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舞の刻



<56>



 過去を伝えてくる声は淡々としていたが、微かに怒りの波動があることを丞は感じた。

(──我が君は殺され、その腹心の者たちも次々に殺されていった。
 だが、逃げ落ちた者もいたのだ。
 それが『雪姫』……鬼族の祭祀であり、主上の妻でもあった御方だ。
 闇に乗じて館から逃げ出した雪姫は、わずかな腹心の者に守られながら、いずこともなく落ち延びた。
 忌み地と恐れられ、人の住んでいない地域へと……一族の恨みを浄化し、主上の魂魄を永遠に弔ってゆくために)

(──……雪姫? 隠岐宮家のあの桜を植えたのは、雪姫なのだろうか?)

 見事に咲き誇る桜の巨木を思い出した丞は、不意に冷たい悲しみに襲われた。

 胸の奥を氷が滑り落ちていくような寂寥と悲哀と──。

 同胞を失った絶望と、愛する者を永遠に失ってしまった深い慟哭。
 桜の陰で啜り泣いている美しい存在が脳裏に浮かび上がり、その儚い姿はひどく哀れに思えた。

(ならば、おまえにとって、俺は憎むべき敵じゃないのか?)

(そうではあるが、そなたは我が入り込むには最適な器であった。
 それがなにゆえであるのかは判らぬ。
 だが、そなたが我に出会い、受け入れたことは恐らく偶然ではない。
 ゆえに我らの一族の真実を……そなたは、知る必要がある。
 二度と悲劇を繰り返さぬためにも──)

 深い思考世界に沈み込んでいた丞は、その時、突然融がもらした恐怖の喘ぎを聞き、ふっと我に返った。

 そして隣に座り込んでいる融を見下ろし、不審に思って振り返る。

 殺気は感じなかった。
 感じていれば、融よりも早く気づいていただろう。

 全くその存在に気づかなかったのは、それが何の気配も感情も露わにしていなかったせいだった。

「……お、お、お、鬼だあ」

 惚けたように空中を指さしている融は、腰を抜かしたまま動けなかった。

 その鬼は、何の感情を浮かべず、じっと丞を見下ろしていた。
 秀麗でさえある顔の中に輝く深紅の双眸、海風にも靡かぬ長い黒髪。
 髪の付け根あたりからは二本の角が生え、血のように紅い唇からは、真っ白な牙がのぞいている。

