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舞の刻



<61>



 美しい銀の鬼が自らの手を掻き切る様子を見ていた冴夜子は、再び空気が鈍く振動し、今度は凄まじい衝撃波が走るのを感じた。

 とっさに要をかばった冴夜子は、空中にたたずむ漆黒をまとった鬼の姿を見つけ、今度こそ失神するような気分に陥った。

「──もう、何人鬼が出てくれば、気が済むっていうのよぉ。
 この島……やっぱり、奇怪しいんだわ」

 緊張に絶えきれなくなった神経が切れ、泣き出しそうになった冴夜子は、突然手首を強く掴まれ、ひっと喉の奥で悲鳴を上げた。

 恐る恐る見れば、手を掴んでいたのは、先ほど息絶えたはずの要である。

「……つっ。どうやら…僕は生き延びたようですね」

 脳髄を針で串刺しにされたような頭痛に呻いた要は、ゆっくりと上体を起こした。

 そして、傍らで呆然としている冴夜子を見つめ、首をひねった。

「──どうかしましたか、冴夜子さん?」

 呆気にとられていた冴夜子は、しばらく要の顔を見つめていたが、震える指で空の一点を指さした。

 その方向を要は見上げ、すっと目を細める。

「……あれは──晴熙さんか」

 呟き、立ち上がろうとした要は、途端に目眩に襲われ、一瞬目の前が真っ暗になった。

 揺らめいた長身を冴夜子が支え、思い出したように言った。

「だめよ、急に動いちゃ。
 あなた、ついさっきまでは死んでたんだからね」

 意識を覚醒させた要は、冴夜子の言葉に目を見開いた。

「──死んでた? それはどういうことです?」

「覚えてないの?
 あなた、九尾狐とキスした後、一度死んじゃったのよ。
 そうしたら、あそこに倒れている銀の鬼が助けてくれて……」

「銀の鬼──?」

 冴夜子に示されて振り返った要は、丞に折り重なるように倒れている鬼を見つめ、驚いたように叫びながら傍に駆け寄った。

「玲熙さん! しっかりしてください」

 髪の色は漆黒から白銀へと変じ、額に銀の角が見えはしたが、それは紛れもなく玲熙であった。

「──おまえも運の良い男だな、要。
 あの九尾狐の接吻を受けて、生き残ったのはおまえぐらいなものだろう?」

 揶揄するような言葉に宙を振り返った要は、何かを見いだそうというように双眸を細め、悠然と笑う鬼を睨みつけた。

「……あなたは何者です?
 晴熙さんの身体を乗っ取り、操っていたのは、あなただったというわけですか?」

 厳しい口調で詰問した要を見返し、晴熙の肉体を奪った鬼は嘲弄を含んだ声で笑った。

「おまえも、玲熙と同じ事を言うのだな。
 晴熙が古い血に目覚め、鬼と化したのは、あれ自身がそう望んだゆえ。
 おまえほどの男なら、それがどういう事なのか判るであろう?」

 鬼の言葉に表情を強張らせた要は、腕の中に抱いた玲熙の青ざめた美貌を見下ろした。

 そして苦しむように双眸を閉じる。

「──おまえは、晴熙の心を知っていたはずだな?
 晴熙は可愛い弟に恋い焦がれ、邪恋に狂うあまり、自ら望んで鬼となった。
 己の欲望を成就するためなら、我らを受け入れることとて迷わなかった。
 ゆえに、我らは晴熙に力を貸し、その代償として肉体を受け取った。
 後悔は無かろうよ──思いのままに、玲熙の身体を味わったゆえにな」

