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舞の刻



<49>



 その時、丞と要の話を聞いていた融が、慌てたように声を発した。

「要さん、俺も一緒に行きます。何だかよく判らないけど──」

 融の言葉を聞いた要は、冷ややかにさえ見える怜悧な双眸を細め、軽く首を振った。

「中途半端な気持ちで来られても、足手まといになるだけだ。
 君はここで待っていた方がいいな、融」

「で、でも、一応俺だって滝沢の人間ですから。
 親父から、滝沢家もまた沖月島を、隠岐宮家を守護してきた家系だって聞いてます。
 それに、玲熙は俺の親友なんです。
 何が起こってるのか判らないけど、俺だけ安全な場所で待ってるなんてできません」

 すげなく断られた融は、それでもなお言い募った。

 歩きだそうと足を踏み出していた要は振り返ると、鋭い視線で融を見下ろした。

「では、来なさい。そのかわり、どんな事があっても、泣き言だけは言わないように」

 その冷厳でさえある言葉を聞き、融は生真面目な顔をしてうなずいたが、二人で要の後に続いた時、隣にいた丞に融が悪戯っぽいウィンクを送ってきた。

 長い廊下を歩いて玄関へと向かっていると、不意に融が丞の袖を引っ張り、暗い空を指さした。

「──見ろよ、丞。すごい空の色だ」

 言われるがままに空を見上げた丞は、空模様の異様な変わり方に驚愕した。

 家を出た時には、空は雲一つない快晴であった。
 天気予報も、嵐が来るとは一言も言ってはいない。

 それにも関わらず、空は嵐の前兆のように分厚い雲に覆われていた。
 緑みさえ帯びた暗い灰色の雲が、空一面に垂れ込めている。

 陽光は一筋も差し込まず、稲妻が一瞬天空を切り裂き、世界が闇に包まれていくようにさえ感じられた。

「──何だか、禍々しい感じだよな。まるで世界の終焉を予告してるみたいだ」

「不吉な事を言うな、馬鹿。気分がさらに滅入ってくるだろうが」

 不安そうな融の言葉に、丞は努めて明るく、平静な口調で言った。

 実際は融に共感したい気分に襲われていたが、それを認めてしまうと、本当に不吉な恐ろしい出来事が起こりそうな気がしていた。

 外出の用意を済ませ、隠岐宮家の車庫から車を出してくると、要は玄関の前で丞と融を乗せた。

 眼鏡を外してコンタクトに変えたらしい要は、メタリックシルバーのアウディを運転し、竜海山の頂上から麓に続く長い坂を下った。

「さて、人外魔境への度へと出発しましょうか。
 何を見ても、絶対に騒がないでくださいね」

 むしろ楽しげに告げた要の言葉に、助手席に座った融が不安そうな表情のまま、大きくうなずいた。

 ナナシを隠岐宮家の家人に預けてきた丞は、無表情のまま後部座席のシートにもたれていたが、バックミラーで要と視線が出会うと、不敵な微笑を唇に閃かせた。

 不安には違いなかったが、それ以上に身体の奥で沸きたつものがある。
 身体の奥で眠っていたものが、今にも覚醒しそうな気がして、血がざわめいていた。

(──狩りに赴くのも、久しぶりだな)

 頭の片隅で、淡々とした、しかし喜悦に満ちた声が響く。
 獲物を探し求める獰猛な声に、丞は思わず声を立てて笑い出しそうになった。

 二人の様子を確認した要は、門を開くためのリモコンを押した。

 すると海岸線に面した門が自動的に開きはじめ、眼前に高波が荒れ狂う海が広がった。

 アウディが道路に勢いよく飛び出すと、後方で門が閉ざされる。

 海岸線に沿った道路を走りだした車の中で、黙り込んだまま前方をじっと見つめていた融が、突然、ぎょっとしたように叫んだ。

「な、何じゃ、ありゃ!」

 助手席から窓の外を指さした融を見て、丞は指先が示す方向を見つめた。

 路肩に捨て置かれた車の上には、何十匹という奇妙な生き物が群がっていた。
 まるで巨大な蜘蛛のように見えるそれは、車の上で躍るように飛び跳ねている。

 息を呑んだ丞と融を見て、要が抑揚の欠けた口調で説明した。

「──餓鬼の一種です。
 一匹だけならさほど力は持っていませんが、群をなすとやはり強敵になります。
 あれを一匹ずつ始末している時間はありませんから、あれを呼び寄せた者を捜し出すしかありませんね」

