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舞の刻



<62>



 空気を激しく震撼させるほどの殺気に当てられ、気を失っていた融や司も目を覚ます。

 目覚めなければ殺されると思い込んだ本能が、あたかも急速に覚醒を促したようなタイミングであった。

 負傷していた司は、眼鏡がずり落ちそうになるほど目を見開き、変貌しつつある息子の名を呼んだ。

 しかし、ゆらりと地面から身体を起こした丞は、鬼の姿を見据えたまま、さらなる変化をとげようとしていた。

「この波動は…まさか……」

 息を呑んだ要は、腕の中で低く呻いた玲熙に気づき、はっとその顔を見下ろした。

 そして、今日になってから何度目か判らないショックを感じた。

「──額に、紋様が……」

 まるで丞の放つ殺気に呼応するように、玲熙の白い額に不思議な形の紋様が浮かび上がってくる。

 それは雪の結晶にも似ていたが、その両側に美しい弦月が浮かんだ時、要は眉根を寄せた。

 淡い青色をした紋様を指先でなぞると、その瞬間、空気を引き裂くような咆哮が轟いた。

 その声にぎょっとしように身体を起こした融は、丞に身体が変化していくのを見て、悲鳴にも似た叫びを上げた。

「やはり、これは式神の波動か。
 ──融に近いが、どうして実体まで変化する?」

 自分自身の疑問を独白した要は、近くでガタガタと震えている冴夜子を見やり、玲熙の身体を一度地面に横たえた。

 そして立ち上がり、冴夜子の腕を掴む。

「こっちへ、冴夜子さん。結界を張りますから」

「……ど、どうしてなの? 何で、丞があんな……」

 これ以上は無いというほど目を見開き、歯の根が合っていない冴夜子を引き寄せ、要は呪符を取り出し、四方に放った。

 凄まじい衝撃波を巻き起こしながら、その中心で姿を変えていった丞は、やがて、黄金の毛皮を持った巨大な狼へと変貌していた。

 子牛ほどもあるその巨大な狼は、黄金の双眸から光を放ち、島中に響き渡るほどの咆哮を上げた。

「か、か、か、要さん。ど、ど、どうして、丞が…あんな──」

 要の近くに這い寄ってきた融が、冴夜子と似たような状態で、そう訊ねた。

 要は無言でかぶりを振り、喘ぎそうになる唇を噛みしめた。

 そして動揺する感情を鎮めるために深呼吸をした後、冷静な声で自分の推測を話した。

「恐らく、君が割ってしまった、あの鏡のせいだろう。
 あれには、君の中に宿った妖狐と共に、雪姫を絶えず守護してきた大君の式神が眠っていた。
 守護の双璧をなしていたものたちが、鏡が割れたと同時に復活し、互いに器を求めた。
 ──そうとしか、説明しようがない」

「ゆ、雪姫?」

「そう、かの御方は稀代の巫女であり、隠岐宮家の初代当主でもあった。
 沖守家に伝わる文献によれば、雪姫は、この島のどこかに封魔鏡と、神剣、そして勾玉を埋めたらしい。
 多分、君が割ったのは、その封魔鏡なんだろう。
 ──帰ったら、もう一度調べてみる必要があるな」

 話しているうちに落ち着きを取り戻した要の言葉を聞き、融が驚愕したように見上げた。

「帰れるって、帰れるんですか、俺たち?」

「……当たり前だ。
 大君の式神の力に太刀打ちできる者など、大君か雪姫ご自身しかおられないだろう。
 四帝であっても、恐らくは屈するだろうな」

「な、何だか判らないことだらけだけど、帰ったら必ず勉強しますよぉ」

 情け無い声を上げた融は、その神々しいまでに煌めく獣を、呆然と見つめた。

 金色の光を放つ狼は、重い四肢でずしりと地面を踏みしめ、驚愕して立ちすくんでいた鬼の前に立った。

 先ほどまで放たれていた殺気は消え失せていたが、爛々と輝く双眸は、鬼の一挙手一投足をも見逃さないというように、じっと見据えられていた。

 鬼はしばらく敵対した狼を愕然と見返していたが、やがて口許に微笑を浮かべた。

「……そうか、最終的には、やはりおまえが出てくるのか。
 こうなる前に、さっさと始末しておくべきだったかもしれん。
 まさか──あやつの式神の器になどなろうとはな……」

 自嘲めいた薄い笑みを打ち消すと、鬼は妖力で宙へ舞い上がった。

 四足獣を相手取るのならば、上段からの攻撃が有利と判断したのか、鬼は狼を見下ろして片腕を振った。

 轟音が響き渡り、あまたの火炎が弾丸のように降り注ぐ。

 要が張った結界の外は、突然、燃え盛る火の海となった。

 凄まじい熱と火炎に炙られ、ホテルの美しい中庭が姿を消していく。

 結界の中でさえ、要と司が必死で防御していなければ、衝撃波で吹き飛ばされるところであった。

「た、た、丞は? 生きてる? 無事?」

 要の背中にしがみついていた融は、溶岩のように溶け落ちる中庭を見て、泡を食ったように叫んだ。

「──判らないよ、今は。
 それより、しがみつかないでくれないか、融。邪魔だ」

 要が素っ気なく告げると、融は慌てたように後方に下がった。

 やがて、炎の中から黄金の毛並みが現れた。

 巨大な狼はぶるっと身震いすると、身体についた溶岩を払い落とす。

 輝きは失せず、まるで毛筋一本ほどの火傷すら負っていないようであった。

 空中でその様子を見下ろしていた鬼は、さすがに驚愕した面持ちを隠せず、ぎりぎりと歯ぎしりをした。

 そして手刀で風を起こし、稲妻を放った。

 雷光が矢のように飛来し、金狼に襲いかかる。

 しかし巨大な獣はまるでそれを気にした様子もなく立ち尽くし、宙を見上げていたが、軽く後肢で地面を蹴った。

 まるで体重など無いかのように、金狼は虚空に舞い上がった。

 そして鬼に対峙する。

 その姿は、あたかも地獄から現れ出た断罪者のようであった。

「──おまえは…いったい……」

 己の力が全て通用しないことを悟り、鬼は憎悪を込めて金狼を睨んだ。

(──我にそなたの力は通用せぬ。
 何故なら、そなたは我が君の血を引く者の妖力をもって、我を攻撃しているからだ。
 我は主上の影──ゆえに我を倒したければ、鬼族の妖力は用いぬことだ)

 淡々と告げる言葉が響いたが、それは声ではなく、頭脳に直接語りかけてくるものであった。

 憤りのあまり唇を噛みしめ、鬼の口から血が流れ落ちる。

「ならば、おまえを倒した後に、全ての力を手に入れてみせよう」

 そう告げた直後、鬼と化していた晴熙の身体から、数万の蛇が凝り固まったような漆黒の影が飛び出した。

 それは空に広がり、湧き起こった雷雲のように伸縮を繰り返すと、やがて何本もの頭部を持ったヒュドラのような姿へと変じていた。