 ぞっとするような残忍な笑い声を立て、鬼は虚空をゆったりと歩んだ。

 折れそうなほどに華奢な身体を強く抱き締め、悔やむように顔を伏せていた要は、間近から見下ろしてくる鬼を見上げ、冷ややかに告げた。

「晴熙さんの心を利用し、己の欲望を叶えようとしたのは、他ならぬおまえ自身。
 鬼と化した者の肉体を奪い……その後に何を?
 おまえの妖気は一族のものではない。
 恨みを募らせ、邪念に成り下がった人間の怨念が、我が一族の血を利用して、再びこの地を支配しようとしている。
 一族の守護者として、それを許すわけにはいかない」

 その言葉を聞いた鬼は、さも面白いとばかりに唇をつり上げた。

 その表情にはどこか晴熙自身の面影があり、皮肉げな晴熙の口調そのままに、あたかも彼の気持ちを代弁するように、鬼は淡々と告げた。

「一族の守護者──隠れたる鬼神を守る者か。
 そうやって、己の役割の中に本性を隠してきたのか、要?
 自分の欲望を全て内に封じて。
 ああ、そうだったな……おまえはいつも感情を封じて生きてきた。
 全ては隠岐宮家に──玲熙に仕えるために。
 だが、おまえが玲熙を見つめる目を、僕が知らないとでも思っていたか?
 その神秘の身体を、本能の赴くままに抱きたいと思っていたのは、おまえ自身だろう?」

 罪を犯すことを促し、誘うような声で囁いた鬼は、くつくつと低く笑うと、傲然と突き放すような声を発した。

「──だが、我らは欲しいものは手に入れる。
 おまえの力も欲しいところだが、どうあっても邪魔するならば仕方がない。
 もう一度、死んでもらうしかないな」

 鬼は空中から地面に降り立つと、口許に冷酷な微笑を浮かべた。

「さあ、玲熙を渡せ──そうすれば、命だけは取らぬゆえ」

「この方は隠岐宮家の聖なる巫女……欠かすことのできない存在。
 誰であろうと、渡すことはできない」

 決意を秘めた眼差しで拒絶した要を見て、鬼は嘲笑しながら首を傾げた。

「なにゆえそれほど隠岐宮にこだわるのか、その理由を聞かせてもらいたいものだな。
 くだらない伝説に囚われ、過去をいつまでも引きずってどうする。
 そんなものは、捨ててしまえばよかろうに」

「では、おまえこそ何故、古い鬼の姿を求めた?
 その姿こそ、我らが一族の過去の姿。
 過去をひきずるなと言うならば、その姿をとるのは止めるがいい。
 それができないのなら、くだらない過去などとは言わないことだ」

 その舌鋒の鋭さに、鬼は深紅に光る双眸を剣呑に細めた。

 そして唇から微笑を消し去り、恐れもなく睨み返してくる要を見下ろした。

「平行線のようだな、要。
 我らに従えば、おまえの望みを叶えてやろうかとも思ったが」

 鬼は優雅に片手を上げ、あたかも扇を投じるような手つきで空を切った。

 その瞬間、閃き現れた稲妻が竜と化し、冴夜子の守護の結界を突き抜けると、咆哮を上げて要に襲いかかった。

 気を失っている玲熙をかばった要は、攻撃をまともに浴び、激痛に呻いた。

「……どうする、また天狐を呼び出してみるか?
 だが九尾狐に易々と殺される我らではないぞ。
 ──晴熙の幻影とは違ってな」

 残忍な含み笑いをした鬼は、霧散した幻影を思い返すと、高らかに哄笑を放った。

 と、その時、空気が震撼し、恐ろしいほどの殺気が周囲に満ちあふれた。

 背筋に冷水を浴びせかけられたような気分を味わい、要は思わず殺気を放射している源を振り返った。

「──そんな……バカな」

 愕然として目を見開いた要は、その異様な光景に、それ以上の言葉を継げなくなった。

 ゆっくりと体躯を起こそうとしている丞の双眸は、炯々とした黄金の光を放ちながら、じっと鬼の姿を見据えていた。

 その端整な顔に表情はまるでなく、今にも敵に襲いかからんとする獣のような獰猛さだけが、陽炎のように身を包んでいた。