 丞は、その顔に見覚えがあった。
 「竜の風穴」で、そして鬼塚森神社で襲われた時に見た顔である。

 しかし、初めて太陽の昇っている時間帯に姿を現した鬼からは、あの時人肉を貪り食っていた姿からは想像もつかない、何か気品のようなものを感じた。

 丞が見返した途端、鬼の双眸が血の色に輝いた。
 その瞬間に視線が呪縛されてしまい、身動きがとれなくなる。

 後悔はしたが、ただ気迫に押されないよう、必死で睨み返すしかなかった。

 美しい装束を纏った鬼は、丞の琥珀の瞳を無表情で見返していたが、やがてその唇に微笑を浮かべた。
 あたかも憐れみ、悲しむように……。

 鬼の謎めいた微笑を見た丞は、脳裏を走ったある確信にはっと息を呑んだ。
 そのどこか寂しげな微笑は、玲熙の浮かべるものとよく似ている。

 異形の姿に惑わされていなければ、もっと早く気づいていたかもしれない。 

 しかし、それが一瞬の隙となった。

 鬼は音もなく、滑るような足取りで近づいてくると、長く鋭い爪の生えた手で、鉄槍のように丞の胸を貫いた。

「ぐうっ……」

 激痛のあまり上体を折った丞を見下ろし、鬼は初めて感情を表した。
 血に濡れた唇に浮かんだのは、紛れもない、喜悦の微笑だった。

 とっさに鬼の腕をつかんでいたため、爪が貫通することはなかったが、それでも肺を傷つけられたのは確実であった。

 にたりと笑った鬼が腕を引いた瞬間、丞は口許を片手で覆い、大量の鮮血を吐き出す。
 そして崩れるように地面に倒れ込んだ。

「……丞ッ!!」

 丞が倒れた事で我に返った融は、慌ててその傍に這い寄った。
 そして、ドクドクと流れ出てくる血を見て、恐怖の表情を浮かべた。

「……お、おい。冗談だろ……まさか、あんたが死ぬなんてことは……」

 目を大きく見開いた融は、慌てて丞の身体を揺さぶった。

「嘘だろ──丞、目を開けろよ……」

 震える手で、うつ伏せになった長身の体躯を転がした融は、胸に穿たれたような傷があるのを見て、悲鳴を堪えるように口を手で覆った。

 歯の根が合わず、カチカチと震え出す。
 その音は、奇妙なほど耳障りに聞こえた。

 その時、庭に続いているホテルのドアが乱暴に開けられ、外に出ていた要と司が駆け込んできた。
 そして、虚空に立つ鬼の姿を認めた瞬間、彼らは驚愕して立ち止まった。

「──丞っ!」

 倒れている丞に気づき、その傍らに駆け寄ってきた司は、えぐられた胸の傷を見て、大きく息を呑んだ。

 これ以上血が流れ出ないように、手に持っていた絹布を傷口に当て、強く押さえる。

 すでに鼓動は遅くなっており、顔は青ざめていたが、微かにまだ息があるため、司は必死に語りかけた。

「お願いだ、死なないでくれ。
 おまえは、ユーリヤのただ一つの忘れ形見なんだ。
 僕から、これ以上幸せを奪わないでくれ……」

 涙は無かったが、その悲痛な声は慟哭にも聞こえた。

 ベンチに横たわっている冴夜子の様子を見に行っていた要は、丞の身体を抱き締めている司を守護するように立った。

 そして爪を血に染めている鬼を見つめ、やがて低い声で話しかけた。

「……やはり、あなたでしたか──晴熙さん」

 鬼は答えず、黙って要を見返していた。
 その双眸に呪力があることを知っている要は、しかし目を逸らすことはせず、上回るほどの気迫を込めて睨みつけた。

「あなたは、私たち沖守の人間が、どんな想いで隠岐宮家を守ってきたと思うのです。
 決してその血統を絶やさぬよう、人から怪しまれることがないよう、常に守護してきた。
 それは、ひとえに人と共存することを望まれた代々の当主たちの強い意志だったからなのですよ。
 それにも関わらず、あなたは多くの人を殺め、ご自分のお父様まで手を掛けようとした」

 要の言葉に、驚いたのは融だった。

 要と司の出現によって緊張が緩んだ融は、ぼろぼろと涙を流していたが、その言葉を聞いた途端、思わず顔を上げていた。

 すると、無言のまま立ち尽くしていた鬼が、その時初めて口を開いた。

「……要、僕の邪魔をするな。
 おまえは当主の守護者ではなかったか?
 父が死ねば、隠岐宮家を継ぐのはこの僕だ、玲熙ではない。
 隠岐宮家の行く末がどうなるかは、僕が決める──そこをどけ」

 その声は、感情の揺らめきがまったく感じられない、乾いたものだった。
 淡々とした静かな口調が、晴熙自身の狂気の深さを物語っていた。

「いいえ、退きません。
 お忘れですか? 
 隠岐宮家でもっとも尊ぶべきは巫子──当主はその代理にしかすぎない。
 長きに渡って巫子が現れなかったからこそ、沖守家は当主に従ってきたのです。
 次期当主であろうと、巫子を傷つける者は許されない。
 ──返していただきましょう、玲熙さんを」

 血に濁ったような視線にも怯むことなく、要は事務的な口調でそう告げた。

「……では、おまえを殺さねばならないな」

 ぽつんと、何気ない事を話すような口調で、禍々しい妖気を漂わせた鬼はそう告げた。
 まるで今日の空模様を話すように。

 じっと要を見つめていた鬼は、鋭く尖った牙を剥き出すように、ゆっくりと狂気に満ちた微笑を唇に刻んだ。