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舞の刻



<52>



 為す術もなく唇を蹂躙された玲熙は、弱々しく逞しい胸を叩き、双眸から悲しみの涙を流していた。

 止めどなく流れ落ちる涙は、ぽたぽたち祭壇の上に落ち、黄金の上に透明な飛沫を散らしてゆく。

「おまえを見つめつづけていた晴熙は、どんどん狂気の淵へと沈んでいった。
 この上ない、最高の余興であったぞ。
 人を殺せば殺すほど、欲望に抗えない己を責め、またさらに狂っていく。
 人間とて、物狂を見て楽しむし、おまえも舞うだろう?
 ──晴熙は舞を舞うのは苦手としていたようだが、これはあれの舞の中で最も上出来な舞であったかもしれぬな。
 我らでさえ、感動を覚えるほどにな」

 可笑しくてたまらないというように哄笑する鬼を見つめ、その瞬間、玲熙は嘲笑う兄であった者の頬を渾身の力で打っていた。

 驚くほど高い音が岩屋の中に響き、それに驚いた玲熙は、激しく震えながらも漆黒の瞳で鬼を睨みつけていた。

 鬼は打たれた頬を手の甲でゆっくりと触れると、全く痛痒を感じていない残忍な瞳で、がくがくと身体を震わせている玲熙を見つめた。

「手を上げる元気が残っていたとはな。
 ──だが、二度目はないと思うのだな、玲熙。
 それよりも、見るがいい、第二幕の始まりだ」

 腕を強引につかんで後ろ手にねじり上げた鬼は、身体を強ばらせている玲熙の背後に回ると、白い首筋に片手を這わせた。

 鋭い爪が肌の上をなぞると、玲熙の肌は粟立ち、怖気上がるように大きく震えた。

「よく見ておくがいい。何が起こるのか、その瞳に焼き付けておくのだな」

 玲熙の耳元で囁いた鬼は、捕らわれたように鏡を見つめる玲熙を見下ろし、そのしなやかな首筋に唇を這わせると、鋭い牙を深く突き立てて咬みついた。

 その瞬間、激痛に双眸を見開いた玲熙は、それでも視線を鏡から逸らさず、ただ一つの名前を唇に刻んで、霞みゆく瞳にその光景を映し出した。


 竜泉閣ホテルのロビーにあるソファに身を沈めた冴夜子は、疲労の色を微かに浮かべてため息をついた。

「──あ〜、やっと一息ついたって感じ。
 これでコーヒーとケーキでも出てくると、最高なんだけどねえ」

「この状況で物が食えるのは、おまえぐらいじゃないのか?
 あんな気色の悪いものを見た後で、よくまあ食欲がでるもんだ」

 丞が呆れたような声を上げると、冴夜子は気にする風もなく軽く肩をすくめて見せた。

「こんな状況だから、食べておいた方がいいんじゃないの。
 腹が減っては戦はできぬって言うでしょう?」

「それも言えてますよね〜。でも、ホテルの従業員も、それどころじゃないみたいですよ」

 薫に愛想良く満面の笑みを見せていた融が、広い大理石張りのロビーをぐるりと見回した。
 怪物の襲撃に恐れをなしたのか、1階には全く人影は見当たらなかった。

「勤労意欲が足りないわねえ……お客がいるっていうのに」

 大きく息を吐いた薫は、豪華なシャンデリアの下がった天井を見上げた。

「──そう言えば、何があったかまだ聞いていないな。
 俺が出て行った後、いったい何があったんだ?」

 丞の問いに、冴夜子は顔を戻すと、優越感に満ちた微笑を浮かべた。

「……聞きたいの、丞君? じゃあ、特別に教えてあげるわ」


 鬼ヶ浦大橋が崩壊した後、警察が来るのを待っていた冴夜子は、不意に肌が総毛立つような殺気を感じた。

 それと同じくして、司が驚愕に彩られた低い呟きをもらしていた。

「……あっ、冴夜ちゃん、あれ、見てご覧よ」

 冴夜子が振り返った時、そこに見たものは、まるで地獄絵そのものの光景であった。

 飢餓と欲望に目を光らせ、長い手足を動かしながら、崩れた橋の欄干から餓鬼がはい上がってくる。
 その数は30を遙かに越え、ずるずると身体を引きずるようにして二人に近づいてくるのだった。

