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舞の刻



<47>



 晴熙は冷淡でありながら、喜悦を含んだ声でそう宣告し、愕然と見返してくる玲熙の唇にゆっくりと口づけを与えると、傷だらけの身体が横たわる黄金の祭壇から離れた。

 ゆらゆらと炎の影が揺らめく岩の広間で、深い闇と血の光彩を纏った鬼は、あたかも帝王のように尊大な口調で、傲然と何者かに命令を下した。

「……我が僕たちよ、ここへ」

 しんと静まり返った岩屋の中に、やがて何か沢山の生き物が蠢くような音が木霊する。

 地底の奥底から這い上がってくるような音。
 やがて空気が振動し、岩の床が波うつように揺れ始めた。

「──行け、あの人間どもを食らってくるがいい」

 鬼の命令の後に、低い忍び笑いが聞こえた。

 鎖に繋がれたまま、玲熙はその笑い声の卑しい響きに身を震わせた。
 そして、鏡に目を向ける。

 心臓が次の一拍を打った後、玲熙が見たものは、崩れた橋の間から現れた蜘蛛のような化け物の群だった。
 しかしそれは蜘蛛ではなく、異様に手足の長い餓鬼のような姿をした人間だった。

 ぐずぐずと腐り落ちた身体は青黒く変色しており、弛緩した口からは涎が流れ、そしてその唇の間からは長い犬歯が見えた。
 頭部の髪は乱れ、腹部だけが異様に膨張した姿は、まさに地獄にのみ存在する餓鬼そのものであった。

「あれらは、生前に奢侈の限りを尽くし、餓死していく者の前で宴を催した者たちの末路でな。
 死してもなお栄華を望んだがために、あのような姿に成り果てた。
 汚らわしい者たちだが、我が命に逆らうことだけはない。
 力あるものに追随し、力なき者は踏みにじるのがあやつらの本性だ」

 恐怖に目を見開いている玲熙の方を振り返り、ゆったりとした足取りで祭壇に近づいた晴熙は、慈しむように玲熙の長い髪を爪で梳いた。
 そして手首に嵌められていた鉄の枷をつかみ、一瞬で砕く。

 驚愕した玲熙に微笑みかけた晴熙は、その手を取って恭しく口づけた。
 唇が離れた手の甲に、べったりと深紅の血が付着し、それを見た途端、玲熙は恐ろしい目眩に襲われた。

「よく見えるように抱いていてやろうよ。
 快楽に溺れながら、血と恐怖の宴を堪能するがいい。
 そして、その中で、おまえは我が妻となりて、新たなる血族を生み出すのだ。
 人でもなく、鬼でもない……新たな地上の支配者を──」

 耳元で囁かれた言葉を聞いた瞬間、玲熙は恐ろしい鬼の深紅の瞳を見返していた。

 冷たい閃光が不意に天から降り注いだかのように、その時、玲熙は目の前の異形の本質を見抜いていた。

「──おまえは誰? おまえは晴熙兄さんじゃない……いったい、何者なんだ!
 おまえは、兄さんのふりをして、僕を……みんなを騙していた!」

 玲熙の鋭い声を聞き、晴熙は──晴熙であった異形の者は艶然と微笑んだ。

「おや、気づいてしまったか? だが騙したというのは言いがかりだ。
 我らは晴熙の願いを叶えてやったのだからな。
 晴熙は望み通りおまえを抱き、そして我らに、鬼と化した肉体を譲り渡した。
 晴熙の意思は我らが意思となり、我らが意思は晴熙のものとなった。
 ──解放されるこの時を、我らがどれだけ望んでいたか判るか?」

 くつくつと笑った鬼は、不意に『真蛇』の面を呼び出すと、その禍々しい面を指さした。

「見るがよい……あの面に、我らは封じられた──おまえとよく似た巫女によって。
 我らの呼びかけに応じたのが、よりにもよってその巫女の末裔だとはお笑いだ。
 忌まわしき者は滅びたというのに……よもや、その血族が生き長らえるとはな。

 だが、森羅を統べる者はもはやおらず、我らが闇の時が今より始まる。
 真実を知る者はおらず、やがて鬼神の血を引く者は絶え、かの神を奉ずるこの島に、いや秋津島全土に闇が満ちあふれることになるだろう。
 結界は壊され、封じられていたモノが溢れ出す。
 ──我らを封じることは……もはや誰にもできぬ」

