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舞の刻



<50>



「ホテルの宿泊客は無事なんだろうか……」

 ふとそう思って丞が呟くと、要が同意するようにうなずいた。

「おそらく、少なからぬ被害が出ていると思います。
 沖月島には、本来、魔を寄せ付けぬ強力な結界が張られていました。
 しかし内部で穢れが発生したため、それが綻んでしまった。
 今回もまた、内部で生じた事件なので、結界の効果があまりない。
 ──人々を助けるなら、神社に避難させなければならないでしょう」

「鬼塚森神社ですか?」

「はい。あそこは沖月島にとっても、隠岐宮家にとっても神域です。
 餓鬼程度ではとても入り込めない結界があります。
 ただ、それもまただいぶ弱まってはいますが、時間稼ぎにはなるでしょう」

 そう丞に説明した要は、急にブレーキを踏んだ。
 そしてアウディを道路の路肩に寄せて駐車する。

「仕方がない、ここで降りてください。
 これ以上は、車でホテルには近づけません」

 アウディの外に出た丞と融は、坂を下り、さらにその先の丘にそびえ立つ白亜のホテルを見つめ、改めて息を呑んだ。
 あまたの餓鬼に覆い尽くされたホテルの周辺は、空気さえも黒ずんで見える。

 その毒気を孕んだ空気が風で流れてくると、二人は思わず息を詰めていた。

「──何か、すげえ気分悪くない?」

 本能的に呼吸を止めていた融が、息を止めたままで丞に話しかけた。

 丞はそれにうなずくと、車のトランクを開けて何かを取りだしている要を振り返った。

 要はトランクの中から桐の箱に納められ、丁寧に絹布で包まれた細長い包みを取り出すと、慎重な手つきでその布を払う。

 螺鈿で飾られた鞘の中から現れたのは、清冽な光を宿した銀の剣だった。

 鐔(ツバ)の部分が八芒星に似た形をしており、星の頂点に当たる部分からは刃に繋がり、反対側は柄に繋がっていた。

「これは沖守家に伝わる八握剣(ヤツカノツルギ)と言って、凶邪を祓う剣です。
 もっとも小道具に過ぎませんが、無いよりはましでしょう」

 不敵な微笑を唇に浮かべた要は、破邪の剣を握ると、ホテルを正面に見る位置に静かに立った。

 そして銀色に輝く剣を天に向かって垂直に構えた。

 怜悧な双眸を閉ざした要は、丞や融には聞こえない声で呪禁を唱えていたが、やがてその瞳をかっと見開く。
 その瞬間、妖気にも似た風が巻き起こり、要の身体を包んだ。

 身動きもできずに立ち尽くした丞と融の前で、要は剣尖をホテルに向けると、あたかも裁判官が判決を下すような冷厳な声で宣告した。

「東嶽大帝の名において、我、ここに冥獄を召喚す。
 我が声を聞き、我が元に来たりて、その力を貸せ。
 ──いでよ、青竜風雷獄」

 淡々とした声が途絶えた瞬間、風が猛烈な渦を巻き、稲妻が天空を走った。
 激しい風が刃と化し、雷電が竜のように宙をのたうつ。

 そして、凄まじい勢いで、風雷がホテルに取り付いた餓鬼の群に襲いかかった。

 雷光に打たれた餓鬼の身体が爆ぜ、烈風が瞬時に裂断してゆく。
 旋風に巻き上げられた餓鬼たちは海に生じた竜巻に呑まれ、いずこともなく消え去った。

 あまりの衝撃に硬直をしていた丞と融は、お互いに顔を見合わせると、一瞬後には餓鬼たちが綺麗さっぱり消えてしまったホテルを見つめ、瞬きをしていた。

 ホテル周辺に漂っていた邪気も風に消されてしまったのか、空気も清浄なものに戻っていた。

 そして、あれほどの暴風と雷に晒されたにも関わらず、ホテルには傷一つ残っていない。

「……な、な、な、何、今の?」

 唖然としたままで融が呟く。

 その声で我に返った丞は、片膝を地面に突いて深呼吸している要を見つめた。
 その秀麗な顔は青ざめ、今にも崩れそうなほど額には汗が玉を結んでいる。

(──あれが……森羅の神の力というわけか?)