 常に豪胆な冴夜子も、その光景にはさすがに度肝を抜かれて唖然としていると、司がのんびりとした声で言った。

「──囲まれちゃったねえ、どうしよう……」

「これじゃ突破して逃げるのは無理? どうする、司ちゃん。海に飛び込む?」

 顔を青ざめさせながらも、薫は取り乱すことはなく、泰然としている司に訊ねた。

「まだ寒そうだねえ、海で泳ぐっていうのも。
 ──まあ、ちょっと待ってて冴夜ちゃん。
 とりあえず、こいつらを追い払うからさ」

 眼鏡の奥にある穏やかな双眸を閉ざした司は、大きく静かに深呼吸をした後、かっと目を見開いた。

「……天蓬」

 そう唱え、司は左足を出した。そして右足をつけた後、「天内」と唱えて右足を出す。

「──天衝…天輔…天禽…天心…天柱…天任…天英──」

 低く唱えながら足を運ぶ司を、冴夜子は尊敬するように見つめていたが、先ほどからどんどん迫っていた餓鬼の群が、ぴたりと動きを止めたことに気づいた。

「──バン、ウン、タラク、キリク、アク」

 司はさらに宙に記号を描く。
 それは逆からみた五芒星であり、その中央に一点を加えた後、司は懐から呪符を素早く取り出すと、餓鬼にめがけて投じた。

「我が意に従い、悪鬼を滅するべし──急急如律令」

 その瞬間呪符が燃え上がり、矢のように餓鬼の群に突っ込んでいく。
 思わず呆然と見つめていた冴夜子は、その呪符がやがて形をとり、炎の翼を持った鳥になるのを見た。

 炎の鳥は、動かない餓鬼の群を急襲し、次々とその翼で焼き払っていく。
 腐敗した肉の焼け焦げる凄まじい悪臭が鼻についたが、立ちすくんでいた冴夜子には、それは別世界のことのように感じられた。

 その時、冴夜子の後方で耳障りな音がした。
 はっと振り返った時には、後ろの欄干から別の餓鬼が這い上がってきている。

 術に集中している司は、それに全く気づいている様子はなく、その背中はあまりにも無防備だった。

 とっさに地面に落ちていた長い鉄筋を持った冴夜子は、気迫を込め、それを餓鬼の頭上に叩き下ろした。
 自分を守ってくれようとする、叔父の司を守るために。

 肉と骨が砕けるような嫌な感触がし、嘔吐感が喉まで込み上げてくる。
 しかし冴夜子はそれを必死で堪え、別の餓鬼に鉄筋を振り落とす。

 ──飛びかかってきた餓鬼を貫き、大きく薙ぎ払った。

 冴夜子の鬼気迫る迫力に気圧されたのか、しばらくすると餓鬼たちが動きを止めた。

 大きく息を吐きながら汗をぬぐった冴夜子は、こちらをうかがっている餓鬼を睨め付けた。

 その時、鮮やかな火の粉をまき散らしながら、炎の鳥が舞い降り、餓鬼たちを打ち倒していった。

 背後を振り返ると、微笑を浮かべた司が傍らに立っていた。

「ありがとう、冴夜ちゃん。おかげで助かったよ。
 破魔の剣もないのに、よく頑張ったね」

 何事も無かったかのように穏和に微笑む司を見返し、冴夜子は軽く肩をすくめた。

「カビの生えたような古い陰陽師の家系に生まれた者としたら、当然じゃない?
 うちは本家だし、お父様は厳しかったから……まあ、才能はないけどそれなりにね。
 司ちゃんほどの才能があれば、お兄様も苦労しないんでしょうけど──」

 深刻なため息をもらした冴夜子を見つめ、司は寂しそうに笑った。

「──家業だなんて押しつけられるのは可哀相だ。
 自分の道は、自分で見つけだせばいい。
 家や血に縛られるなんて……馬鹿馬鹿しいことだけどね」

 司はやや疲れたように眉間を指で押さえると、目を閉じ、大きく息を吐いた。
 そして再び目を開けると、心配そうな顔をしている冴夜子に微笑みかけた。

「大丈夫……式神を使役して、少し疲れただけだから。
 それより、ずっと鉄筋を振り回すわけにもいかないよね。
 うちに一度戻って、君に相応しい武器を探してみよう」