 不気味な生き物を見ても全く驚く気配のない要を見て、丞は不審に思って訊ねた。

「要さんは、どうしてそんなに冷静でいられるんです?
 先ほどの呪詛といい、あの化け物といい、あって当然のような口振りだ。
 弁護士であるなら、そんなものが存在する事に疑いを持たないんですか?」

 すると、要は唇にふっと微笑を浮かべた。

「確かに私は弁護士ですが、その前に沖守家の人間です。
 沖守家は、滝沢家より遙か以前から隠岐宮家を守護してきた家系。
 沖守家に生まれてきた者は、隠岐宮家の当主を、そして何よりも巫女を命がけで守らなければならないのですよ。
 それゆえに、幼い頃から様々な呪法を学ばされます」

「──呪法?」

 丞が訝しげに眉根を寄せると、要はうなずいた。

「そうです。判りやすいところで言えば、除霊や退魔といったところでしょうか」

 要は疑いもなくそう告げた。
 東京大学法学部卒のエリート弁護士が、そのようなオカルト的な事を自然に話すという事態に、丞は何とも言えない不思議な気分に陥った。

「……え、でも、俺は何も知りませんよ。
 親父はそんな話、一言もしたことないですし──」

「滝沢家は特殊な式神の家系だと言われている。
 だからこそ、何も教えてもらっていないのだろう。
 今までのところ、強力な式神の必要に迫られたことはなかったし」

「──ええと、シキガミって何ですか?」

 融にしてみれば素朴な疑問であったが、それを聞いた要は呆れたようにため息をつき、ちらりと横目で睨んだ。

「そんな基本的な事も教わってないのか、君は。
 まったく、滝沢の当主も相当呑気な方でいらっしゃる。
 それはともかく、式神というのは、陰陽師が使役する鬼神のことだ。
 鬼神とは言っても、それは霊体であったり、さっきの蠱毒のようなものであったりと、様々なんだけどね」

「えっ! ということは、俺は化け物ってことですか?」

 短絡的な思考回路で考えた末、そう言った融を射やり、要は呆れ果てたように重々しい嘆息を漏らした。

「──もういい、融。君は、この件が片づいたら、僕がしっかり教育してやるよ。
 今は、一々君の質問に答えてあげられそうにない」

「そんなあ。俺、勉強するのは嫌いなんですけど」

 ぎょっとして情け無い声を上げた融が、秀麗な要の横顔に視線を向けると、要は唇の片端に皮肉っぽい微笑を刻んだ。

「それは大変だ。だが、苦手でもやってもらうしかないな。
 ──ほら見てご覧。
 竜泉閣ホテルが大変な事になっている。
 これから先、無事に生き残って明日を迎えたければ、僕の言うことを聞いてもらわなければならないな」

 片手でアウディを運転しながら、要は二人の注意を向けさせるように、灰色の雲に向かってそびえ立つホテルを指し示した。

 その言葉に、丞と融はフロントガラスを通して、前方の光景を見つめた。

「げっ! 気色悪い奴らがゾロゾロと。
 どうやって退治するんですか、あの化け物を」

 融が愕然としたような、奇妙な悲鳴を上げた。

 竜泉閣ホテルの白亜の外壁が、所々黒ずんで見える。
 よく見ると、それが外壁に取り憑いた餓鬼の群であることが判った。

 その数は膨大であり、今にもホテル全体が餓鬼の群に埋め尽くされそうだった。

(──融の言う通りだ……どうすればあれを取っ払える?)

 己自身に問いかけるように、丞が脳裏に向けて問いを発すると、どこからともなく不思議な声が木霊してきた。

(わずかなりとも主上の血を引く者ならば──あの程度の雑魚は敵にはならぬ。
 今はまだ、その力を見守るがよい)

 教え諭すようなその声は、再び深い闇の迷宮の中へと消え失せていった。