 驚愕した丞の声に、密やかに笑う声が応じた。

(主上の力の欠片にすぎぬ──だが、その血が薄れた今、冥獄を召喚する者は極めて稀となった。
 命を削りながらとは言え、呼び出せるのだから、人の中ではあれもまた強力な術者なのだろう。
 人とは異なる呪法ゆえに、人が扱うと負担がかかりすぎるのだ)

 興じるような声に教えられ、丞は大きくため息をついた。

 要は呼吸を整えるとすらりと立ち上がったが、不意に何かを訝しむように丞を見つめ、その双眸を細めた。

 しかし疑惑に満ちた視線をすぐに逸らしてホテルを見つめると、要は乱れた前髪を掻き上げて深い嘆息をもらした。

「──どうせすぐに餓鬼は現れます。
 消えたのは一瞬だけ……あれを呼び出した者を倒さぬ限り、この戦いはエンドレスで続くことになるでしょう」

 微かに疲れの滲んだ声を聞き、融が心配そうに要を見つめた。

「……いったい、どうなってるんだろう?」

 問いかけるような融の声に、丞はため息混じりに答えてやった。

「──どうやら、要さんが化け物を祓ったらしいな。
 それにしても、人間技とはとても思えないが……」

 ショックが尾を引いているのを感じた時、突然、後方から大きな声が響いた。

「あーっ! こんな所にいた。よかったぁ、無事だったのねっ!!」

 場違いなほど元気な声に、ぎょっとして振り向いた丞は、途端に飛びついてきた冴夜子に抱きつかれていた。

「心配してたのよ、もう! こっちは散々苦労したんだから」

「……冴夜子。おまえ、無事だったのか」

「あったりまえじゃない。このあたくしが、こんな所でくたばるはずは……」

 緊急事態に巻き込まれ、さすがに本性を隠しておけなくなったらしい冴夜子が、からからと声を上げて笑う。
 その屈託の無い明るさが、緊迫した今の状況では救いにすら感じられた。

 その時、冴夜子が乗ってきた車のドアが開き、丞はそこに見知った人物を見いだした。

 それを見て驚愕し、丞は思わず声を上げていた。

「──父さん…東京に出張のはずじゃ……」

「司ちゃんには、危ない所を助けられたの。
 それからはもう、運命共同体──同じ危機を乗り越えた、頼もしい味方ってわけ」

 丞の驚いた顔を見てご満悦の冴夜子は、明るい口調のままそう説明した。

 そして剣を持ってたたずむ要を見ると、目をきらりと輝かせた。

「まあ、要さんじゃないの。なんて凛々しいお姿なんでしょ。
 じゃ、後はよろしく。
 私は要さんとお話をしてくるわね〜」

 この非常事態であっても常と変わらぬ態度で、冴夜子は躍るような軽やかな足取りで要に近づいていった。

 それを見て嘆息した丞は、ようやく我に返ったらしい融に袖を引かれた。

「おい、あの美人、一体何者? あんたの愛人?」

「冗談でもぞっとするような事を言うのは止めてくれ。
 あれは峰月冴夜子といって、俺の恐ろしい従姉だ」

「恐ろしいって、すっげえ絶世の美女じゃん。
 いいなあ、俺もあんな従姉なら何人でも欲しい……」

 緊張感を失い、盛んに羨ましがる融を見て、丞は思わず曇天を仰ぐと、ゆったりと近づいてきた司に視線を向け、不審げに訊ねた。

「どうして父さんが島に残ってるんだ?
 東京に出張に行っていたはずじゃなかったのか?」

 眉をしかめた丞を見返し、司は穏和に笑いながら言った。

「そんなに怖い顔をするもんじゃないよ、丞。
 ──それにしても、凄いことになっちゃったなあ、この島は」

 のんびりとした口調でそう言うと、司は「あはは…」と笑った。