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舞の刻



<63>



 たとえ虚空で声なき会話が交わされようとも、地上で見守っている人間たちに、その内容は聞こえてこなかった。

 漆黒の大蛇が出現すると、その器であった晴熙の肉体が、すうっと中庭へと降りてきて横たわる。

 鬼の形を保っていたのが大蛇の意思の力であったためか、解放された途端、その姿から角が消え、人間の姿へと戻っていた。

 黄金の巨狼は、その炯々と輝く瞳を大蛇に向けたまま、彫像のように動かなかった。

「──どうして、さっさと攻撃しないのよ。
 どうして、あの子はあそこに浮いたまま、動かないの?」

 ようやく気を取り直したらしい冴夜子が、空中で対峙する二つの影を見つめ、そう言った。

 要はちらりと横目で冴夜子を見やり、強大な式神を「あの子」と言ってのけた彼女を、呆れ半分、驚嘆半分で評価した。

「まるで、何かを待っているかのようですね。
 大蛇の動きを見守っているとでもいうか──」

 冴夜子の問いに答えるように、要が言った。

 すると、後ろに控えていた融が、ぽんと手を叩いた。

「判った。丞は、玲熙が起きるのを待っているんだ。
 式神は、主人の命令が無ければ──敵を攻撃することができない」

 その言葉に要を愕然と目を見開き、融を見つめた。

「何も知らない融にしては、珍しく鋭い指摘だな」

「……珍しくって、どういう意味ですか。
 でも、実を言うと、俺の考えじゃないんです。
 俺の中にいる妖狐の考えなんですよ。
 ──こそっと、教えてくれたんで」

「妖狐が? おまえに話しかけているのか?」

 融の言葉は、別の意味で要に衝撃を与えた。

「ええ、俺が気を失っていた時、発破をかけてきました。
 俺に死なれると、彼女もちょっと困るんだそうです」

 自分の言葉の異様さに気づかないのか、融は頭を掻きながらそう言った。

 それをしげしげと眺めていた要は、深い嘆息と共に、肺の中の息を吐き出した。

「──そうか。妖狐と仲良くなったのなら結構だ。
 だが、くれぐれも意識だけは乗っ取られないようにしろ」

「ああ、それはちょっとどころじゃなく、やばいなあ」

 場違いなほど脳天気に笑っている融を見て、要は思わずかぶりを振っていた。
 どうやら、強大な式神である九尾狐の顕現が、その器となった融に何らかの影響を与えているらしかった。

 と、その傍らで横たわっていた玲熙が、低く呻いた後、ゆっくりと瞼を上げた。

 そして、ぼんやりとした顔で周囲を見回す。

 その瞬間、空中でぴくりとも動かなかった金狼が、突然、攻撃に転じた。

 黄金の毛が逆立ち、閃く雷光を身にまとう。
 そして、それは数万もの矢と化して、不気味に揺らめく大蛇を襲撃した。

 のたうち回るように長大な身をくねらせ、稲妻の檻の中で悶え苦しんだ大蛇は、いくつもの鎌首をもたげ、深紅に光る双眸から赤光を放った。

 それは地獄の業火のように吹き上がり、稲妻を弾き飛ばす。
 炎をまとった大蛇は、威嚇するように巨大な口を開き、黒煙を吐き出しながら、毒の滴る牙を剥きだした。

 突如として大蛇の鎌首の一つが飛び出し、金狼の肩に食らいつく。

 噛み千切るように激しく頭を振ると、先ほどまではどんな攻撃にも傷一つ負わなかった巨狼の毛が飛び散り、黄金の血が驟雨のように巻き散った。

 鋭い咆哮を上げた狼は、大蛇の毒牙の下から飛び退き、その喉笛に食らいつく。

 一息でその黒い鎌首を引き裂いた黄金の獣は、しかし同時に他の牙に襲いかかられ、肩や四肢に鞭のように絡みつかれていた。

 毒牙が食い込んだ場所から、毒々しい黒炎が吹き出す。

 その炎は先刻までの比ではなく、巨狼の輝かしい毛皮が燃え上がり、開いた傷口の肉を焼き焦がした。

 苦痛の唸り声を上げた金狼は、その鋼のように強靱な体躯を揺すり、己の肉を噛み千切らんとする大蛇を振り落とした。

 光炎と、雷光が同時に放たれ、光の矢は燃え盛る流星のように闇の蛇神を貫いた。

 凄絶な戦いに目を奪われていた融は、要の腕の中から立ち上がった玲熙の──神々しいほどに清麗な銀の鬼の姿に気づき、呆気にとられて大きな目を瞬かせた。

 妖しく、神秘的に輝く水色の瞳が、融を見下ろし、微笑むように細められた。

 その美しい笑顔は玲熙のものであるというのに、オパールのように色を変える瞳には、限りない慈愛と底知れないほどの哀しみが存在していた。

 どれほどの絶望を乗り越えれば、これほど澄んだ、神のごとき眼差しを持てるのか──。

 穢れのない白銀の月光を結晶させたかのような鬼は、何かを捧げ持つように両手を前方へと差し出した。

 その白い掌の上に朧げな淡い光が集まり、やがて形を作ってゆく。

 そこに現れたのは、峰月司が沖月島に持ってきた、『雪の女神』の面であった。

 その神秘的な、神々しい面は──その銀の鬼の美貌に似ていた。

「──この面を、晴熙の顔に。
 早く……あの禍つ神が、再び入り込まないうちに」

 美しい声は玲熙と同じであったが、遙かに威厳に満ちた響きがあった。

「だけど……この結界を出たら、焼け死んじゃいそうで──」

 辺り一面、炎の海と化した中庭を見渡し、融が混乱したように言うと、白銀に輝く鬼は、すいっと片手を上げ、晴熙の肉体を指し示した。

 その瞬間、灼熱の炎の波が分かたれ、その間に一筋の道が通される。

 銀の道はきらきらと処女雪のような輝きを放ち、決してその中に火炎を侵入させることはなかった。

「お行きなさい、融。
 要は結界を守らねばならず、私はあの邪神を封じねばならない。
 そなたの役目は、一族の血を、これ以上利用させぬこと」

 『女神』の面を手渡された融は、姿と共にその精神までもが変わってしまったかのような親友を見つめると、決心したようにうなずいた。

 銀の鬼は優しく微笑むと、背後に司と冴夜子を守っている要を見つめた。

「──融と共に、私も外へ出ます。
 そなたはここで、彼らの身を守りなさい」

「しかし……それでは、あなたの身が──」

 「危険だ」と要が言おうとした時、美しき鬼は大蛇を追いつめようとする金狼を仰ぎ、その端整な唇に懐かしむような微笑みを浮かべた。

「私は大丈夫──あれが、私を守るでしょう。
 いつも私は守られていました……大君の影に」

 ふと悲しげに耀う瞳を伏せた銀の鬼は、しかしすぐに顔を上げると、面を持った融を導くように結界の外へと足を踏み出した。

 地面に横たわった晴熙の方へ、融が駿足で走っていく。

 瞼の閉ざされた顔に『女神』の面が被された瞬間、逃げ場を失った大蛇が狂ったようにのたうち、憎悪を込めて銀の鬼を睨み下ろした。

『再び、我らの邪魔をするか──鬼族の祭祀よ。
 面の中に封じられた恨みを、今ここで晴らしてくれるわ』

 幾つもの音が重なり合ったような不気味な声が響き渡り、闇が凝ったかのような大蛇の双眸が禍々しい、血のごとく紅い光を放った。