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舞の刻



<5>



 

 融はため息をついた。

「俺がどんなに話しかけても、全然喋ってくれないしさ。
 一度、言われたよ。『僕と話してると、融までいじめられる。融を傷つけたくないんだ』って。
 ──他の誰より、俺にとっては玲熙が大切な親友なのに……」

 苦々しい口調でそう語った融は、走り去っていくベンツをじっと見送っていた。
 その顔があまりに悲しそうだったので、丞はそれ以上何も質問することができなかった。

 もう一度深いため息をつき、足下にあった小石を蹴飛ばした融は、ぱっと顔を上げると明るい笑顔を浮かべた。
 明らかに無理をして笑顔を作っているようだった。

「よし、走って帰ろう。ついでに沖月島を案内してやるよ」


 沖月島は全周が約40キロという小さな島で、南北に長く伸びていた。

 鬼ヶ浦大橋によって本土と結ばれた島の南側は、竜泉閣ホテルが巨大な燈台のように立っており、観光地として整備されている。
 道路も碁盤の目のように整理されったため、とても明るい雰囲気の町になっていた。
 本来は南沖月と呼ばれていた場所であったが、ホテルがオープンしてからは、いつしか桜坂町と呼ばれるようになっていた。

 新たに峰月家となった家は、この桜坂町から北東に上った所にあり、正面には道路を境に海辺が広がっているというのどかな場所だった。
 家の裏手には鬼塚森神社がある竜海山の森がすぐ側まで迫っており、隣家といえば100メートルほど離れた所にある小さなタバコ屋だけである。
 そのタバコ屋ですら、本当に人が住んでいるのか判らないような有様だった。

 築50年という古い平屋の日本家屋は、エアコンもついておらず、部屋は全て畳間だった。
 ずっとマンション暮らしだった丞には、部屋の仕切がほとんどないこの家は非常に広々と感じられ、全ての窓を開け放つと驚くほど爽快な気分になれた。

 一応は建築家である父の司が気に入っただけあり、白壁に囲まれたこの家は、海からの潮風にも耐えうるどっしりとした頑強さを持っている。
 そして何より丞が気に入っている理由は、日本家屋にしては驚くほど天井が高いことだった。
 日本人男子の平均身長を遙かに上回る丞にとっては、天井の高さは床面積の広さ以上に重大なことであった。

「今度の学校はどうだい、丞? もう慣れたかなあ」

 竜桜学園に登校しはじめてから三日が過ぎた頃、司が心配そうに訊ねてきた。
 最近、司は珍しく仕事が忙しいらしく、丞より早く出勤して行き、夜も遅くなることが多かった。
 そのため、2人はあまり顔を合わせていなかったのである。

「まあまあかな。クラスで何人かとは仲良くなったけど、まだ全員の顔を覚えてないし」

 コーヒーを飲みながら丞が答えると、途端に司は心配そうな顔になった。

「やっぱり、清南学園に残った方が良かったんじゃないかな。
 バスケ部のレギュラーだったし、友達も多かっただろう?
 おまえが父さんの事を心配してくれるのは嬉しいんだけど、父さんはおまえの事が心配だよ」

「心配するなって。俺にとって、転校は年中行事みたいなものだからさ」

「それが心配なんだって。
 転校生って、イジメの対象になりやすいだろう?
 おまえもいじめられたことあるわけだし、それを思うとやっぱり心配になるなあ」

 箸を置いてため息をつく司を見やり、丞は苦笑を浮かべた。

「俺がいじめられたのは小学校の時。今はそんなことないと思うけどね。
 ──まあ、運動部の連中が束になってかかってきたら問題だけど」

 母親がロシア人であり、その血を色濃く受け継いだ丞は、幼い頃はその日本人離れした外見ゆえによくいじめられたものである。
「おまえは日本人じゃない」と口々に言われ、「外人のくせに、どうして日本語を喋るんだ」とまで言われたことがある。

 陽に透けると金色に見えるゴールドブラウンの髪も琥珀色の双眸も、その頃は異形として嫌悪された覚えがある。

 幼い頃から大柄であったため、1対1の喧嘩なら負けることはなかった。
 しかし相手に少しでも怪我をさせると、その親がしゃしゃり出て来て、司に文句を言っていたものである。
 そんな時でも、丞は絶対に涙を見せなかった。
 烈火のように激しい気性と己の血に対するプライドが、人前で泣くことを許さなかった。
 そしていつしか紅蓮の炎のような血は凍えていき、世間を冷めた目で見るようになった。

──激情を殺し、常に冷静であること。

 それは、幼い頃に覚えた処世術であった。

「そんなことより、担任の中野って先生が笑えるほど父さんに似てるんだ。
 昨日も何もない所でこけてたし……」

 授業終了後、教室を出ようとして何の拍子にか滑って転げた中野を思い出し、丞はくつくつと笑った。
 すると司は憮然とした口調で呟いた。

「──父さんは、そこまでぼんやりじゃないぞ」

「そう? ほら、さっさとしないと会社に遅刻するよ。
 今日は何やら重要な会議がある日なんだろう?」

 丞がそうせかすと、司は慌てて腕時計で時間を確かめ、テーブルから離れた。
 わたわたとネクタイを結び、背広のジャケットをハンガーからつかみ取ると、鞄と書類ケースを取りに戻る。
 長い板張りの廊下を走って玄関に向かおうとした所で、司は盛大な音を立ててずっこけた。

 その音を聞いて思わず首をすくめた丞は、玄関の扉が閉められた音を聞いて笑い出した。
  しかし、テーブルの上に残っている車の鍵を見つけ、慌てて後を追いかける。

「父さん、車のキー!」

 案の定、司は車の前で、ジャケットやスラックスのポケットを必死で捜しているところだった。

「あ、ごめん。じゃあ、行ってくるからね」

 丞から鍵を受け取った司は、照れたように微笑むと、片手を上げて車に乗り込んだ。

「──事故んなきゃいいが……」

 丞が腕時計を見ると、通学に使っている市営バスが15分後に迫っていた。

「まずい……」

 低く呟いた丞は踵を返した。
 東京と違い、沖月島の朝は非常にのんびりしている。
 バスだって5分置きにはやって来ない。
 1本乗り過ごせば、遅刻するのは確実であった。

 屋内に戻った丞は、朝食の後片づけを神業的速さで済ませ、台所に置いてあったジャケットとネクタイ、そして鞄を取り上げて家を出た。
 家の鍵をかけ、家のすぐ近くにあるバス停に向かうと、丁度バスが来るところだった。

 バスに乗ると、朝ともあって通勤するサラリーマンがちらほらといる。
 本土の鬼ヶ浦市には桜坂グループ系列企業の支社がいくつかあるが、車で出勤する人の方が圧倒的多数である。
 また、沖月島の住民は農家と漁師が半数であるため、その中でもバス通勤サラリーマンは少数派であった。

 そして、その中に混ざるように、眠たそうに大欠伸をする融の姿があった。

「……おはよ。ごめん、俺、朝は死ぬほど苦手なの。ついさっき起きたばっかでさ」

 話ながらも欠伸を連発する融の後部座席に座り、丞はしみじみ羨ましく思った。

 思えば、小学校の頃から8時過ぎまで眠っていた記憶がない。
 日曜日も部活の朝練で早起きをしていたし、東京に住んでいた頃は、通学時間が1時間以上もかかっていたため、今よりもっと早起きをしなければならなかった。

「贅沢を言うな。少しは苦労している俺を見習え」

 軽く融の赤茶色の頭を小突くと、融は妙に嬉しそうな顔になった。