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舞の刻



<60>



「……丞、お願いだから──どうか戻ってきて。
 こんな所で、逝ってはだめだよ」

 はらはらと涙を流しながら、玲熙は何度も口づけを繰り返す。

 すぐに反魂を行った要と違い、黄泉の死闇に囚われてしまったのか、丞の魂はなかなか戻っては来なかった。

「──まだ、言ってないことが沢山ある。
 子犬の名前も、考えるって言ってたのにね。
 いつも助けられてばかりだったのに……満足にお礼も言えてない──」

 冷たく凍えた唇に口づけを与え、玲熙は頭部を支えるように両腕で抱くと、すがりつくように頬をすり寄せた。

 水晶のような涙が、ぽたぽたと丞の顔にかかり、滑り落ちていく。

「……僕の命をあげる……だから死なないで。
 絶対に──逝かないで。
 どうか…どうか……僕をまた……孤独の中に……置いて逝かないで!」

 最後に悲鳴のような声を上げ、玉虫色に美しく耀う双眸が光を放った。

 その瞬間、白い美貌から一切の表情が消え失せ、玲熙は鋭い爪を手刀のように振り下ろし、躊躇うことなく手首を切り裂いた。

 目にも鮮やかな深紅が流れ出し、白い手首から滴り落ちる血を、玲熙は丞の唇へと注ぎこんだ。

「──ここへ…戻っておいで…丞……
 我が元へ……愛し子が──泣いているのだから……」

 激情の失せた静かな声が流れ出し、己の血で紅く染まった唇を見下ろした銀の鬼は、もう一度その魂を呼び戻そうとするように、ゆっくりと唇を重ね合わせたのだった。



 暗い闇をかきわけるように地の底へと下っていった丞は、そこが淡い光彩に満たされた鍾乳洞であることに気づいた。

 海水が流れ込んでいるのか、回遊池のように水辺が広がっており、中央の砂州の上に小さ石造りの祠が建っていた。

 海水池を越えて、砂州へと渡る黒い橋は、いつからそこに架かっていたいたのか判らないほど年月を経ているように見える。

 虹のような弧を描く橋を、黄金に輝く獣は軽やかに渡り、丞の魂を古びた祠の前へと先導していった。

(ここは、この島の中でも最も神聖な場所。
 神社の本殿は、ちょうどこの上の地上に存在しているのだ。
 そして、この祠の真上には、主上へと捧げる生贄の祭壇がある)

(──生贄?)

 思わず顔をしかめて問い返した丞を振り返り、獣は祠の前に座った。

(巫女の舞が無い時は、50年に一度、隠岐宮家から生贄が捧げられた。
 それは主上に対する、一族の忠誠の証。
 もっとも、我が君が望まれていたのは、いつの世でも巫女による浄化の舞であったがな)

 そう告げると、獣は形を歪めて漂う霞となり、ふわりと祠の中へと吸い込まれていった。

 やがて丞が見ている前で、継ぎ目の無い祠の扉がゆっくりと開き始めた。

 そこから溢れ出したのは、目を射るほどの眩い光の波──。

 とぐろを巻くほど長い黄金の髪が木の床に波うち、その頭部には微かに淡い金色をした二本の角がある。

 首から下に続く胴体は存在しないというのに、血を啜ったかのように鮮やかな唇には尖った犬歯の先がのぞいていた。

 瞼は静かに閉ざされてはいたが、彫りの深い、目鼻立ちのはっきりした秀麗な顔立ちであることは明らかだった。

 だが、この存在が古い日本に住んでいたとしたなら、その容貌の際だった差は、誰の目にも奇異に感じられただろう。

 どれだけ美しい顔であろうと、日本人どころか東洋人の血統が持つ容姿ではない。

 ──異形なる異邦の神。

 ふとそんな言葉が脳裏をかすめ、丞は片膝をついて、その鬼の首を見つめた。

 インドやペルシャ──その先は恐らくギリシャやエジプトへと繋がる神々の系譜。
 遙か古き世に東の最果てに流れ着いた神々の末裔が、長い時を経て、『鬼』と呼ばれる存在へと変遷していったのか──。

(……これが、おまえの主でもある、鬼の首領というわけか)

 いつの間にか傍らに戻っていた獣に問いかけると、ゆったりとうなずく波動を感じた。

(然り。されど、ここに奉られているのは、主上が残した力と記憶。
 あれらはそれを奪う気でいるのだ。
 ゆえに、我が君の影である我は、それを守り続けてきた。
 主上が復活をされる、その日まで……)

 その時、鬼神の首が淡い木漏れ日のような光を放ちはじめ、その秀でた額の上に鮮やかな黄金の神紋が浮かび上がった。

 黄金の毛皮をまとった獣は、何かを感じ取ったかのようにふっと宙を仰ぐと、すぐにひたりと双眸を主へと向けた。

 額に浮かんだ神紋は複雑な紋様であったが、その中央に深紅の円が描かれていた。

 太陽の徴にも、抽象的な目のようにも見える。

 やがて、その円形の紋様の中央に亀裂が入り、ゆっくりと肉を割るように深紅に輝く宝石が生まれた。

 額に穿たれたルビーのようなものを、丞はよく見ようと顔を近づけた。

 その瞬間、血を結晶化させたかのような宝石は燦然と光を放ち、周囲の全てを光炎で呑み込んだ。

 丞が身を引こうとすると、光の触手に自由を奪われ、全ての光が一束のレーザーのように飛び込んできた。

 まさしく神紋の浮かんだ額と同じ場所に光が穿たれた瞬間、丞は轟くような雷鳴を間近で聞き、その衝撃に呻き声を上げた。

 しばらくして、耳元で巨大な鐘を撞かれたような凄まじい耳鳴りが治まると、丞は、鬼の額から血の紋様が消え失せていることに気づいた。

(……いったい、どういうことだ?)

(主上の力が、そなたの魂核に封じられたのだ。
 そなたは言ったであろう、我に力を貸すと。
 ゆえに、主上の残された神力を守るために、そなたの内へと移し替えた。
 我もまたそなたの内にある。
 ──どこに封じるよりも安全な場所であろう?)

(──謀ったな……おまえ──)

 過剰な負荷のせいで魂そのものさえもブラックアウトを起こしかけているのか、漆黒の闇が急速に襲いかかってきた。

(しばらくすれば、その状態にも慣れるであろう。
 我は主上の影ゆえに、我が力もまた主上の神力より引き出される。
 我を使役するならば、そなたの内に封じておくのが一番効果的というわけだ)

(……ひとを…バッテリー代わりに……使うな──)

 意識を失う寸前、どこからか哀切を帯びた美しい呼び声が聞こえてきた。

 繰り返し名を呼び、丞を必死で呼び戻そうとしているようにも聞こえる。

(──あの御方が、目覚めようとされている。
 急ぎ…戻らねば──そなたはしばし眠れ……望みは叶えてやろう)

 静かに諭すような声が混ざり、丞を眠りへと誘導してゆく。

 懐かしくさえある優しい声に呼ばれている事を感じながら、丞の魂は、恐ろしいほど荒々しい力を抱え込んだまま、暗い眠りの淵へと引き込まれていった。

 
 深い闇の奥底で、大地の鼓動が聞こえてくる。
 原始の世から繰り返し、繰り返し受け継がれ、次の世へと手渡していった記憶。

 四季は巡り……時を司る者は──螺旋を描き続ける時間を……その手の中に──。