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舞の刻



<57>



 重い闇に囚われる寸前、どこからともなく金色の閃光が走り、丞を暗黒の触手から奪い去るようにして連れ去った。

(──いったい、何が起こった?)

 問いかけると、いままでよりもずっとはっきりとした輪郭を持った存在が、まったく気にしていないような調子で応じた。

(あれは死の影──そなたを呑み込もうとしていたのだ)

 一瞬呆気にとられた丞は、まるで悪気のない様子のそれを怒鳴るわけにもいかず、ややあってから苦笑を漏らした。

(つまり、俺は死に損ないってことか?
 それとも、身体はもう死んでいて、ここにいる俺は幽霊というわけか?)

 すると、大きな頭がゆっくりとかぶりを振り、黄金の眼差しで丞を見つめた。

(そうではない──我は、そなたを死なせるつもりはないのだから。
 ただ、あれの目をごまかすには、そなたが死んだと思わせておく方が都合が良かった。
 多少……荒っぽくはあったが)

(おまえに冗談の才能があるとは思わなかったよ。
 まったく、火葬にされたらどうするんだ?)

 ほとんど呟くような言葉を聞き取ったのか、黄金の光を身に纏ったものは、微かに笑いの波動を放った。

(さほどの時間は取らせぬ。
 そなたに、見せたいものがあったのだ。
 それは、人の肉体を纏っていてはたどり着けぬ場所にある。
 ゆえに我は、そなたの幽魂だけを呼び寄せた。
 ──我が背に乗るがいい、丞。
 そなたを、主上の奥津城まで案内しよう)

 立ち上がったそのものの姿を見つめ、丞は訝しむように訊ねた。

(簡単に言ってくれるが、俺は馬以外の獣の背に乗ったことなんてないんだぞ)

(我に意思を添わせるだけでよい──今のそなたに器はないのだから。
 そう難しいことではない。
 二、三度落ちれば、上手く乗れるようになるだろう)

(……笑えない冗談だな、それは)

 結局、促されるままにその背に乗った丞は、それがありえないほど高く跳躍し、そして千尋の谷底へと落ちるように降下してゆく感覚を全身で味わった。

 必死で金色のたてがみをつかみ、振り落とされないようにしがみついていた丞は、次の瞬間、隠岐宮家の巨大な桜の上空に出ていることに気づいた。

 妖風が根元から吹き出し、一頭と一人をそれ以上近づけないように渦を巻いている。

(何だ……あれは?)

(我が君の奥津城を守っていた我と、もう一人が解き放れた時、守護の結界にも綻びが生じた。
 我が君を守っていたものが、邪悪なる存在に触れ、蝕まれつつあるのだ。
 あれらの真の目的は、我が君の力を手に入れること。
 渡すわけにはゆかぬ──姫が、その命をかけて守りしものゆえに)

 獣の声はあまりにも痛切な悲しみに満ちていたが、全てを知るために丞はあえて問いかけていた。

(あれら? 鬼の正体は晴熙さんだったはずだが。
 全ての事件を巻き起こし、玲熙を連れ去った犯人も晴熙さんなんだろう?)

(然り、されど然らず。
 結局にところ、晴熙はただの傀儡にすぎぬ──真の犯人は別の存在なのだ。
 詳しい説明は後にするとしよう。
 今は、あの黒き呪縛をくぐり抜けねばならぬゆえ)

 決然とした声が響き、丞が同意するようにうなずくと、黄金の獣は輝く一陣の旋風となり、桜の巨木を目指して舞い降りた。


 鮮血が溢れ出した瞬間、玲熙は悲鳴を上げていた。

 その悲惨な光景から目を逸らすこともできず、激しく身体が震え出す。
 見開かれた瞳からは、無意識のうちに涙がこぼれ落ちてきていた。

「ふん、案外、呆気なかったな。もう少し、頑張ってくれると面白かったんだが」

 玲熙の肩を抱くように腕を回していた鬼が、倒れ伏す丞の姿を見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。

