じ、最後の力を込めた。

 その途端、ズボッという音と共に、根元の土が飛び散り、中から丸い鉄の塊が飛び出してきた。

「……ふう。やれやれ。さて、何ですかな、これは?」

 融の頭の中からは、「桜の祟り」という言葉は綺麗さっぱり消え失せていた。

 直径15センチくらいの円盤を見て、融は首を傾げ、こびりついていた土を擦り落とした。
 すると、何か装飾のような模様が見えてくる。

 半面を綺麗にしてみると、確かにそこには唐草模様のような浮き彫りが施されていた。

 首を傾げた融は、もう反面を擦り出す。
 すると、片側よりも簡単に土がとれた。
 しかし模様などは一切無く、滑らかな平面でしかなかった。

「何じゃ、こりゃ? ……鍋蓋かね、これは?」

 目の前にかざして見ても、融には、この円盤が何なのかがよく判らなかった。