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舞の刻



<54>



 その瞬間、大地が大きく震動した。

 東京にしばらく住んでいたため地震には慣れきっていた丞も、壁で身体を支えなければならないほど、それは激しい揺れだった。

 廊下に置かれていた観葉植物が倒れ、大理石の像が崩れ、砕ける。

 ホテルに残っていた宿泊客の悲鳴が、どこからともなく響いてきた。

 エレベーターを使うことができなくなったせいか、非常階段の方から恐慌状態に陥った人々が溢れ出してきた。

 ロビーを突っ切るように歩いていた丞は思わず立ち止まり、玄関から外へと飛び出していく人々を振り返った。

(──この地震は自然のものか?)

 内なる声に問いかけると、微かにかぶりを振るような気配が感じられた。

「丞! 何やってるんだよ、こっち、こっち!」

 広い中央階段の中二階の踊り場で、融が大声で叫びながら手を振っていた。

 その時、高い天井から吊り下げられていたシャンデリアの太い鎖が引きちぎられ、耳をつんざくような音を立てて床に落ち、砕け散った。

 逃げだそうとしていた人々の間から絶叫が上がり、戦くように床に突っ伏す。

 波立つように揺れている床を蹴って走り出した丞は、飛び散ったガラスの破片を避けながら階段を駆け上がり、冴夜子と融の所までたどり着いた。

「──冴夜子! 父さんと要さんはどこに行った?」

 客の悲鳴で騒々しいため、丞は大声を出した。
 そして冴夜子もそれに答えるように怒鳴る。

「結界を張るために、二人で外に出ていったわ。
 私たちが移動するには、まだ時間が早いんだけどね!」

 冴夜子が澄んだ声を張り上げた途端、ラウンジの窓が一斉に割れた。

 甲高い破壊音──そして恐怖に満ちた悲鳴と、渦を巻く不安感。

 ホテルを再び襲ったその衝撃に、床に膝をついていた三人は、パニックに襲われている玄関ロビーを見つめた。

 狂ったように叫び続ける若い女、腰を抜かしている男、客の不安を煽り立てるような従業員のわめき声。

「おい、冴夜子、融──怪我はしてないか?」

 ガラスの破片が飛沫のように散乱しているのを見下ろし、可能な限り冷静な声で丞がそう訊ねると、二人はそろって首を縦に振った。

「……どうする? ここにいても、何だか危なそうだぜ。
 外に出た方が返って安全なんじゃないかな」

「それは止めた方がいいわ。
 今、この状態で外に出れば、パニックを起こした群衆に巻き込まれることになるもの。
 そこに餓鬼が襲ってきたら、私たちは身動きがとれなくなる。
 このホテルに人がいなくなった方が、逆に動きやすいわ」

 不安げな融の言葉に、冴夜子が決然とした顔で首を振った。
 そして年の離れた従弟の秀麗な顔を見つめ、問いかけるように首を傾げた。

「まだ結界は完全じゃないと思うけど、三階の庭園って場所に移動する?」

 いち早く立ち上がっていた丞は、我先にとホテルの外へ逃げ出ようとしている集団をじっと見つめ、大きく息を吐き出した。

 窓ガラスが全て割れてしまった1階のロビーは、もはや砦としての役目も果たさない。

「──やはりここは危険だろうな。移動した方がいい。
 融、そこまで案内できるか?」

「イエッサー!」

 異常事態でもふざけることだけは忘れていなかったのか、融は悪戯小僧のような微笑を浮かべ、丞に敬礼してみせた。

 軽やかな足取りで非常階段を上る融の後を追い、丞と冴夜子が続く。

 やがて、重いステンレスの扉を開けると、綺麗な芝生に覆われた庭に出た。

 今までのパニックが嘘のようにしんと静まり返った中庭は、海に向かって大きく開けているため、不思議な空中庭園のようにも思えた。

 優美な鉄細工の施された手すりの向こう側には、白い燈台が見え、深い青に沈んだ海が広がっていた。

 蒼天であればどれほど爽快な光景だっただろう。

 しかい重い灰色の雲が垂れ込めた空が、遙かなる広がりを閉ざしていた。

「やな天気だなぁ。快晴だったら落ち着けるんだけど」

 手すりにもたれて海を眺めた融が、大きく息を吐いてそう呟いた。

 唇に苦笑を浮かべた丞は、大事そうに太刀を抱えた冴夜子に訊ねた。

「最初は鉄筋で戦ったんだろう、冴夜子。
 そんな物で、化け物を倒せるのか?」

 細長い漆塗りの箱に収まっていた太刀は、美しい装飾が鞘に施されてあり、とても実用向きなものとは思えなかった。

「これは祭祀用の剣なのよ。
 刀身は魔を祓う桃の木で作られた木刀なの。
 鉄筋を振り回すよりは手に負担はかけないし、気を込めれば、無理しなくても餓鬼を切ることができる。
 ──司ちゃんが、貸してくれたわ」

 すらりと冴夜子が鞘を払うと、確かにその刀には金属の煌めきは無かった。
 しかし磨き込まれた木刀は、美しい艶を放っていた。

「ここで餓鬼と格闘しろって言われたが、俺達はどうするかな」

 呟くような丞の声を聞いて振り返った融は、きょろきょろと周辺を見回し始めた。

 そして、不意に蔦薔薇の絡まった鉄の棒を指さした。

「あれは? ちょっと長すぎるかな」

 外見を考えて綺麗な細工が施された鉄の棒を強引に引き抜いた丞は、それが身の丈近くほどもあることに驚いた。

 しかし、他に手頃な物が見つからなかったこともあり、とりあえずはそれで我慢することにした。

「まあ、何もないよりはましか。
 いざとなったら、素手で戦うしかないんだろうが」

「山伏の杖だと思えば? あれだって、結構な武器になるだろ?」

 時代劇を思い出して笑った融が、同じように鉄棒を引き抜き、振り回す。

 しかし誤って脛に棒を打ちつけ、激痛のためにしゃがみ込んでしまった。

 必死で呻き声を殺そうとしている融を見下ろし、丞は呆れたように言った。

「おい、大丈夫か? 戦いの前から負傷してどうするんだ、おまえ」

「くううっ……死にそうに痛い。あ、涙が出てきちゃった」

 ひとしきり呻いていた融は、ようやく立ち上がることができるようになると、ごしごしと手の甲で涙を拭いた。

 そして照れたように笑い出す。

「いやあ、やっぱ、慣れないことはやるもんじゃないねえ。暴力反対だよ、俺は」

「……アホ。勝手に平和主義者をやってろ」

 呆れたように丞が言った時、海に面した鉄柵に近寄って地面を見下ろしていた冴夜子が緊張した声を放った。

「来た! ホテルの壁を登ってくる!」

 その叫び声に真顔になった丞と融は、柳眉をひそめている冴夜子の傍らに走り寄って下方を見下ろすと、思わずぎょっとした。

「うわ〜お。気色悪すぎ」

 鋭いかぎ爪をコンクリートの外壁に打ちつけ、百匹近い餓鬼の群がゾロゾロと上を目指して登ってくる。

 それを見て素っ頓狂な声を上げた融も、顔は蒼白に変わっていた。