 その言葉を聞いた途端、腕の中で玲熙がびくりと震えた。

 華奢な肩をあやすように撫で下ろし、白い首筋に唇をつけ、牙を軽く立てた鬼は、くすくすと可笑しげに笑った。

「あれが幻影であると気づく者はおらぬはず。
 幻影の核に、晴熙自身の魂魄を込めて創りだしたがゆえに。
 もし、あれが消滅すれば──その時は、晴熙の霊魂もまた消え去るだろう。
 どうして震えているのだ、玲熙?
 おまえは、晴熙が殺されてしまった方が良かったのか?」

 優しい口調とは裏腹に、晴熙の肉体を奪った鬼は残酷な言葉を投げかけた。

 その途端、玲熙は自分自身の絶望に耐えかねたかのように泣き崩れた。

 肩を抱き起こした鬼は、口許を手で覆い、声を殺して涙を流している玲熙を胸に引き寄せると、その目尻に口づけた。

 それは恋人を慰める者のような行為ではあったが、耳元に囁きかけた言葉はさらに残酷なものであった。

「ほら、見てみるがいい。
 要が、おまえのために晴熙と戦うそうだ。
 何もしていないわりには、随分と罪作りな存在のようだな、おまえは」

 玲熙の顎に片手を添え、鬼は強引に鏡を見せる。

 八握剣を持った要が晴熙と対峙する姿を見て、玲熙は濡れた瞳を見開いた。

 愕然とする姿を満足そうに見つめながら、邪悪なる存在はさらに言葉を続けた。

「どう思う? 隠岐宮家の直系である晴熙が勝つか、それとも守護者である要が勝つか。
 さっきまでに比べると、だいぶ面白くなってきたとは思わないか?」

 玲熙はその手を強引に振り払うと、逃れるように後退った。

 そして、涙を溜めた漆黒の瞳で、冷たく嘲笑う鬼を見つめた。

「──どうして…こんなことに?
 僕は……誰も傷ついては欲しくなかった。
 僕が死んで、全てが救われるというなら──その方が幸せなのかもしれない」

 そう呟いた瞬間、玲熙の胸の奥底で何かが閃いた。

 それは一条の矢となって、玲熙の身体を貫いてゆく。

 身体中に激痛が走り、玲熙は両手で己の身体を抱き締めると、その場に頽れていた。

 銀色の閃光が岩屋を染める。
 それは白銀のオーロラのように闇の中に満ちあふれ、様々な色彩を織りなしながら、淡い夢のように玲熙の身体を包み込んでいった。

 月光のような、白銀の光が繭のように玲熙を包む。

 その様子を眩しげに見つめていた鬼は、やがてするすると光がほどけ、玲熙の身体の中に吸い込まれていくのをみた。

「……ようやく、姿を現したか」

 低く呟いた鬼は、倒れている玲熙でありながら玲熙ではなくなった者を、大切な宝物を扱うような手つきで抱き上げた。

 そして黄金の祭壇に静かに横たえ、こぼれ落ちた長い銀色の髪を一房手に取ると、そっと口づけを落とした。

 その瞬間、目を閉じていた玲熙はふっと瞼を開け、ゆっくりと身体を起こした。
 玲熙の双眸は淡い水色を帯びたオパールのような色彩に変化しており、見方によって色を変える玉虫色の瞳の美しさに、感傷を持ち合わせぬはずの鬼でさえも思わず息を呑み込んだ。

 ──これほど美しき者が、この世にまたとあろうか。

 玲熙はしばらく虚空を見つめていたが、その瞬間、まるで霞のように姿を消した。
 音もなく、一片の妖気すら残さずに。

 愕然とした鬼は、慌てて玲熙の行方を追った。
 しかし、その気配はまるで掴めず、苛ただしく歯ぎしりをした鬼は、思い出したように残忍な微笑を唇に刻んだ。

「そうだったな。あれが行きたいと望んだ場所は──ただ一つだけだ」

 くつくつと笑い、低く独白をする。

 そして、闇の炎のごとき妖気を呼び起こすと、鬼もまた虚空の中へと姿を溶け込ませたのだった。