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舞の刻



<59>



  それは光珠のような輝きを放っていたが、やがてくるくると廻り、一匹の巨大な狐へと変化した。

 細く尖った顔は真白で、身体を覆う毛は白金色に光り輝き、ふさふさとした尾は九本に分かれている。

 結界を張っていた冴夜子は、驚愕のあまりぽかんと口を開けた。

「──まさか、九尾狐なんて……嘘でしょ」

 九尾狐の妖力は甚大であると伝えられていた。
 一千年を越えた狐は、もはや獣ではなく、神にすら近いものとして「天狐」と呼ばれる。
 また絶世の美女に姿を変え、古来、中国の皇帝や日本の帝を誑かしたことでも有名であった。
 中国ではいくつもの王朝が滅び、日本でも「玉藻前」という名で伝説として残っている。

 要が命令を下すと、九尾狐は風のように従った。

 雷光を身にまとい、さらにあまたの鬼火を従えた妖狐は、晴熙が放った衝撃波をするりとかわし、その身体にまといつく。

 その瞬間、妖狐の身体が黄金に眩く輝いた。

「北獄大帝の名において──我が元に来たれ。黒竜溟冷獄!」

 要が地面に剣を突き立てると、空気が凍りつき、地面から鋭い刃を持った氷柱が晴熙の身体を刺し貫いた。

 さらに空気中に風が渦巻き、氷の結晶と化した水蒸気が小さな刃となって襲いかかってゆく。

 妖狐に身体を呪縛されていた晴熙は、凄まじい断末魔の咆哮を放つと、身体中から黒い血煙を吹き上げていた。

 荒い呼吸を吐いて膝をついた要は、晴熙の身体から離れた妖狐がするすると近寄ってくるのを感じ、秀麗な顔に微笑を浮かべた。

 冷や汗が玉を結んだ額をぬぐうと、式神として使役した天狐が顔のすぐ傍まで近づき、くるりと姿を変えた。

 黄金の髪、媚態を含んだ眼差し、咲き誇る紅梅のように艶やかな唇──。

 突如として人の形をとった妖狐は、まさしく絶世の美女に変化していた。
 かつて殷の紂王を、周の幽王を、そして鳥羽天皇を誘惑した妖艶さのままで。

 潤んだ瞳を要に向け、妖狐であった美女は艶やかに微笑んだ。

「──久しいな。最後にそなたに呼ばれたのは、はて、いつのことであったか」

「あなたに力を貸していただいていたのは私の先祖です。
 記録によれば、その先祖は、あなたに力を貸していただいた直後に急死したらしい。
 恐らく、それから一度も呼ばれてはおらぬのでしょう」

 要の言葉を聞き、妖狐は鈴を転がしたがごとき声で優雅に笑った。

「そなたの先祖とな。 はて、妾には昨日の事のように思えるがのう」

「あなたはずっと眠っていらっしゃった──あなたの真の主を守護しながら」

 苦笑した要を見つめ、妖狐は白い手を差し伸べた。

 そしてついっと指先で要の顎を上げさせ、その秀麗な顔立ちをまじまじと見つめると、首を傾げてにこりと微笑んだ。

「いいや、真にそなたはよく似ておるぞ。
 あの者も、そなたに似てよい男ぶりであった。
 では、報酬を頂戴しようか──」

 そう言い、妖狐は要の頭部を引き寄せた。
 そしてその唇を、甘き蜜のごとき唇で封じる。

 それはあたかも美しい恋人たちが交わす接吻にも見えたが、それが死の口づけであることは、要が一番よく理解していた。

 抱き合っている二人を呆然と見守っていた冴夜子は、途端に要の長身が揺らぎ、地面に頽れるのを見て息を呑んだ。

 地面に倒れた要を見下ろした妖女は、ぺろりと舌先で唇を舐めると、再び姿を変じ、光る宝珠となって融の身体の中へと吸い込まれていった。

 静寂が戻った時、その場から鬼の姿がかき消すように消え失せていた。

 冴夜子は守護の結界を解くと、倒れている要の傍まで走り寄った。
 地面に跪いて顔を覗き込み、目を見開く。
 そして、悲鳴を上げそうになる口許を押さえた。

「……そんな、そんな──どうして!?
 どうして式神に命を奪われなきゃならないのよ。
 そんなの……バカみたいじゃない!!」

 呻くように叫んだ冴夜子は、すでに冷たくなっている要を抱き起こし、その肩を激しく揺さぶった。

 握られていた八握剣が地面に落ち、虚しい音を響かせた。

「──起きてよ、ねえ! こんな所で死んじゃって、悔しくはないの!!」

 助けられた事以上に、哀しみに心を満たされた冴夜子は、気づかない間に涙を流しながら、力を失った要の身体を抱き締めた。

 ──その時、空気が静かに振動した。

 嗚咽を堪えながら、冴夜子がはっと顔を上げると、そこに見たことが無いほど美しい姿をした鬼が立っていた。

 流れる月光のような銀の髪、様々な色を織りなす玉虫色の瞳。
 白い玉石にも似た肌は、暗い曇り空の下でも淡く輝いているようにさえ見えた。

 小袖と袿(うちき)そして袴をつけた姿は、現実とは思えないほど幻想的であり、夢のように美しかった。

「──要? どうして…おまえまで……」

 あたかも宝石同士が触れ合うような美しい声で鬼は呟き、驚愕している冴夜子を悲しげに見つめ、痛々しいまでに清冽な微笑を浮かべた。

「あなたは、誰……?」

 呆然と冴夜子が呟くように問うと、月光を凝縮したような存在は、微かに困惑したような表情を浮かべた。

「どうか今は──まだ聞かないでください。
 それより、彼を寝かせてくださいませんか?」

 柔らかな音楽的な口調でそう言い、眩いほどに美しい銀の鬼は、冴夜子に優しく微笑みかけた。

 そのあまりにも美しい微笑に魅了され、魂を抜き取られてしまいそうにさえ感じる。

 混乱してゆく感情を理性で抑えこみながら、冴夜子はそっと要の身体を横たえた。

 銀鬼はその横に跪くと、透き通るほどに白く見える指先を、要の唇に当てた。

 そして唇が触れ合うほどに顔を近づけ、静かに囁きかける。

「……戻ってきて、要。まだ逝ってはいけない」

 緩やかな抑揚のある声は、母親が優しく子守歌を歌うようにも聞こえ、冴夜子はぼんやりとその様子を見つめるしかなかった。

 美しき妖はさらりと銀色の長い髪を掻き上げると、硬質な感じのある唇で息絶えた男の唇に口づけた。

 ──と、血の気の引いた要の顔に、うっすらと赤みが戻ってくる。

 それを見た銀の鬼は安堵のため息をもらすと、ゆらりと立ち上がった。

 そして、静かに舞うような優美な動作で歩き、胸を抉られて倒れ伏す丞の傍らに跪く。

 悲痛な表情で青ざめた顔を見下ろした銀の鬼は、妖麗に耀う玉虫色の双眸を閉ざすと、その指先を丞の唇に当てた。

 時が流れ、やがて苦しむように柳眉をひそめた鬼は、焦燥に駆られたような眼差しで丞を見下ろした。

 そして美しい衣で覆われた細い腕で冷たい体躯を抱き締めると、ゆっくりと己の唇で丞の唇を塞ぎ、生命の息吹を吹き込む。

 すると、抉られていた胸の傷が徐々に塞がり始め、やがてほとんど跡形も無く消え失せてしまった。