 謡うように玲熙の耳元で囁きかけた鬼は、祭壇から玲熙を抱き上げると、背後から血に濡れた花芯をゆっくりと穿った。

 その衝撃に仰け反る玲熙を、膝の上に引き寄せ、異形が蠢く光景を映し出す鏡を見せるようにしながら、鬼はしなやかな身体を嬲るように突き上げた。

「邪悪なる闇に汚されたおまえは、浄化の舞を舞うことはできぬ。
 残った血族は、ゆっくりと我らが屠るとしよう」

「──あっ…ううっ……舞が…舞えない……?」

 虚ろに目を見開いた玲熙に最奥に楔を埋め込み、鬼はうっとりと囁いた。

「邪悪なる闇の子を……生み落とせ──異形のおまえは、そのために生まれたのだから」

「……ああっ…嫌だっ──誰か…助けて──丞っ!」

 絶叫を放った玲熙は、そのまま意識を奪われるように、闇の中へと沈んでいった。


 遠くから、名を呼ぶ悲痛な叫びが、何度も繰り返すように聞こえてくる。

 その声に意識を揺り動かされた丞は、しかし己がどこにいるのかが判らなかった。

 その時、漆黒の深き闇の中に立ってい丞は、その時、暗黒から彗星のような黄金の光が飛来し、舞い降りるのを見た。

(──我が名は……我は大君の影…我が役目は主上を守護し、その命に従う事。
 そなたは…我が敵となろうか……我が君の血を引く者を…滅ぼす者となろうか?)

 闇の中で燃え立つ炎のような存在を見つめ、丞はわずかに首をひねった。

(何の事やら判らないが、俺は誰も滅ぼす気などない。
 ただ、玲熙が……助けを求めている──悲鳴が聞こえてくるんだ。
 早くここから出て、帰らなければ──)

 丞の言葉を聞き、その存在は声なき笑い声を立てた。

(そなたは闇の檻に囚われている……ゆえに戻ることは叶わぬ。
 その名の意を…そなたは知っているか?
 輝ける森羅の神の血を引く者たち──人の子からは『鬼』と呼ばれてきた。
 真の敵は……聖なる地を汚すモノ──浄化する者は今はおらず、囚われている。
 されど……浄化の力は、その舞に宿る。
 我が為に力を貸せ、そして我を受け入れよ……さすれば、我はそなたの力となる)

 その声の意味を本能的に悟り、丞は唇に微笑を浮かべていた。

(──なるほど隠岐宮は『隠鬼宮』だったというわけか。
 ぞろぞろと同じような音が繰り返されると思えば、そういう意図があったとはな。
 鬼が隠れ住んだ島──そこは、神聖なる地であったと?
 おまえなら、玲熙を助け出すことができるのか?)

(然り……我は大君の影──主上の命は……絶対であるゆえに)

 光の中で、その存在が大きくうなずいたような気配を感じ、丞は声を立てて笑った。

(──おまえの主は何者だ? その主はどこにいる?)

(──我が君は……いまだ深き眠りの中に……かつて森羅万象を司りし荒ぶる神だ。
 人の子は主上を恐れ、そして憎んだ──真を知らぬがゆえに。
 だが目覚めの時は近い…封印は解かれ──誰も知らぬ時の闇から復活する。
 眷属が集い、結界が再び作られる時、この地は再び神の降り立つ聖域となろう)

(どうしておまえは俺を選んだ?)

 繰り返される問答に、その存在は気を悪くする様子もなく、むしろ楽しげに笑った。

(……そなたからは懐かしい気配がする。
 悠久の時を刻みし大地の臭い──かつて我もまたその地にあり、その地を駆けた。
 幾千、幾万の日月が過ぎようとも……我は…母なる大地を忘れることはない)

(おまえもまた──異郷の地を彷徨っていたというわけか?)

(深き森を越え、海を渡り……我は主上に呼ばれた……影となり、使いとなるべく。
 そして封印が解かれた時、そなたが我を呼んだ。
 我はそなたを選び、ここにある。
 そなたもまた、我を選ぶがよい──我が名は明かした……我が名を呼び、使役せよ)

 ひっそりと含み笑うような声を聞き取り、丞は微笑を刻んでうなずいた。
 恐怖はなく、むしろ懐かしい友人と巡り会ったような気さえする。

 その姿形は光の中に溶け込んでいるというのに、丞はその真実の姿を見ていた。

 そして腕を手招くように差し伸べ、その名を呼ぶ。

 その瞬間、その存在は大きく体を身震いさせ、闇を黄金に染め変えるほどの光を放った。